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吠える番犬、凍る鎖(1)
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東京、世田谷区経堂。 築20年の木造アパートの壁は薄く、隣人の生活音や、通りを走る車の音が筒抜けだ。 だが、今の俺の耳障りになっているのは、そんな騒音ではなかった。
ポロン、ポロン、タン……。
狭いリビングに置かれたアップライトピアノ。 小学4年生になる娘の美咲(みさき)が、発表会に向けて練習をしている音だ。 つっかえては止まり、止まっては最初から弾き直す。 そのたどたどしいメロディを聞いていると、俺の胃袋のあたりが重くなる。
「……あなた。ちょっと」
キッチンから、妻の疲れた声がした。 俺は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、重い腰を上げた。
「なんだ」
「今月の明細、見た?」
妻が差し出したのは、電気代の請求書と、ピアノ教室の月謝袋だった。 俺は無言でそれを受け取り、眉間を揉んだ。 刑事の給料は、世間が思っているほど高くない。
特に、俺のような所轄の万年ヒラ刑事にとっては、東京での生活は綱渡りだ。 住宅ローンのボーナス払い、車の維持費、そして娘の教育費。 数字の羅列が、俺の首を真綿のように絞めてくる。
「……ピアノ、辞めさせられないか」
「そんなこと言わないでよ。美咲、あんなに頑張ってるのに」
「わかってる。わかってるけどな……」
俺は言葉を濁した。 これ以上言えば、喧嘩になる。 俺は逃げるように上着を掴んだ。 今日は非番だが、家にいたくない。
「ちょっと署に行ってくる。やり残した書類があるんだ」
「あなた! まだ話は……」
妻の声を背中で遮り、俺は玄関を出た。 外は冷たい雨が降っていた。
***
署に着くと、生活安全課のデスクが慌ただしかった。 俺は自分の席に座り、コーヒーを啜ろうとしたが、後輩の刑事に呼び止められた。
「あ、犬飼さん。ちょうどよかった。県警から協力要請が来てますよ」
「県警? 俺にか」
「ええ。西伊豆の方で、行方不明者が出たとかで。 失踪者の最後の足取りが、犬飼さんが昔担当した『あの一家心中事件』の現場周辺らしいんですよ」
――一家心中事件。 その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日の光景が蘇った。 1年前。西伊豆の崖の上に建つ洋館。 首のない両親の死体。 干からびた姉の死体。 そして、血の海の中で呆然と立ち尽くしていた、双子の妹――世璃。
「……おい。行方不明ってのは、誰だ」
「東京の興信所の探偵と、その依頼人の女性です。里見という元家庭教師らしいんですが」
俺は眉をひそめた。 探偵と、家庭教師。 それが、あの屋敷に関わって消えた。 きな臭い。 ただの失踪じゃない。あの家には、まだ何かがある。
「わかった。俺が行く」
俺は立ち上がった。 正義感からではない。 あの屋敷の後見人になった叔父が、最近、株で大儲けしているという噂を耳にしていたからだ。
もし、その叔父が何かやらかしているなら。 それをネタに揺すれば、少しは小遣い稼ぎになるかもしれない。 あるいは、手柄を立てて昇進すれば、給料が上がるかもしれない。
そんな浅ましい計算が、俺の足を西伊豆へと向かわせた。 人間は「正義」なんかじゃ生きられない。金と飯がなければ生きられないんだ。
ポロン、ポロン、タン……。
狭いリビングに置かれたアップライトピアノ。 小学4年生になる娘の美咲(みさき)が、発表会に向けて練習をしている音だ。 つっかえては止まり、止まっては最初から弾き直す。 そのたどたどしいメロディを聞いていると、俺の胃袋のあたりが重くなる。
「……あなた。ちょっと」
キッチンから、妻の疲れた声がした。 俺は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、重い腰を上げた。
「なんだ」
「今月の明細、見た?」
妻が差し出したのは、電気代の請求書と、ピアノ教室の月謝袋だった。 俺は無言でそれを受け取り、眉間を揉んだ。 刑事の給料は、世間が思っているほど高くない。
特に、俺のような所轄の万年ヒラ刑事にとっては、東京での生活は綱渡りだ。 住宅ローンのボーナス払い、車の維持費、そして娘の教育費。 数字の羅列が、俺の首を真綿のように絞めてくる。
「……ピアノ、辞めさせられないか」
「そんなこと言わないでよ。美咲、あんなに頑張ってるのに」
「わかってる。わかってるけどな……」
俺は言葉を濁した。 これ以上言えば、喧嘩になる。 俺は逃げるように上着を掴んだ。 今日は非番だが、家にいたくない。
「ちょっと署に行ってくる。やり残した書類があるんだ」
「あなた! まだ話は……」
妻の声を背中で遮り、俺は玄関を出た。 外は冷たい雨が降っていた。
***
署に着くと、生活安全課のデスクが慌ただしかった。 俺は自分の席に座り、コーヒーを啜ろうとしたが、後輩の刑事に呼び止められた。
「あ、犬飼さん。ちょうどよかった。県警から協力要請が来てますよ」
「県警? 俺にか」
「ええ。西伊豆の方で、行方不明者が出たとかで。 失踪者の最後の足取りが、犬飼さんが昔担当した『あの一家心中事件』の現場周辺らしいんですよ」
――一家心中事件。 その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日の光景が蘇った。 1年前。西伊豆の崖の上に建つ洋館。 首のない両親の死体。 干からびた姉の死体。 そして、血の海の中で呆然と立ち尽くしていた、双子の妹――世璃。
「……おい。行方不明ってのは、誰だ」
「東京の興信所の探偵と、その依頼人の女性です。里見という元家庭教師らしいんですが」
俺は眉をひそめた。 探偵と、家庭教師。 それが、あの屋敷に関わって消えた。 きな臭い。 ただの失踪じゃない。あの家には、まだ何かがある。
「わかった。俺が行く」
俺は立ち上がった。 正義感からではない。 あの屋敷の後見人になった叔父が、最近、株で大儲けしているという噂を耳にしていたからだ。
もし、その叔父が何かやらかしているなら。 それをネタに揺すれば、少しは小遣い稼ぎになるかもしれない。 あるいは、手柄を立てて昇進すれば、給料が上がるかもしれない。
そんな浅ましい計算が、俺の足を西伊豆へと向かわせた。 人間は「正義」なんかじゃ生きられない。金と飯がなければ生きられないんだ。
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