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泥だらけの靴と、消えた善意(7)
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「……ごめんなさい、先生」
お兄様が、先生の手をそっと離した。 名残惜しそうに、指先が触れ合うギリギリのところで、ためらいながら。 俯いたまま、かすれた声で言った。
「僕は……ここを離れるわけにはいきません」
「どうして!?」
先生が身を乗り出す。
「お金のことなら心配しなくていいのよ。叔父様の許可だって、法的な手続きをとれば……」
「違うんです」
お兄様は首を横に振った。 そして、隣に座っているあたしの肩を抱き寄せた。
「世璃がいるからです。 この子は、僕がいないと生きていけないんです。 両親があんなことになって……精神的にも不安定で。 僕が守ってあげなきゃいけないんです」
――嘘つき。
あたしは、お兄様のシャツ越しに伝わる心臓の音を聞いていた。 ドクン、ドクン。 早鐘を打っている。 お兄様は嘘をついている。
守られているのは、お兄様のほうだ。 一人になるのが怖くて、那美の幻影を失うのが怖くて、あたしという怪物に縋っているのは、お兄様のほうなのに。 でも、お兄様はそうやって「妹を守る兄」という役割を演じていないと、心が壊れてしまうのだ。
そして、その見え透いた嘘が、私と一緒にいることを選択してくれた結果だと思うと、心臓が張り裂けそうなくらいの喜びに満たされる。
――ああ!お兄様!なんて優しいんだろう!
「静くん、それはよくないわ! 君が犠牲になることはないの。世璃ちゃんだって、専門の施設に入ったほうが幸せになれるわ!」
黙れ、黙れ、黙れ!あたしたちの幸せを冒涜する奴め!邪悪な冒涜者!!
「帰ってください」
お兄様は顔を背けた。 拒絶の言葉。でもその声は、泣き出しそうに震えていた。
「……お願いします。もう、構わないでください」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。 先生はしばらく黙って、お兄様の横顔を見つめていたけれど、やがて深く、諦めたようなため息をついた。
彼女は悟ったのだ。 今の静くんには、何を言っても届かない、と。 でも、それは「撤退」であって「敗北」ではない。 彼女の目には、まだ強い光が宿っている。 『今日は引くけれど、次はもっと強引な手段を使ってでも連れ出す』という決意の光だ。
――しつこい泥棒猫。 一度狙い定めたら離さない、邪悪な冒涜者。
生かしてはおけない。
「わかったわ。今日は帰るわね」
先生は立ち上がり、鞄を持った。 そして、あたしの頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
「世璃ちゃんも、お大事にね。……また来るから」
触るな。 そのきれいな手で、あたしに触れるな。 あたしは反射的に、先生の手首を噛みちぎりそうになったけれど、ぐっと堪えた。 お兄様が見ているから。 リビングを血の海にしたら、お兄様が掃除をする羽目になってしまうから。
「はい。さようなら、先生」
あたしはニッコリと笑った。 先生は背を向けて、玄関へと歩いていく。
「世璃。……先生を、門までお見送りしてあげて」
お兄様が、疲れきった声で言った。 あたしは弾むような声で答えた。
「うん! わかった、お兄様!」
あたしはスキップするように、先生の後ろを追いかけた。 玄関を出る。 外の空気は、雨上がり特有の湿気を帯びていた。 昨日の雨で、庭の土はぬかるんでいる。 柔らかい土。 穴を掘るには、ちょうどいい日だ。
先生のパンプスが、泥に沈む。 彼女は足元を気にしながら、鉄の門へと向かう。 あたしはその背後を、足音を消して歩いた。
5メートル。 10メートル。 リビングの窓からは、もう見えない死角に入った。
「先生、待って」
鉄の門の手前で、あたしは呼び止めた。 先生が立ち止まり、振り返る。
「なあに、世璃ちゃん? ……やっぱり、お兄様のこと心配?」
先生は、あたしに優しい目を向けた。 どこまでも「善人」な人。 しかし、あたしにとっては違う。 自分が今、断崖絶壁の縁に立っていることも知らずに、私を見ている。
あたしは一歩近づいた。 鼻をひくつかせる。 ああ、やっぱり。 正義のにおいがする肉は、とっても美味しそうだ。 叔父様の脂っこい肉とは違う、上質な赤身の匂い。
「あのね、先生。いいことを教えてあげる」
あたしは先生の耳元に口を寄せた。 先生は屈み込んで、耳を貸してくれた。
「お兄様はね、あたしの『ご飯』なの」
「え……?」
「お兄様の絶望も、時間も、人生も、ぜんぶあたしが食べてあげるの。 だから、泥棒猫は……」
あたしの口が、みしりと音を立てて裂けた。 人間の関節が外れる、嫌な音。 先生が目を見開き、息を呑む。 その瞳に、あたしの口の中の「深淵」が映る。
「――食べちゃわないと、いけないの」
先生が悲鳴をあげる暇は、なかった。
ガブッ。 あたしは先生の喉笛に食らいついた。 熱くて、鉄の臭いがするスープが口の中に溢れる。 先生の鞄が落ちて、泥の中に沈んだ。
ゴボッ、ヒューッ……。 先生の喉から空気が漏れる音。 この音を聞くといつも笑ってしまう。 先生は膝から崩れ落ち、泥の上で弱々しい力でもがいた。 あたしはその身体を押さえつけ、無邪気に笑った。
大丈夫よ、先生。 痛いのはもうお終い。 あたしが綺麗に食べて、お庭の百合の花の下に埋めてあげる。 そうしたら、あなたは永遠にお兄様の側にいわれるわ。なれるわ。
窓の向こうで、お兄様が待っている。 早く戻らなきゃ。 お茶が冷めてしまう前に。
10分後。 あたしはリビングに戻った。 玄関でスニーカーを脱いだとき、泥と一緒に、赤黒い塊がいくつか落ちたけれど、それは後で掃除すればいい。
口の周りだけは、洗面所で丁寧に洗ってきた。 鏡に映るあたしの顔は、少し血色が良くなって、ツヤツヤしている。 やっぱり、善人の肉は栄養価が高いみたい。
「……世璃?」
リビングに入ると、お兄様が振り返った。 彼はソファで膝を抱えて、ぼんやりと窓の外を見ていた。 その視線の先、庭の片隅には、新しく植えられた百合の球根がある。 あたしがさっき、先生と一緒に埋めた場所だ。
「先生は?」
お兄様が聞いた。 声が震えている。 あたしは、パジャマのポケットに手を突っ込んだまま、明るく答えた。
「帰ったよ。 『もう二度と来ない』って言ってた」
「……そうか」
お兄様は、それ以上なにも聞かなかった。 先生が乗ってきたタクシーの音がしなかったことも。 あたしが戻ってくるのが、見送るにしては少し遅かったことも。 そして、あたしのパジャマの裾に、泥と鉄錆のようなシミがついていることも。
すべてを見て、見ないふりをした。 賢いお兄様。 優しいお兄様。 そう、それでいいの。 外の世界のことなんて、お兄様は知らなくていい。
「お腹すいたね、お兄様。 きょうの夕飯は、あたしが作るね」
「……うん」
お兄様は力なく頷いた。 その横顔は、さっきまでの希望に満ちた顔じゃなかった。 光を失って、あたしと同じ「こちらの世界」に沈んでいく人の顔だ。 その絶望の匂いが、あたしの食欲をまた刺激する。
あたしは鼻歌交じりにキッチンへ向かった。 窓の外では、また雨が降り出している。 雨がすべてを洗い流し、土を固めてくれるだろう。 来年の春には、庭の百合が、今までで一番きれいに咲くはずだ。
――さようなら、先生。 お兄様は渡さない。 お兄様は、あたしだけのものだから。
冷蔵庫を開ける。 城の平和は、今日も守られたのだ。
お兄様が、先生の手をそっと離した。 名残惜しそうに、指先が触れ合うギリギリのところで、ためらいながら。 俯いたまま、かすれた声で言った。
「僕は……ここを離れるわけにはいきません」
「どうして!?」
先生が身を乗り出す。
「お金のことなら心配しなくていいのよ。叔父様の許可だって、法的な手続きをとれば……」
「違うんです」
お兄様は首を横に振った。 そして、隣に座っているあたしの肩を抱き寄せた。
「世璃がいるからです。 この子は、僕がいないと生きていけないんです。 両親があんなことになって……精神的にも不安定で。 僕が守ってあげなきゃいけないんです」
――嘘つき。
あたしは、お兄様のシャツ越しに伝わる心臓の音を聞いていた。 ドクン、ドクン。 早鐘を打っている。 お兄様は嘘をついている。
守られているのは、お兄様のほうだ。 一人になるのが怖くて、那美の幻影を失うのが怖くて、あたしという怪物に縋っているのは、お兄様のほうなのに。 でも、お兄様はそうやって「妹を守る兄」という役割を演じていないと、心が壊れてしまうのだ。
そして、その見え透いた嘘が、私と一緒にいることを選択してくれた結果だと思うと、心臓が張り裂けそうなくらいの喜びに満たされる。
――ああ!お兄様!なんて優しいんだろう!
「静くん、それはよくないわ! 君が犠牲になることはないの。世璃ちゃんだって、専門の施設に入ったほうが幸せになれるわ!」
黙れ、黙れ、黙れ!あたしたちの幸せを冒涜する奴め!邪悪な冒涜者!!
「帰ってください」
お兄様は顔を背けた。 拒絶の言葉。でもその声は、泣き出しそうに震えていた。
「……お願いします。もう、構わないでください」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。 先生はしばらく黙って、お兄様の横顔を見つめていたけれど、やがて深く、諦めたようなため息をついた。
彼女は悟ったのだ。 今の静くんには、何を言っても届かない、と。 でも、それは「撤退」であって「敗北」ではない。 彼女の目には、まだ強い光が宿っている。 『今日は引くけれど、次はもっと強引な手段を使ってでも連れ出す』という決意の光だ。
――しつこい泥棒猫。 一度狙い定めたら離さない、邪悪な冒涜者。
生かしてはおけない。
「わかったわ。今日は帰るわね」
先生は立ち上がり、鞄を持った。 そして、あたしの頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
「世璃ちゃんも、お大事にね。……また来るから」
触るな。 そのきれいな手で、あたしに触れるな。 あたしは反射的に、先生の手首を噛みちぎりそうになったけれど、ぐっと堪えた。 お兄様が見ているから。 リビングを血の海にしたら、お兄様が掃除をする羽目になってしまうから。
「はい。さようなら、先生」
あたしはニッコリと笑った。 先生は背を向けて、玄関へと歩いていく。
「世璃。……先生を、門までお見送りしてあげて」
お兄様が、疲れきった声で言った。 あたしは弾むような声で答えた。
「うん! わかった、お兄様!」
あたしはスキップするように、先生の後ろを追いかけた。 玄関を出る。 外の空気は、雨上がり特有の湿気を帯びていた。 昨日の雨で、庭の土はぬかるんでいる。 柔らかい土。 穴を掘るには、ちょうどいい日だ。
先生のパンプスが、泥に沈む。 彼女は足元を気にしながら、鉄の門へと向かう。 あたしはその背後を、足音を消して歩いた。
5メートル。 10メートル。 リビングの窓からは、もう見えない死角に入った。
「先生、待って」
鉄の門の手前で、あたしは呼び止めた。 先生が立ち止まり、振り返る。
「なあに、世璃ちゃん? ……やっぱり、お兄様のこと心配?」
先生は、あたしに優しい目を向けた。 どこまでも「善人」な人。 しかし、あたしにとっては違う。 自分が今、断崖絶壁の縁に立っていることも知らずに、私を見ている。
あたしは一歩近づいた。 鼻をひくつかせる。 ああ、やっぱり。 正義のにおいがする肉は、とっても美味しそうだ。 叔父様の脂っこい肉とは違う、上質な赤身の匂い。
「あのね、先生。いいことを教えてあげる」
あたしは先生の耳元に口を寄せた。 先生は屈み込んで、耳を貸してくれた。
「お兄様はね、あたしの『ご飯』なの」
「え……?」
「お兄様の絶望も、時間も、人生も、ぜんぶあたしが食べてあげるの。 だから、泥棒猫は……」
あたしの口が、みしりと音を立てて裂けた。 人間の関節が外れる、嫌な音。 先生が目を見開き、息を呑む。 その瞳に、あたしの口の中の「深淵」が映る。
「――食べちゃわないと、いけないの」
先生が悲鳴をあげる暇は、なかった。
ガブッ。 あたしは先生の喉笛に食らいついた。 熱くて、鉄の臭いがするスープが口の中に溢れる。 先生の鞄が落ちて、泥の中に沈んだ。
ゴボッ、ヒューッ……。 先生の喉から空気が漏れる音。 この音を聞くといつも笑ってしまう。 先生は膝から崩れ落ち、泥の上で弱々しい力でもがいた。 あたしはその身体を押さえつけ、無邪気に笑った。
大丈夫よ、先生。 痛いのはもうお終い。 あたしが綺麗に食べて、お庭の百合の花の下に埋めてあげる。 そうしたら、あなたは永遠にお兄様の側にいわれるわ。なれるわ。
窓の向こうで、お兄様が待っている。 早く戻らなきゃ。 お茶が冷めてしまう前に。
10分後。 あたしはリビングに戻った。 玄関でスニーカーを脱いだとき、泥と一緒に、赤黒い塊がいくつか落ちたけれど、それは後で掃除すればいい。
口の周りだけは、洗面所で丁寧に洗ってきた。 鏡に映るあたしの顔は、少し血色が良くなって、ツヤツヤしている。 やっぱり、善人の肉は栄養価が高いみたい。
「……世璃?」
リビングに入ると、お兄様が振り返った。 彼はソファで膝を抱えて、ぼんやりと窓の外を見ていた。 その視線の先、庭の片隅には、新しく植えられた百合の球根がある。 あたしがさっき、先生と一緒に埋めた場所だ。
「先生は?」
お兄様が聞いた。 声が震えている。 あたしは、パジャマのポケットに手を突っ込んだまま、明るく答えた。
「帰ったよ。 『もう二度と来ない』って言ってた」
「……そうか」
お兄様は、それ以上なにも聞かなかった。 先生が乗ってきたタクシーの音がしなかったことも。 あたしが戻ってくるのが、見送るにしては少し遅かったことも。 そして、あたしのパジャマの裾に、泥と鉄錆のようなシミがついていることも。
すべてを見て、見ないふりをした。 賢いお兄様。 優しいお兄様。 そう、それでいいの。 外の世界のことなんて、お兄様は知らなくていい。
「お腹すいたね、お兄様。 きょうの夕飯は、あたしが作るね」
「……うん」
お兄様は力なく頷いた。 その横顔は、さっきまでの希望に満ちた顔じゃなかった。 光を失って、あたしと同じ「こちらの世界」に沈んでいく人の顔だ。 その絶望の匂いが、あたしの食欲をまた刺激する。
あたしは鼻歌交じりにキッチンへ向かった。 窓の外では、また雨が降り出している。 雨がすべてを洗い流し、土を固めてくれるだろう。 来年の春には、庭の百合が、今までで一番きれいに咲くはずだ。
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