14 / 24
吠える番犬、凍る鎖(1)
しおりを挟む
東京、世田谷区経堂。 築20年の木造アパートの壁は薄く、隣人の生活音や、通りを走る車の音が筒抜けだ。 だが、今の俺の耳障りになっているのは、そんな騒音ではなかった。
ポロン、ポロン、タン……。
狭いリビングに置かれたアップライトピアノ。 小学4年生になる娘の美咲(みさき)が、発表会に向けて練習をしている音だ。 つっかえては止まり、止まっては最初から弾き直す。 そのたどたどしいメロディを聞いていると、俺の胃袋のあたりが重くなる。
「……あなた。ちょっと」
キッチンから、妻の疲れた声がした。 俺は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、重い腰を上げた。
「なんだ」
「今月の明細、見た?」
妻が差し出したのは、電気代の請求書と、ピアノ教室の月謝袋だった。 俺は無言でそれを受け取り、眉間を揉んだ。 刑事の給料は、世間が思っているほど高くない。
特に、俺のような所轄の万年ヒラ刑事にとっては、東京での生活は綱渡りだ。 住宅ローンのボーナス払い、車の維持費、そして娘の教育費。 数字の羅列が、俺の首を真綿のように絞めてくる。
「……ピアノ、辞めさせられないか」
「そんなこと言わないでよ。美咲、あんなに頑張ってるのに」
「わかってる。わかってるけどな……」
俺は言葉を濁した。 これ以上言えば、喧嘩になる。 俺は逃げるように上着を掴んだ。 今日は非番だが、家にいたくない。
「ちょっと署に行ってくる。やり残した書類があるんだ」
「あなた! まだ話は……」
妻の声を背中で遮り、俺は玄関を出た。 外は冷たい雨が降っていた。
***
署に着くと、生活安全課のデスクが慌ただしかった。 俺は自分の席に座り、コーヒーを啜ろうとしたが、後輩の刑事に呼び止められた。
「あ、犬飼さん。ちょうどよかった。県警から協力要請が来てますよ」
「県警? 俺にか」
「ええ。西伊豆の方で、行方不明者が出たとかで。 失踪者の最後の足取りが、犬飼さんが昔担当した『あの一家心中事件』の現場周辺らしいんですよ」
――一家心中事件。 その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日の光景が蘇った。 1年前。西伊豆の崖の上に建つ洋館。 首のない両親の死体。 干からびた姉の死体。 そして、血の海の中で呆然と立ち尽くしていた、双子の妹――世璃。
「……おい。行方不明ってのは、誰だ」
「東京の興信所の探偵と、その依頼人の女性です。里見という元家庭教師らしいんですが」
俺は眉をひそめた。 探偵と、家庭教師。 それが、あの屋敷に関わって消えた。 きな臭い。 ただの失踪じゃない。あの家には、まだ何かがある。
「わかった。俺が行く」
俺は立ち上がった。 正義感からではない。 あの屋敷の後見人になった叔父が、最近、株で大儲けしているという噂を耳にしていたからだ。
もし、その叔父が何かやらかしているなら。 それをネタに揺すれば、少しは小遣い稼ぎになるかもしれない。 あるいは、手柄を立てて昇進すれば、給料が上がるかもしれない。
そんな浅ましい計算が、俺の足を西伊豆へと向かわせた。 人間は「正義」なんかじゃ生きられない。金と飯がなければ生きられないんだ。
ポロン、ポロン、タン……。
狭いリビングに置かれたアップライトピアノ。 小学4年生になる娘の美咲(みさき)が、発表会に向けて練習をしている音だ。 つっかえては止まり、止まっては最初から弾き直す。 そのたどたどしいメロディを聞いていると、俺の胃袋のあたりが重くなる。
「……あなた。ちょっと」
キッチンから、妻の疲れた声がした。 俺は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、重い腰を上げた。
「なんだ」
「今月の明細、見た?」
妻が差し出したのは、電気代の請求書と、ピアノ教室の月謝袋だった。 俺は無言でそれを受け取り、眉間を揉んだ。 刑事の給料は、世間が思っているほど高くない。
特に、俺のような所轄の万年ヒラ刑事にとっては、東京での生活は綱渡りだ。 住宅ローンのボーナス払い、車の維持費、そして娘の教育費。 数字の羅列が、俺の首を真綿のように絞めてくる。
「……ピアノ、辞めさせられないか」
「そんなこと言わないでよ。美咲、あんなに頑張ってるのに」
「わかってる。わかってるけどな……」
俺は言葉を濁した。 これ以上言えば、喧嘩になる。 俺は逃げるように上着を掴んだ。 今日は非番だが、家にいたくない。
「ちょっと署に行ってくる。やり残した書類があるんだ」
「あなた! まだ話は……」
妻の声を背中で遮り、俺は玄関を出た。 外は冷たい雨が降っていた。
***
署に着くと、生活安全課のデスクが慌ただしかった。 俺は自分の席に座り、コーヒーを啜ろうとしたが、後輩の刑事に呼び止められた。
「あ、犬飼さん。ちょうどよかった。県警から協力要請が来てますよ」
「県警? 俺にか」
「ええ。西伊豆の方で、行方不明者が出たとかで。 失踪者の最後の足取りが、犬飼さんが昔担当した『あの一家心中事件』の現場周辺らしいんですよ」
――一家心中事件。 その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日の光景が蘇った。 1年前。西伊豆の崖の上に建つ洋館。 首のない両親の死体。 干からびた姉の死体。 そして、血の海の中で呆然と立ち尽くしていた、双子の妹――世璃。
「……おい。行方不明ってのは、誰だ」
「東京の興信所の探偵と、その依頼人の女性です。里見という元家庭教師らしいんですが」
俺は眉をひそめた。 探偵と、家庭教師。 それが、あの屋敷に関わって消えた。 きな臭い。 ただの失踪じゃない。あの家には、まだ何かがある。
「わかった。俺が行く」
俺は立ち上がった。 正義感からではない。 あの屋敷の後見人になった叔父が、最近、株で大儲けしているという噂を耳にしていたからだ。
もし、その叔父が何かやらかしているなら。 それをネタに揺すれば、少しは小遣い稼ぎになるかもしれない。 あるいは、手柄を立てて昇進すれば、給料が上がるかもしれない。
そんな浅ましい計算が、俺の足を西伊豆へと向かわせた。 人間は「正義」なんかじゃ生きられない。金と飯がなければ生きられないんだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる