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泥だらけの靴と、消えた善意(6)
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リビングのソファに、お兄様と先生が向き合って座る。 あたしは、お兄様の隣にぴたりと張り付くように座った。 まるで、自分の所有物にタグ付けをするみたいに。
テーブルの上には、あたしが淹れた紅茶と、缶入りのクッキーが並んでいる。 紅茶の湯気が、気まずい沈黙の間を揺らめきながら立ち昇る。
「……静くん。ずいぶんと、模様替えをしたのね」
先生が、部屋を見回しながら言った。 その視線は、壁に掛けられた悪趣味な極彩色の絵画や、床に置かれた金メッキの置物に注がれている。 軽蔑と、困惑。 先生のきれいな眉間に、深い皺が刻まれる。
「ええ、まあ。叔父の趣味なんです」
お兄様は、恥ずかしそうに目を伏せた。
「叔父さんは、最近……その、株で少し儲けたみたいで。気分転換だと言って」
「株? あの人が?」 先生の声が裏返る。
「失礼だけど、彼はそんな才覚があるような人には見えなかったわ。 昔は、いつも借金の言い訳ばかりしていたじゃない」
「ええ。……でも、運が良かったみたいで」
お兄様は、ちらりとあたしを見た。 その視線には、ほんの少しの「恐怖」が混じっていた。 叔父様がどうやって儲けたか。そのタネを知っているのは、あたしとお兄様だけだ。 あたしは無邪気な顔をして、クッキーを齧った。 サクッ、という乾いた音が、静かな部屋に響く。
「……そう。運、ね」
先生は納得していないようだった。 彼女は紅茶に口もつけず、探るような目で部屋の隅々を見ている。 何を探しているの? 叔父様の姿? それとも、昨日ここに来て、二度と帰らなかったネズミの痕跡?
残念ね。 叔父様はもうバラバラになって、流しちゃった。 ネズミさんは、あたしの胃袋の中を通って、もう消化されちゃったわよ。
「それで、その叔父様は? 今日はいらっしゃらないの?」
先生が核心に触れた。 お兄様の肩が、ビクリと震える。 彼は膝の上で拳を握りしめ、喉を上下させた。嘘をつく準備運動だ。
「……旅に出ました」
「旅?」
「はい。急用が出来たとかで、昨日の夜から」
苦しい嘘。 声が上擦っているし、視線が泳いでいる。 先生みたいな賢い人には、すぐにバレてしまう下手な嘘だ。 でも、先生はそれを追求しなかった。 むしろ、好都合だと言わんばかりに身を乗り出した。
「そう。いないのなら、話が早いわ」
先生の眼鏡の奥の目が、真剣な光を帯びる。 彼女は、お兄様の手の上に、自分の手を重ねた。
「静くん。単刀直入に言うわ」
「……はい」
「この家を出て、私のところへいらっしゃい」
部屋の空気が止まった。 お兄様が目を見開く。
「え……?」
「叔父様から聞いたわ、電話で。 君の足、まだリハビリを始めていないんでしょう? それに、この家の雰囲気……以前にも増して異様だわ。 あんな悪趣味な調度品に、昼間から漂うお酒の臭い。 そして何より……」
先生は、ちらりとあたしを見た。 その目には、隠しきれない「忌避感」があった。
「まともな大人が管理している家とは思えない。 君のような繊細な子が、これ以上ここにいたら、心が壊れてしまうわ」
心が壊れる? あたしはおかしくて、吹き出しそうになった。 お兄様の心なんて、とっくの昔に壊れているわよ。 あたしが壊したの。 そして、あたしだけがその破片を繋ぎ止めているの。
割れたティーカップを再生するように、小さな破片まで丁寧に集めてくっつけて、あたしが再生させたんだ。
「私、知り合いの病院に話をつけてあるの。 足の手術ができる、東京の大きな病院よ。 生活費のことも心配しないで。君ひとりくらい、私がなんとかしてあげるから」
それは、完璧な提案だった。 お兄様が、心の奥底でのぞんでいた「救い」そのものだった。 那美がいきたかった「外の世界」への切符。 光の国への招待状。
「先生……僕、は……」
お兄様の心が激しく揺れているのがわかる。 嬉しい。行きたい。ここから逃げ出したい。 お兄様の脳みその中で、そんな信号がパチパチと弾けている。 希望の匂いがする。 あたしが一番嫌いな、眩しくて痛い匂いだ。
……だめ。 お兄様はあたしのものよ。 あたしが、あたしという化け物が、この不安定な世界に繋ぎ止められているのは、お兄様という「鎖」があるからなのに。 その鎖を解こうとするなんて、絶対に許さない。
「……あら、先生」
あたしは会話に割り込んだ。 子供みたいに首を傾げて、あどけない声で。
「お兄様を連れていくの? じゃあ、あたしも一緒?」
先生は、あたしを見た。 その表情が一瞬で曇る。 「困惑」と「憐れみ」。そして「処理に困る異物」を見る目。
「世璃ちゃん……。ごめんね」
先生は言いにくそうに、けれどはっきりと告げた。
「あなたの病院の手配もしてあるの。 でも、静くんとは別の場所よ。 あなたには、もっと専門的な……精神の治療が必要だから」
別の場所。 つまり、またあの「白い箱」にあたしを閉じ込めて、お兄様だけを連れ去るつもりだ。 あたしとお兄様を引き剥がそうとしている。
――敵だ。
この女は、叔父様よりも危険で、悪質な「敵」だ。邪悪だ!
叔父様は、お兄様を傷つけるだけだった。 でもこの女は、お兄様を「救おう」としている。 あたしから、お兄様を奪おうとしている。
殺そう。 あたしの喉の奥で、カチッ、とスイッチが入る音がした。 今すぐ、この場で喉笛を食い破ってやる。 この綺麗なスーツを、真っ赤な血で染めてやる。
あたしが身構えて、爪を立てそうになった、その時だった。
「……ごめんなさい、先生」
お兄様が、先生の手をそっと離した。
テーブルの上には、あたしが淹れた紅茶と、缶入りのクッキーが並んでいる。 紅茶の湯気が、気まずい沈黙の間を揺らめきながら立ち昇る。
「……静くん。ずいぶんと、模様替えをしたのね」
先生が、部屋を見回しながら言った。 その視線は、壁に掛けられた悪趣味な極彩色の絵画や、床に置かれた金メッキの置物に注がれている。 軽蔑と、困惑。 先生のきれいな眉間に、深い皺が刻まれる。
「ええ、まあ。叔父の趣味なんです」
お兄様は、恥ずかしそうに目を伏せた。
「叔父さんは、最近……その、株で少し儲けたみたいで。気分転換だと言って」
「株? あの人が?」 先生の声が裏返る。
「失礼だけど、彼はそんな才覚があるような人には見えなかったわ。 昔は、いつも借金の言い訳ばかりしていたじゃない」
「ええ。……でも、運が良かったみたいで」
お兄様は、ちらりとあたしを見た。 その視線には、ほんの少しの「恐怖」が混じっていた。 叔父様がどうやって儲けたか。そのタネを知っているのは、あたしとお兄様だけだ。 あたしは無邪気な顔をして、クッキーを齧った。 サクッ、という乾いた音が、静かな部屋に響く。
「……そう。運、ね」
先生は納得していないようだった。 彼女は紅茶に口もつけず、探るような目で部屋の隅々を見ている。 何を探しているの? 叔父様の姿? それとも、昨日ここに来て、二度と帰らなかったネズミの痕跡?
残念ね。 叔父様はもうバラバラになって、流しちゃった。 ネズミさんは、あたしの胃袋の中を通って、もう消化されちゃったわよ。
「それで、その叔父様は? 今日はいらっしゃらないの?」
先生が核心に触れた。 お兄様の肩が、ビクリと震える。 彼は膝の上で拳を握りしめ、喉を上下させた。嘘をつく準備運動だ。
「……旅に出ました」
「旅?」
「はい。急用が出来たとかで、昨日の夜から」
苦しい嘘。 声が上擦っているし、視線が泳いでいる。 先生みたいな賢い人には、すぐにバレてしまう下手な嘘だ。 でも、先生はそれを追求しなかった。 むしろ、好都合だと言わんばかりに身を乗り出した。
「そう。いないのなら、話が早いわ」
先生の眼鏡の奥の目が、真剣な光を帯びる。 彼女は、お兄様の手の上に、自分の手を重ねた。
「静くん。単刀直入に言うわ」
「……はい」
「この家を出て、私のところへいらっしゃい」
部屋の空気が止まった。 お兄様が目を見開く。
「え……?」
「叔父様から聞いたわ、電話で。 君の足、まだリハビリを始めていないんでしょう? それに、この家の雰囲気……以前にも増して異様だわ。 あんな悪趣味な調度品に、昼間から漂うお酒の臭い。 そして何より……」
先生は、ちらりとあたしを見た。 その目には、隠しきれない「忌避感」があった。
「まともな大人が管理している家とは思えない。 君のような繊細な子が、これ以上ここにいたら、心が壊れてしまうわ」
心が壊れる? あたしはおかしくて、吹き出しそうになった。 お兄様の心なんて、とっくの昔に壊れているわよ。 あたしが壊したの。 そして、あたしだけがその破片を繋ぎ止めているの。
割れたティーカップを再生するように、小さな破片まで丁寧に集めてくっつけて、あたしが再生させたんだ。
「私、知り合いの病院に話をつけてあるの。 足の手術ができる、東京の大きな病院よ。 生活費のことも心配しないで。君ひとりくらい、私がなんとかしてあげるから」
それは、完璧な提案だった。 お兄様が、心の奥底でのぞんでいた「救い」そのものだった。 那美がいきたかった「外の世界」への切符。 光の国への招待状。
「先生……僕、は……」
お兄様の心が激しく揺れているのがわかる。 嬉しい。行きたい。ここから逃げ出したい。 お兄様の脳みその中で、そんな信号がパチパチと弾けている。 希望の匂いがする。 あたしが一番嫌いな、眩しくて痛い匂いだ。
……だめ。 お兄様はあたしのものよ。 あたしが、あたしという化け物が、この不安定な世界に繋ぎ止められているのは、お兄様という「鎖」があるからなのに。 その鎖を解こうとするなんて、絶対に許さない。
「……あら、先生」
あたしは会話に割り込んだ。 子供みたいに首を傾げて、あどけない声で。
「お兄様を連れていくの? じゃあ、あたしも一緒?」
先生は、あたしを見た。 その表情が一瞬で曇る。 「困惑」と「憐れみ」。そして「処理に困る異物」を見る目。
「世璃ちゃん……。ごめんね」
先生は言いにくそうに、けれどはっきりと告げた。
「あなたの病院の手配もしてあるの。 でも、静くんとは別の場所よ。 あなたには、もっと専門的な……精神の治療が必要だから」
別の場所。 つまり、またあの「白い箱」にあたしを閉じ込めて、お兄様だけを連れ去るつもりだ。 あたしとお兄様を引き剥がそうとしている。
――敵だ。
この女は、叔父様よりも危険で、悪質な「敵」だ。邪悪だ!
叔父様は、お兄様を傷つけるだけだった。 でもこの女は、お兄様を「救おう」としている。 あたしから、お兄様を奪おうとしている。
殺そう。 あたしの喉の奥で、カチッ、とスイッチが入る音がした。 今すぐ、この場で喉笛を食い破ってやる。 この綺麗なスーツを、真っ赤な血で染めてやる。
あたしが身構えて、爪を立てそうになった、その時だった。
「……ごめんなさい、先生」
お兄様が、先生の手をそっと離した。
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