最後の男

深冬 芽以

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20 最後の男

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 会って、何を話そうとか、気持ちを伝えてどうするとか、もうどうでも良かった。

 遠距離とか、結婚とか、そんなこともどうでも良かった。



 彩が、他の男のものになるのは、嫌だ。

 彩が、他の男のために飯を作るとか、嫌だ。

 彩が、他の男に抱かれるのは、嫌だ。



 とにかく、夢中で走って、全身から湯気が出るほど汗だくになって、彩のマンションのインターホンを押した。

 俺はネクタイを緩め、息を整えた。

 応答がなく、もう一度押そうとインターホンに手を伸ばした時、鍵が回る音がした。

「溝口部長? どうし――」

 ドアの隙間に手を挟み、少し乱暴に開けて、彩を抱き締めた。

 風呂上りなのだろう。髪がまだ湿っている。石鹸の香りがした。

 俺は後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。

 久し振りの、彩の温もり。

「彩」

 彩の肩に額を押し付け、とにかくきつく抱き締めた。

「……どうしたの?」

「……」

 何も、言えなかった。

 言いたいことはたくさんある。

 けれど、今はとにかく彩を抱き締めていたかった。

 彩はそれ以上は聞かず、ただ、俺の腰を抱いていてくれた。

 どれくらいそうしていたかはわからない。

 夢心地でいたら、彩のくしゃみが聞こえて、我に返った。

「わり、風邪ひくな」

「ううん。智也こそ、すごい汗」

「全力疾走なんて、何年振りかな」

「お風呂、入る?」

 風呂なんてどうでも良かったが、不意に身震いして、身体は気持ちほど強がれないと気づいた。

 なんだか情けないような気もしたが、それも今更だった。

 ウィークリーマンションの風呂は狭く、膝を抱えて入った。俺の今のアパートも狭いが、ここよりはもう少し広い。

 風呂を出ると、新しいパンツとスウェットが置いてあった。洗濯機が唸っているところを見ると、俺が脱いだものが入っているのだろう。

「わざわざ買いに行ったのか?」

「アイス食べたくなったから、ついでにね」



 この寒空に、アイス?



 彩が備え付けの小さな冷蔵庫の中から缶ビールを出し、俺に差し出した。

「ご飯は? 食べた?」

「いや……」

「余り物だけど、温めるね」

 俺はベッドに腰かけ、栓を抜いた。一気に半分ほどを飲み干し、大きく息を吐いた。

 彩はビールを飲まない。好きじゃないと言っていた。

 だから、きっと、ビールこれも俺が風呂に入っている間に買ってきたのだろう。

 彼女のこういう気遣いに、胸が熱くなる。

「姉さんに言われたんだ」

「え?」

「俺は彩の一番にはなれない、って」

「一番?」

 彩がテーブルにご飯と豆腐の味噌汁を置いた。電子レンジがチンッと鳴って、また戻っていく。

「彩にとっての一番は子供たちだから、頑張っても同率一位までだ、って」

 小鉢に入った切り干し大根と、ザンギが五個、キュウリの漬物。

 俺はベッドを降りて床に座った。

「いただきます」

 釧路こっちに来てから、コンビニ弁当や外食ばかりだった。どんなに簡単なものでも、手料理はいい。

「俺は同率一位でもいいんだけどさ、子供たちと肩を並べようとするなら、俺にとっても子供たちが同率一位じゃなきゃダメだろ?」

 彩は俺の角向かいに座り、黙って聞いていた。俺は、彩の顔を見れなかった。

 状況がどうであれ、俺は彩に振られた身だ。

 今更何言ってんだ、って思われても仕方ない。

「女と長く付き合えたことがない俺にとっては、結婚とか未知の世界だし、ましてそこに子供も含まれるとなると、そう簡単に突っ走れないっつーかさ……」

 キュウリを噛む音が部屋に響く。

 本音を言えば言うほど、情けない。

 彩も、そう思っているかもしれない。

「ホントはお前と別れんの嫌だったけど、どうしても言えなかった。子供の人生まで背負い込む覚悟が持てなかった」
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