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20 最後の男
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しおりを挟む応援に来るはずの風間がインフルになり、代わりに彩が来た。
動揺する俺とは違い、彩は淡々と仕事をこなした。
俺は寝不足の身体に鞭打って、なんとか定時で仕事を終えた。人間、やれば出来るもんだ。
だが、肝心の彩の姿が見えない。
どうやら、俺が席を離れている間に、帰ったらしい。
彩がみんなに配った、きの〇やの東苗穂工場限定のシュークリームの香りが残っている。見るからに甘そうだからと、俺の分は彩にやった。
俺は風間に用意しておいたウィークリーマンションに向かった。
だが、マンションの前まで来て、我に返った。
会ってどうする……?
俺と彩はとうに終わっている。
異動してから、一度も連絡を取っていない。
今の俺と彩は、『上司と部下』でしかない。
考えないようにしていたが、俺が去った後に彩が千堂と付き合い始めている可能性だってある。
他の誰かの可能性も。
俺の気持ちは、彩に見送られた三か月前から変わっていない。
気持ちを伝えられなかったことを後悔して、伝えていたら何か変わっただろうかと想像して、自分の馬鹿さ加減に落ち込む。
やっと、気持ちを伝えられるチャンスが巡ってきんだ。正直に、気持ちを伝えたらいい。
なんて……?
『好きだ』と言って、どうする?
『愛してる』と言って、どうなる?
まだ、いつ閉所になるかもわからない状態で、結婚なんて出来ない。
それ以前に――。
俺は白い息を吐き、自分のアパートに帰った。
いつからこんなに、臆病になったのか。
情けない。
食べ飽きたコンビニ弁当には、味も感じない。
彩の飯、食いたいなぁ。
惨めだ。
どんなに仕事を頑張っても、虚しさは消えない。寂しさが膨らむ。
彩が恋しい――。
だが、現実は厳しい。
彩が来て一週間。仕事が忙しくて、彩とは世間話をする時間すらない。
それどころか、外回りが多くて、顔を見ない日すらある。誰もいない会社に戻り、彩の字のメモを見ると、全部投げ出してしまいたくなった。
トゥルルルル……
二十一時を過ぎて電話が鳴るのは、珍しい。
「はい。Free Style Production、釧路支社営業――」
『溝口部長ですか?』
声で、わかった。千堂だ。
「ああ」
『お疲れ様です』
「お疲れ。なんだ、こんな時間に」
金曜の夜に聞きたい声じゃあ、ない。
『彩さん、まだ仕事してたりします?』
どうして未だに彩を名前で呼んでるんだ、とイラっとした。
「とっくに帰った」
『そうですか。スマホに出ないから、まだ仕事してるのかと思ったんですけど』
「お前、あ――堀藤を諦めてないのか」
『……もう一度プロポーズするつもりです』
「は?」
自分から聞いたくせに、驚いた。
「しつこすぎるだろ!」
『泣きの一回です。誕生日にプロポーズなんて、女心揺れません?』
「たん……生日?」
『あれ、知りませんでした? 明日、誕生日なんですよ、彩さん』
そういえば、彩の誕生日を聞いたことがなかった。気がする。
話の流れで、冬だとは聞いた気もするが。
俺の誕生日を思い出す。
彩と、過ごした。
彩が、美味い飯を作ってくれた。
彩が、ケーキ作りは下手だと知った。
彩を、抱いた。
『なんで、明日の朝一で会いに行こうかと――』
「来んな!」
『は?』
「彩は、渡さない!」
ガシャンッと乱暴に受話器を置いて、俺は会社を飛び出した。
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