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第5話 冷たい瞳に宿る温もり
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日々は不思議な穏やかさの中で流れていった。
公爵邸での暮らしにも少しずつ慣れ、レティシアはマリーの手伝いをしながら、屋敷の小さな書庫や資料室の整理を任されるようになった。
元は勉学好きな性格だったこともあり、この仕事は彼女にとって心を落ち着ける時間でもあった。
けれど、それでもふとした瞬間に思い出してしまう。
あの王宮の大広間、冷たい視線、殿下の無情な声。
決して戻らない過去が、夢の中でいくども蘇る夜があった。
そんなある日、資料整理をしていると、部屋の扉が静かに開いた。
「随分熱心だな。」
振り向けば、そこにはアランが立っていた。
いつものように黒のシャツに長い外套姿。だが髪が少し乱れ、微かに疲労の色が滲んでいる。
「公爵様、お仕事のお邪魔をしてしまいましたか?」
「いや。お前がいると静かで落ち着く。」
その言葉に思わず頬が熱くなり、レティシアは慌ててファイルを抱え直した。
「そ、そんな恐れ多いこと……」
「恐れる必要はない。」
アランはゆっくりと机に近づき、整頓された文書を一瞥する。
「丁寧だな。まるで自分のものを扱うようだ。」
「ええ……この屋敷を“自分の居場所”と思いたいからでしょうか。」
「思えばいい。」
短い言葉なのに、暖炉の火よりも温かく響いた。
アランは机の隣に腰を下ろすと、並べてあった書簡の一つを取り上げた。
「これらは王都からの報告書だ。グランベル家の件と、王太子周辺の動きが載っている。」
レティシアは一瞬身を硬くした。
「父の名前も……?」
「ある。お前の父、エドモンド・グランベル侯爵は、今や王太子支持派の中核にいるらしい。だが噂では、王家からの後援が少しずつ削除されている。おそらく、王太子の政務の怠慢が原因だ。」
その報告に胸が痛んだ。父はいつだって名誉を重んじ、誇り高い人だった。そんな人が今、王太子の愚かな判断に巻き込まれているのかもしれない。
「……殿下の周囲には、もはや注意を諫める者もいないでしょう。」
「だろうな。もともと取り巻きの多くは利益目当ての浅ましい男たちだ。王太子本人も、愛に盲いた愚か者だ。」
アランの声には刃のような冷たさが宿っていた。
「だが、いずれ自ら崩壊する。そのときこそ、お前が再び立つ時だ。」
「私が……?」
「お前はまだ何も失っていない。名を、誇りを、心を守れている。その強さがあれば、王都がどう変わろうと生き抜ける。」
レティシアはしばらく言葉を失い、そっと俯いた。嬉しいのに涙がこみ上げてくる。
ふと、アランが立ち上がる。
「少し付き合え。外に出るぞ。」
「外……ですか?」
「庭ではない。馬を出す。」
────
屋敷の厩舎は広く、漆黒の馬が並ぶ中で、ひときわ美しい白馬がいた。
アランがその手綱を取ると、馬が静かに嘶いた。
「この馬はルミアという。気性が荒いが、俺には従う。」
そう言ってアランは軽やかに鞍に乗る。
「……乗れるか?」
「はい。幼い頃に少しだけ習いました。」
恐る恐る頷くと、アランは馬を寄せ、腕を差し伸べた。
「ならばこいつの背で思い出せ。」
その手を握った瞬間、冷たいはずの掌が信じられないほど温かく、どきりと心臓が跳ねた。
軽やかに引き上げられ、アランの前に座る。彼の胸の感触が背に伝わる距離で、思わず息が上ずる。
「しっかり掴まれ。落ちても助けん。」
「え? ええっ……!」
冗談めかした声に、思わず苦笑が零れる。
走り出した馬は力強く、風が髪を攫っていく。
屋敷の森を抜けると、陽光がきらきらと反射する湖が見えた。
そこを一気に駆け抜け、湖畔で馬を止める。
「はぁ……なんて気持ちがいいの……」
頬を撫でる風が心まで洗うようだ。
アランは馬上からそっと囁く。「いい顔だ。」
「え?」
「お前は遠慮なく笑えばいい。その顔の方がずっと綺麗だ。」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。誰もそんな風に言ってくれなかった。
「……公爵様は、不思議な方ですね。」
「不思議?」
「氷のようと呼ばれているのに……心は誰よりも優しい。」
「優しいか。そんなことを言われたのは初めてだ。」
彼が小さく笑った。その笑みは氷を溶かす炎のように柔らかい。
湖面に反射した光が二人の影を映す。
その穏やかな時間が永遠に続けばいいと思ったが、現実はいつだって儚い。
────
その夕方、マリーが慌てた声で書庫に飛び込んできた。
「レティシア様、大変です! 王都から伝令が!」
机に置かれた封筒を彼女が差し出す。見慣れた紋章、クラウン家の印章。
震える手で開くと、一枚の手紙が中から滑り出た。
“レティシア・グランベル、近日中に王都へ出頭せよ。王家より正式な調査が行われる。”
視界が真っ白になった。
「調査……ということは、まだ私を疑って……?」
マリーが不安そうに彼女を見つめる。「まさか、また陥れられたのでは?」
そこへ部屋の入り口から声がした。
「落ち着け。」
アランが現れ、封書を奪い取るようにして目を通す。
やがて険しい顔で言った。
「どうやら、王太子側が動いた。お前をもう一度表舞台に引きずり出そうとしている。」
「それは……罠、なのですね。」
「可能性が高い。だがこれは逆に好機でもある。」
レティシアが顔を上げる。「好機……?」
「真実を暴く場を奪われる前に、自ら踏み込むこともできるという意味だ。」
「けれど、私などが王家に歯向かえば——」
「俺がいる。」
アランの声は静かだが、確かに力を宿していた。
「俺の名で同行者として出向く。ルミナス家の後ろ盾を軽んじる愚か者はいない。」
彼がそう言ってくれるだけで、胸の奥の震えが少しおさまる。
だが同時に、恐怖もあった。再び王太子の顔を見るのかと思うと、心が凍りつく。
「怖いか?」アランが問う。
「……正直、怖いです。でも、逃げたくありません。」
「それでいい。」彼の瞳がわずかに和らいだ。
「真実を証明するには、己で立つしかない。だが決して一人では行かせない。俺が共にいる。」
また救われるような言葉だった。
そしてやっと気づく。いつの間にか、彼が見せる冷たい瞳の奥には、確かな温もりが灯っていることに。
その温もりは、自分が生きる理由となりつつあった。
窓の外には、夕陽が沈みかけていた。空を染める紅の光が、まるで新しい始まりを告げているようだった。
アランは手紙を燃やし、その灰が風に舞う。
「覚悟を決めろ、レティシア。もう逃げ場はない。だが、道は俺が照らす。」
「……はい。」
握りしめた拳の奥、恐怖と共に小さな勇気が芽吹いていた。
冷たい瞳に宿る優しさを信じて、彼となら立ち向かえる——そう思えたのは、この夜が初めてだった。
続く
公爵邸での暮らしにも少しずつ慣れ、レティシアはマリーの手伝いをしながら、屋敷の小さな書庫や資料室の整理を任されるようになった。
元は勉学好きな性格だったこともあり、この仕事は彼女にとって心を落ち着ける時間でもあった。
けれど、それでもふとした瞬間に思い出してしまう。
あの王宮の大広間、冷たい視線、殿下の無情な声。
決して戻らない過去が、夢の中でいくども蘇る夜があった。
そんなある日、資料整理をしていると、部屋の扉が静かに開いた。
「随分熱心だな。」
振り向けば、そこにはアランが立っていた。
いつものように黒のシャツに長い外套姿。だが髪が少し乱れ、微かに疲労の色が滲んでいる。
「公爵様、お仕事のお邪魔をしてしまいましたか?」
「いや。お前がいると静かで落ち着く。」
その言葉に思わず頬が熱くなり、レティシアは慌ててファイルを抱え直した。
「そ、そんな恐れ多いこと……」
「恐れる必要はない。」
アランはゆっくりと机に近づき、整頓された文書を一瞥する。
「丁寧だな。まるで自分のものを扱うようだ。」
「ええ……この屋敷を“自分の居場所”と思いたいからでしょうか。」
「思えばいい。」
短い言葉なのに、暖炉の火よりも温かく響いた。
アランは机の隣に腰を下ろすと、並べてあった書簡の一つを取り上げた。
「これらは王都からの報告書だ。グランベル家の件と、王太子周辺の動きが載っている。」
レティシアは一瞬身を硬くした。
「父の名前も……?」
「ある。お前の父、エドモンド・グランベル侯爵は、今や王太子支持派の中核にいるらしい。だが噂では、王家からの後援が少しずつ削除されている。おそらく、王太子の政務の怠慢が原因だ。」
その報告に胸が痛んだ。父はいつだって名誉を重んじ、誇り高い人だった。そんな人が今、王太子の愚かな判断に巻き込まれているのかもしれない。
「……殿下の周囲には、もはや注意を諫める者もいないでしょう。」
「だろうな。もともと取り巻きの多くは利益目当ての浅ましい男たちだ。王太子本人も、愛に盲いた愚か者だ。」
アランの声には刃のような冷たさが宿っていた。
「だが、いずれ自ら崩壊する。そのときこそ、お前が再び立つ時だ。」
「私が……?」
「お前はまだ何も失っていない。名を、誇りを、心を守れている。その強さがあれば、王都がどう変わろうと生き抜ける。」
レティシアはしばらく言葉を失い、そっと俯いた。嬉しいのに涙がこみ上げてくる。
ふと、アランが立ち上がる。
「少し付き合え。外に出るぞ。」
「外……ですか?」
「庭ではない。馬を出す。」
────
屋敷の厩舎は広く、漆黒の馬が並ぶ中で、ひときわ美しい白馬がいた。
アランがその手綱を取ると、馬が静かに嘶いた。
「この馬はルミアという。気性が荒いが、俺には従う。」
そう言ってアランは軽やかに鞍に乗る。
「……乗れるか?」
「はい。幼い頃に少しだけ習いました。」
恐る恐る頷くと、アランは馬を寄せ、腕を差し伸べた。
「ならばこいつの背で思い出せ。」
その手を握った瞬間、冷たいはずの掌が信じられないほど温かく、どきりと心臓が跳ねた。
軽やかに引き上げられ、アランの前に座る。彼の胸の感触が背に伝わる距離で、思わず息が上ずる。
「しっかり掴まれ。落ちても助けん。」
「え? ええっ……!」
冗談めかした声に、思わず苦笑が零れる。
走り出した馬は力強く、風が髪を攫っていく。
屋敷の森を抜けると、陽光がきらきらと反射する湖が見えた。
そこを一気に駆け抜け、湖畔で馬を止める。
「はぁ……なんて気持ちがいいの……」
頬を撫でる風が心まで洗うようだ。
アランは馬上からそっと囁く。「いい顔だ。」
「え?」
「お前は遠慮なく笑えばいい。その顔の方がずっと綺麗だ。」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。誰もそんな風に言ってくれなかった。
「……公爵様は、不思議な方ですね。」
「不思議?」
「氷のようと呼ばれているのに……心は誰よりも優しい。」
「優しいか。そんなことを言われたのは初めてだ。」
彼が小さく笑った。その笑みは氷を溶かす炎のように柔らかい。
湖面に反射した光が二人の影を映す。
その穏やかな時間が永遠に続けばいいと思ったが、現実はいつだって儚い。
────
その夕方、マリーが慌てた声で書庫に飛び込んできた。
「レティシア様、大変です! 王都から伝令が!」
机に置かれた封筒を彼女が差し出す。見慣れた紋章、クラウン家の印章。
震える手で開くと、一枚の手紙が中から滑り出た。
“レティシア・グランベル、近日中に王都へ出頭せよ。王家より正式な調査が行われる。”
視界が真っ白になった。
「調査……ということは、まだ私を疑って……?」
マリーが不安そうに彼女を見つめる。「まさか、また陥れられたのでは?」
そこへ部屋の入り口から声がした。
「落ち着け。」
アランが現れ、封書を奪い取るようにして目を通す。
やがて険しい顔で言った。
「どうやら、王太子側が動いた。お前をもう一度表舞台に引きずり出そうとしている。」
「それは……罠、なのですね。」
「可能性が高い。だがこれは逆に好機でもある。」
レティシアが顔を上げる。「好機……?」
「真実を暴く場を奪われる前に、自ら踏み込むこともできるという意味だ。」
「けれど、私などが王家に歯向かえば——」
「俺がいる。」
アランの声は静かだが、確かに力を宿していた。
「俺の名で同行者として出向く。ルミナス家の後ろ盾を軽んじる愚か者はいない。」
彼がそう言ってくれるだけで、胸の奥の震えが少しおさまる。
だが同時に、恐怖もあった。再び王太子の顔を見るのかと思うと、心が凍りつく。
「怖いか?」アランが問う。
「……正直、怖いです。でも、逃げたくありません。」
「それでいい。」彼の瞳がわずかに和らいだ。
「真実を証明するには、己で立つしかない。だが決して一人では行かせない。俺が共にいる。」
また救われるような言葉だった。
そしてやっと気づく。いつの間にか、彼が見せる冷たい瞳の奥には、確かな温もりが灯っていることに。
その温もりは、自分が生きる理由となりつつあった。
窓の外には、夕陽が沈みかけていた。空を染める紅の光が、まるで新しい始まりを告げているようだった。
アランは手紙を燃やし、その灰が風に舞う。
「覚悟を決めろ、レティシア。もう逃げ場はない。だが、道は俺が照らす。」
「……はい。」
握りしめた拳の奥、恐怖と共に小さな勇気が芽吹いていた。
冷たい瞳に宿る優しさを信じて、彼となら立ち向かえる——そう思えたのは、この夜が初めてだった。
続く
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