4 / 4
第4話 契約から始まる共同生活
しおりを挟む
翌朝、公爵邸の食堂には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
銀の食器が整然と並べられ、香ばしい紅茶の匂いが漂う。だが、そんな華やかさとは裏腹に、レティシアの胸は重かった。昨夜あのように優しい言葉をかけられたのに、彼の真意が読めない。どうしてここまで自分を庇ってくれるのだろうか——。
目の前で静かに新聞をめくるアランが、何気ないように視線を上げる。
「顔色が優れないな。眠れなかったか?」
「いえ……少し考えすぎただけです。」
「考えることなどない。お前はもう、俺の庇護下にある。」
それは事実上の宣言だった。だが、その響きにわずかな安心が混じっていることに、レティシアは気づいていた。
「庇護下……と申しますと?」
「言葉通りだ。お前はもう孤立した令嬢ではない。俺の屋敷の住人として扱う。」
「住人……ですが、王都に戻ることは——」
「しばらくはない。」アランは紅茶を傾け、静かに言葉を続けた。「戻りたいと思うか?」
レティシアは答えられなかった。
戻ったところで、誰も迎えてくれない。父はその存在を消したように扱い、社交界はすでに彼女を“罪を犯した女”と嘲っている。
「……いえ。戻る場所など、もうありません。」
小さく絞り出すと、アランの眉がわずかに動いた。
「ならばここで生きろ。」
短くも確固とした口調。彼の言葉には嘘がない。だが同時に、逃げ場を封じるようでもあった。
レティシアが戸惑っていると、アランは机の脇に置かれた書状を取り出し、こちらに差し出した。
「これは何でしょうか?」
「契約書だ。形だけとはいえ、屋敷に身を置くなら法的に保護しておく必要がある。お前を“客人”ではなく、“協力者”として登録する。」
「協力者?」
「そうだ。俺の研究を手伝う名目で滞在する。そうすれば、外部の目も納得する。」
研究? 彼がそんなことをするような印象はなかった。けれど、彼女が読み取ろうとした表情は、いつものように冷たい静けさに覆われていた。
「……内容を拝見しても?」
「構わん。だがお前に不利益な項目はない。」
彼の言葉を信じて受け取り、内容を目で追った。そこにはこう書かれていた。
一、令嬢レティシア・グランベルは、アラン・ルミナス公爵の庇護のもと、安全な滞在を許可される。
一、滞在中、屋敷の研究関連業務の補助を行うこと。
一、公爵および関係者の正式な信用保護対象とする。
一、契約の解除は双方の同意によって行うものとする。
「……本当に、この内容でよろしいのですか? これでは、わたくしが得をしすぎています。」
「損得の話ではない。」アランは答える。「俺はこの屋敷に、信頼できる人間を置きたい。それがたまたまお前だった。ただそれだけだ。」
レティシアは胸に温かな痛みを覚えながら、署名欄に名を記した。ペン先が震えていたが、その震えには昨日までの絶望とは違うものが混じっていた——かすかな期待。
「これでお前は正式にルミナス家の客だ。」
「ありがとうございます、公爵様。」
「必要なものがあればマリーに言え。服も新しく仕立てた方がいいだろう。」
「え? そんな、もったいないです。」
「古い姿に縛られる必要はない。王都のレティシアではなく、新しい自分として生きろ。」
彼の言葉が胸に響く。昨日までの涙が遠のき、新しい風が吹き込んだようだった。
朝食を終え、執務室を出たレティシアは胸に小さく息を詰める。これが第二の人生の始まりなのだ、と。
────
午後、マリーに屋敷を案内される中で、レティシアは初めて温室を見た。柔らかな光が差し込み、さまざまな花が咲き誇る中に、アランが立っていた。
黒い外套のまま、静かに花の茎を摘み取っている。その姿は、噂の“氷の公爵”とはかけ離れていた。
「お前も来たか。」
背を向けたままそう言われて、レティシアは少し戸惑いながら近づく。
「いえ、お邪魔をするつもりでは……」
「座れ。」
指さされたベンチに腰を下ろすと、ガラス越しに見える空が淡く霞んでいた。
「……驚きました。公爵様が花をお好きだとは。」
「生き物は嘘をつかない。人とは違ってな。」
短い一言に、妙な重みがあった。
レティシアは花壇の白百合を見つめた。「昨日、私の部屋にもこの花が飾られていました。とても……落ち着く香りで。」
「あれは、お前に似合うと思ってな。」
「え?」
アランは淡々とした口調のまま続けた。「真っ白で、無垢で、愚かなくらいまっすぐに立つ花だ。どれほど踏まれても、また咲こうとする。」
その一言に、レティシアの喉が詰まった。胸の奥が熱くなり、思わず俯く。
「……そんな花のように、なれるでしょうか。」
「なればいい。俺はそのための場所を与える。」
静かな声が温室の空気を震わせた。
ふと、アランが摘み取ったばかりの花をレティシアへ差し出す。
「この花を部屋に飾っておけ。お前の心が弱ったら、それを見ろ。」
白薔薇の花弁が透明な光を受けて揺れた。
「……はい。大切にいたします。」
彼の手が少しだけ触れた。瞬間、ひやりとした温度が指先を伝うけれど、その冷たさはなぜか心地よかった。
アランが背を向けると、白い外套の裾が風に揺れる。その姿を見送りながら、レティシアは改めて決意した。
——強くなろう。彼に救われたままでは終わらせない。
────
夜、契約書を机に置き直しながら、ふと窓の外を見た。
遠くの森を越えて、白い月の光が屋敷を包んでいる。
今日一日の出来事が夢のように感じられた。けれど、それは確かに現実で、この契約は彼にとっても覚悟だったはずだ。
枕元の花瓶には、昼間彼にもらった白薔薇が息づいている。
その美しさに見惚れながら、レティシアはゆっくりと目を閉じた。
「ここから、もう一度始めましょう……」
優しく誓いの言葉を囁くと、心の奥深くに少しだけ勇気の炎が灯った。
やがて心地よい眠りが訪れ、夜の帳が静かに降りていく。
続く
銀の食器が整然と並べられ、香ばしい紅茶の匂いが漂う。だが、そんな華やかさとは裏腹に、レティシアの胸は重かった。昨夜あのように優しい言葉をかけられたのに、彼の真意が読めない。どうしてここまで自分を庇ってくれるのだろうか——。
目の前で静かに新聞をめくるアランが、何気ないように視線を上げる。
「顔色が優れないな。眠れなかったか?」
「いえ……少し考えすぎただけです。」
「考えることなどない。お前はもう、俺の庇護下にある。」
それは事実上の宣言だった。だが、その響きにわずかな安心が混じっていることに、レティシアは気づいていた。
「庇護下……と申しますと?」
「言葉通りだ。お前はもう孤立した令嬢ではない。俺の屋敷の住人として扱う。」
「住人……ですが、王都に戻ることは——」
「しばらくはない。」アランは紅茶を傾け、静かに言葉を続けた。「戻りたいと思うか?」
レティシアは答えられなかった。
戻ったところで、誰も迎えてくれない。父はその存在を消したように扱い、社交界はすでに彼女を“罪を犯した女”と嘲っている。
「……いえ。戻る場所など、もうありません。」
小さく絞り出すと、アランの眉がわずかに動いた。
「ならばここで生きろ。」
短くも確固とした口調。彼の言葉には嘘がない。だが同時に、逃げ場を封じるようでもあった。
レティシアが戸惑っていると、アランは机の脇に置かれた書状を取り出し、こちらに差し出した。
「これは何でしょうか?」
「契約書だ。形だけとはいえ、屋敷に身を置くなら法的に保護しておく必要がある。お前を“客人”ではなく、“協力者”として登録する。」
「協力者?」
「そうだ。俺の研究を手伝う名目で滞在する。そうすれば、外部の目も納得する。」
研究? 彼がそんなことをするような印象はなかった。けれど、彼女が読み取ろうとした表情は、いつものように冷たい静けさに覆われていた。
「……内容を拝見しても?」
「構わん。だがお前に不利益な項目はない。」
彼の言葉を信じて受け取り、内容を目で追った。そこにはこう書かれていた。
一、令嬢レティシア・グランベルは、アラン・ルミナス公爵の庇護のもと、安全な滞在を許可される。
一、滞在中、屋敷の研究関連業務の補助を行うこと。
一、公爵および関係者の正式な信用保護対象とする。
一、契約の解除は双方の同意によって行うものとする。
「……本当に、この内容でよろしいのですか? これでは、わたくしが得をしすぎています。」
「損得の話ではない。」アランは答える。「俺はこの屋敷に、信頼できる人間を置きたい。それがたまたまお前だった。ただそれだけだ。」
レティシアは胸に温かな痛みを覚えながら、署名欄に名を記した。ペン先が震えていたが、その震えには昨日までの絶望とは違うものが混じっていた——かすかな期待。
「これでお前は正式にルミナス家の客だ。」
「ありがとうございます、公爵様。」
「必要なものがあればマリーに言え。服も新しく仕立てた方がいいだろう。」
「え? そんな、もったいないです。」
「古い姿に縛られる必要はない。王都のレティシアではなく、新しい自分として生きろ。」
彼の言葉が胸に響く。昨日までの涙が遠のき、新しい風が吹き込んだようだった。
朝食を終え、執務室を出たレティシアは胸に小さく息を詰める。これが第二の人生の始まりなのだ、と。
────
午後、マリーに屋敷を案内される中で、レティシアは初めて温室を見た。柔らかな光が差し込み、さまざまな花が咲き誇る中に、アランが立っていた。
黒い外套のまま、静かに花の茎を摘み取っている。その姿は、噂の“氷の公爵”とはかけ離れていた。
「お前も来たか。」
背を向けたままそう言われて、レティシアは少し戸惑いながら近づく。
「いえ、お邪魔をするつもりでは……」
「座れ。」
指さされたベンチに腰を下ろすと、ガラス越しに見える空が淡く霞んでいた。
「……驚きました。公爵様が花をお好きだとは。」
「生き物は嘘をつかない。人とは違ってな。」
短い一言に、妙な重みがあった。
レティシアは花壇の白百合を見つめた。「昨日、私の部屋にもこの花が飾られていました。とても……落ち着く香りで。」
「あれは、お前に似合うと思ってな。」
「え?」
アランは淡々とした口調のまま続けた。「真っ白で、無垢で、愚かなくらいまっすぐに立つ花だ。どれほど踏まれても、また咲こうとする。」
その一言に、レティシアの喉が詰まった。胸の奥が熱くなり、思わず俯く。
「……そんな花のように、なれるでしょうか。」
「なればいい。俺はそのための場所を与える。」
静かな声が温室の空気を震わせた。
ふと、アランが摘み取ったばかりの花をレティシアへ差し出す。
「この花を部屋に飾っておけ。お前の心が弱ったら、それを見ろ。」
白薔薇の花弁が透明な光を受けて揺れた。
「……はい。大切にいたします。」
彼の手が少しだけ触れた。瞬間、ひやりとした温度が指先を伝うけれど、その冷たさはなぜか心地よかった。
アランが背を向けると、白い外套の裾が風に揺れる。その姿を見送りながら、レティシアは改めて決意した。
——強くなろう。彼に救われたままでは終わらせない。
────
夜、契約書を机に置き直しながら、ふと窓の外を見た。
遠くの森を越えて、白い月の光が屋敷を包んでいる。
今日一日の出来事が夢のように感じられた。けれど、それは確かに現実で、この契約は彼にとっても覚悟だったはずだ。
枕元の花瓶には、昼間彼にもらった白薔薇が息づいている。
その美しさに見惚れながら、レティシアはゆっくりと目を閉じた。
「ここから、もう一度始めましょう……」
優しく誓いの言葉を囁くと、心の奥深くに少しだけ勇気の炎が灯った。
やがて心地よい眠りが訪れ、夜の帳が静かに降りていく。
続く
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
冬薔薇の謀りごと
ono
恋愛
シャルロッテは婚約者である王太子サイモンから謝罪を受ける。
サイモンは平民のパン職人の娘ミーテと恋に落ち、シャルロッテとの婚約破棄を望んだのだった。
そしてシャルロッテは彼の話を聞いて「誰も傷つかない完璧な婚約破棄」を実現するために協力を申し出る。
冷徹で有能なジェレミア公爵やミーテも巻き込み、それぞれが幸せを掴むまで。
ざまぁ・断罪はありません。すっきりハッピーエンドです。
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
悪役令嬢の涙
拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
婚約破棄されたので、ミドリアイランドの住人を買収して国を統合します
常野夏子
恋愛
婚約破棄——それは、リリアーナ・ヴァルディスから
「王子の婚約者」という肩書きを奪った。
だが同時に、彼女を縛っていたすべての“正しさ”を解き放つ。
追い出されるように向かった辺境の地、ミドリアイランド。
そこは王国から見捨てられ、
しかし誰の支配にも完全には屈していない、曖昧な土地だった。
王子様への置き手紙
あおた卵
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!
野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。
私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。
そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる