神様自学

天ノ谷 霙

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3月16日 消える力

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ただいま、と挨拶をしてドアを開ける。おかえり、と奥の方から声が聞こえて来て、ホッと安堵する。そんな当たり前も人であるから得たもので、一歩間違えればあちらの世に渡りかねない私は、それが貴重なものだと改めて思い知った。
楽しかった。楽しかったのに、どうしてだろうか。私の中では感傷が渦巻いていて、吐きそうな程に痛みが回る。
視界の変化に慣れたつもりだった。
けれどそうではないのだろうか。私の中には未だ、"普通"を引き摺っている部分があるのだろうか。
「…っ、ぉ、あ」
気が抜けたように、靴を脱いだ瞬間膝から崩れ落ちる。血を吐くような声が漏れるが、床は何にも彩られていない。目を瞑れば暗闇が回る。苦しくて目を開けば息が荒くなる。
どうして。

"夕音"

何で。

"ありがとう、夕音"

違う、これは。

"縛り付けて、すまない"

"伏見ふしみと同じ運命は、辿らせない"

これは、誰の声だ。
知っている。
私はこの声を、誰よりも聞いていた。
この世に住まう誰よりも、私と繋がっていた神様の声。

「稲荷、様…っ」

やめて。だめ。いかないで。
そんな言葉で縋ろうと手を伸ばしても、目の前には誰もいない。
切れる。ひずむ。消えて行く。
「…恋、音さ…っ」
私の変化に気付いているであろう気配に、声を掛ける。しかし何の返答もない。もう一度名を呼ぶ。返事はない。無意識に胸元に手を当てて叫んだ。けれど力の気配すら、感じなかった。
「…なん、で…?」
私の中から、稲荷様の痕が消えて行く。縋るように、一縷の望みを掛けて手を振り上げ、そして勢い任せに振り下ろした。家の中で消えることになるが、そんなことに構っていられる余裕はなかった。
それなのに、
私の姿が変わらない。
そのまま、出掛けた時のまま、人間の稲森夕音のままだ。
「やめて、行かないで」
石や岩が風化していくように、小さくなった火が揺れるように、私の中にある筈の稲荷様の気配が消えていく。"恋使コイツカイ"としての証が消えていく。

"ヒトの言う『恋』を、私は知ることが出来た"

"夕音が彼の者と心を通じ合わせたからだ"

"通じ合う心を教えてくれたからだ"

"やっと知り終えた"

"だからもう、お主はわたしの為に動かなくて良いのだ"

"わたしの為に、命を擦り減らさなくても良いのだ"

言葉が脳裏に落ちて来る。その意味を理解したくなくて、拒んで、けれど刻まれる痛いほどの言葉に私は成す術がなかった。

"ありがとう、夕音。一方的になって、すまないな"

"お前のこれからに、我が加護が幸を齎すように"

ふわりと、私の胸から光が弾けた。それに手を伸ばすが、もう既に消え失せてしまって。
それが天に還ると同時に、私は神力とも魔力とも言うべきあちらの世の力を、全て失っていた。
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