20 / 24
20話 冷たい静寂と身の程知らずの夢
しおりを挟む
(アルト視点)
今日の地下書庫の空気はいつもより澱んでいるように感じていた。
無数に並ぶ本棚が作り出す影は、まるで墓標のように静まり返っている。
この地下書庫に来てこんな風に感じたのは初めてだった。
四日目ともなると、リリアーナと会うことが俺の日常になりつつあった。
彼女の底なしの知的好奇心は、俺と同じくらいの深い渇きを抱えている。その渇きを互いに癒やすかのように、俺たちはここ三日間、身分の差も、時間の経過さえも忘れて語り合ったのだ。
だが、今日は違った。
俺はいつもの席で、読みかけの魔導書を開いたまま、ただ入り口の扉を見つめていた。
柱時計の重厚な針の音が、カチリ、カチリと、やけに大きく響く。
その針は、とっくに約束の時間を過ぎていた。
……来ない。
隣の椅子は、冷たいままだ。
昨日までは、この時間になれば必ず、あの扉が開いた。
錆びついた蝶番がきしむ音さえ、彼女が来る合図だと思い、内心愛おしく感じたものだ。
扉の向こうから、あの気品ある白百合の香りと共に彼女が現れる。
「ごきげんよう、アルト先生」
そう言って、花が咲くように楽しげに笑いかけ、俺の隣に座る。
絹擦れの音。柔らかな吐息。ページをめくる白く細い指先。
それらがもたらす温もりが、この薄暗い地下室を、世界で一番輝く場所へと変えていた。
しかし今日は、カビと古紙の乾いた匂いだけが、俺の鼻腔を満たしている。
廊下で誰かの足音がするたび、心臓が跳ねた。
だが、足音は近づくことなく遠ざかり、あるいはただの風の悪戯だと気づく。
その度に、期待という名の熱が急速に冷め、代わりに鉛のような重さが胃の腑に溜まっていく。
一分が、一時間にも感じられる拷問のような沈黙。
開かれたままのページの上を、視線だけが虚しく滑る。文字など、一文字も頭に入ってこない。
……なんだ。結局、そういうことか。
約束の時間を一時間も過ぎた頃。
俺は、胸の奥にじわりと湧き上がった正体不明の痛みを、無理やり「納得」という分厚い蓋で押し込めた。
飽きたのだ。
所詮は、雲の上の住人である王族の、気まぐれな暇つぶしだったのだ。
薄暗い地下書庫という変わった場所で、没落貴族という珍しい「おもちゃ(俺)」を見つけた。
少し触って、少し喋って、珍しい知識を引き出して遊んでみたけれど、三日もすれば底が見えた。そして、飽きた。
それだけのことだ。
昨日の議論で、俺は彼女の知的好奇心を満たしきってしまったのかもしれない。
あるいは――俺が「魔力はない」と頑なに嘘をつき続けたことに、愛想を尽かしたのか。
彼女は聡明だ。俺の不自然な言動から、何かを隠していることくらい察していただろう。
誠意のない平民もどきになど、これ以上時間を割く価値はないと判断されたとしても不思議ではない。
「……はは。よかったじゃないか」
乾いた笑いが、唇から零れ落ちた。
その声は、誰もいない書庫の闇に、無様に吸い込まれて消えた。
これで、俺の平穏な日常が戻ってくる。
あの恐怖の拘束時間は終わりだ。
もう、不敬にならぬよう言葉を選んで冷や汗をかくこともない。
彼女の美しい顔色を窺い、機嫌を損ねないよう道化のように振る舞う必要もない。
もし王女に何かあれば、その責任を問われて処刑されるかもしれないという重圧からも解放される。
俺はまた一人で、誰にも邪魔されず、この地下書庫で知識の海に没頭できる。
これは、俺が望んでいた本来の形だ。
誰とも関わらず、誰にも期待されず、ただひっそりと生きる「モブ」としての生活。
……それなのに。
なぜ、隣の空席が、こんなにも寒々しく感じるのだろう。
いつも座っていた硬い木の椅子が、まるで氷の玉座のように冷たく見える。
なぜ、愛読していたはずの魔導書が、ただのインクの染みがついた紙束にしか見えないのだろう。
(……バカか、俺は……!)
奥歯を噛み締める。
期待していたのか?
あの高潔な王女殿下と、対等な関係になれたなんて。
身分の壁を越えて、心を通わせる「友人」のような存在になれたとでも、本気で錯覚していたのか。
鏡を見てみろ。
お前は、没落したキルシュヴァッサー家の生き残り。
魔力を持たないと蔑まれ、社会の隅っこで息を潜めるだけの「灰色ネズミ」だ。
対して彼女は、国を象徴する王家の王女殿下だ。
住む世界が違うどころの話ではない。本来なら、視線を合わせることさえ許されない存在なのだ。
三日間の夢。
それが長すぎたのだ。
自分の価値を勘違いするには、十分すぎるほど甘美で、残酷な時間だった。
「……っ」
胸が痛い。
物理的に抉り取られたかのように、心臓のあたりが疼く。
拒絶されたわけではない。言葉で罵られたわけでもない。
ただ、「忘れられた」だけだ。
彼女の煌びやかな日常の中で、地下書庫での約束など、路傍の石ころのように取るに足らない記憶の断片として、捨て置かれただけ。
それが、何よりも惨めで、情けなかった。
俺は、開いていた本を乱暴に閉じた。
バタン、と重い音が静寂を切り裂く。それは、俺の中の何かを断ち切る音でもあった。
ガタッ。
立ち上がると、椅子の脚が床を擦り、悲鳴のような音を立てた。
その音さえもが、「お前は一人だ」と嘲笑っているように聞こえる。
「……帰ろう」
俺は独り言のように自分にそう呟くように言った。声が震えないように、腹に力を入れ……。
今日、俺は学んだ。いや、思い出したのだ。
身分違いの交流など、所詮は幻だということを。
光の当たらない地下の住人が、太陽に手を伸ばせばどうなるか。
焦がれ、焼かれ、そして影がより濃くなるだけだ。
一度見た甘い夢は、覚めた時の現実を何倍も残酷にする猛毒でしかなかった。
俺は鞄を掴むと、逃げるように地下書庫の出口へと歩き出した。
背後を振り返ることはしない。
振り返って、もし誰もいない空席をもう一度見てしまえば、俺は惨めさで泣き出してしまうかもしれないから。
もう二度と、この席で誰かを待つことなどないだろう。
俺には、孤独がお似合いだ。
重い扉を閉めると、書庫の闇が完全に俺の世界を閉ざした。
今日の地下書庫の空気はいつもより澱んでいるように感じていた。
無数に並ぶ本棚が作り出す影は、まるで墓標のように静まり返っている。
この地下書庫に来てこんな風に感じたのは初めてだった。
四日目ともなると、リリアーナと会うことが俺の日常になりつつあった。
彼女の底なしの知的好奇心は、俺と同じくらいの深い渇きを抱えている。その渇きを互いに癒やすかのように、俺たちはここ三日間、身分の差も、時間の経過さえも忘れて語り合ったのだ。
だが、今日は違った。
俺はいつもの席で、読みかけの魔導書を開いたまま、ただ入り口の扉を見つめていた。
柱時計の重厚な針の音が、カチリ、カチリと、やけに大きく響く。
その針は、とっくに約束の時間を過ぎていた。
……来ない。
隣の椅子は、冷たいままだ。
昨日までは、この時間になれば必ず、あの扉が開いた。
錆びついた蝶番がきしむ音さえ、彼女が来る合図だと思い、内心愛おしく感じたものだ。
扉の向こうから、あの気品ある白百合の香りと共に彼女が現れる。
「ごきげんよう、アルト先生」
そう言って、花が咲くように楽しげに笑いかけ、俺の隣に座る。
絹擦れの音。柔らかな吐息。ページをめくる白く細い指先。
それらがもたらす温もりが、この薄暗い地下室を、世界で一番輝く場所へと変えていた。
しかし今日は、カビと古紙の乾いた匂いだけが、俺の鼻腔を満たしている。
廊下で誰かの足音がするたび、心臓が跳ねた。
だが、足音は近づくことなく遠ざかり、あるいはただの風の悪戯だと気づく。
その度に、期待という名の熱が急速に冷め、代わりに鉛のような重さが胃の腑に溜まっていく。
一分が、一時間にも感じられる拷問のような沈黙。
開かれたままのページの上を、視線だけが虚しく滑る。文字など、一文字も頭に入ってこない。
……なんだ。結局、そういうことか。
約束の時間を一時間も過ぎた頃。
俺は、胸の奥にじわりと湧き上がった正体不明の痛みを、無理やり「納得」という分厚い蓋で押し込めた。
飽きたのだ。
所詮は、雲の上の住人である王族の、気まぐれな暇つぶしだったのだ。
薄暗い地下書庫という変わった場所で、没落貴族という珍しい「おもちゃ(俺)」を見つけた。
少し触って、少し喋って、珍しい知識を引き出して遊んでみたけれど、三日もすれば底が見えた。そして、飽きた。
それだけのことだ。
昨日の議論で、俺は彼女の知的好奇心を満たしきってしまったのかもしれない。
あるいは――俺が「魔力はない」と頑なに嘘をつき続けたことに、愛想を尽かしたのか。
彼女は聡明だ。俺の不自然な言動から、何かを隠していることくらい察していただろう。
誠意のない平民もどきになど、これ以上時間を割く価値はないと判断されたとしても不思議ではない。
「……はは。よかったじゃないか」
乾いた笑いが、唇から零れ落ちた。
その声は、誰もいない書庫の闇に、無様に吸い込まれて消えた。
これで、俺の平穏な日常が戻ってくる。
あの恐怖の拘束時間は終わりだ。
もう、不敬にならぬよう言葉を選んで冷や汗をかくこともない。
彼女の美しい顔色を窺い、機嫌を損ねないよう道化のように振る舞う必要もない。
もし王女に何かあれば、その責任を問われて処刑されるかもしれないという重圧からも解放される。
俺はまた一人で、誰にも邪魔されず、この地下書庫で知識の海に没頭できる。
これは、俺が望んでいた本来の形だ。
誰とも関わらず、誰にも期待されず、ただひっそりと生きる「モブ」としての生活。
……それなのに。
なぜ、隣の空席が、こんなにも寒々しく感じるのだろう。
いつも座っていた硬い木の椅子が、まるで氷の玉座のように冷たく見える。
なぜ、愛読していたはずの魔導書が、ただのインクの染みがついた紙束にしか見えないのだろう。
(……バカか、俺は……!)
奥歯を噛み締める。
期待していたのか?
あの高潔な王女殿下と、対等な関係になれたなんて。
身分の壁を越えて、心を通わせる「友人」のような存在になれたとでも、本気で錯覚していたのか。
鏡を見てみろ。
お前は、没落したキルシュヴァッサー家の生き残り。
魔力を持たないと蔑まれ、社会の隅っこで息を潜めるだけの「灰色ネズミ」だ。
対して彼女は、国を象徴する王家の王女殿下だ。
住む世界が違うどころの話ではない。本来なら、視線を合わせることさえ許されない存在なのだ。
三日間の夢。
それが長すぎたのだ。
自分の価値を勘違いするには、十分すぎるほど甘美で、残酷な時間だった。
「……っ」
胸が痛い。
物理的に抉り取られたかのように、心臓のあたりが疼く。
拒絶されたわけではない。言葉で罵られたわけでもない。
ただ、「忘れられた」だけだ。
彼女の煌びやかな日常の中で、地下書庫での約束など、路傍の石ころのように取るに足らない記憶の断片として、捨て置かれただけ。
それが、何よりも惨めで、情けなかった。
俺は、開いていた本を乱暴に閉じた。
バタン、と重い音が静寂を切り裂く。それは、俺の中の何かを断ち切る音でもあった。
ガタッ。
立ち上がると、椅子の脚が床を擦り、悲鳴のような音を立てた。
その音さえもが、「お前は一人だ」と嘲笑っているように聞こえる。
「……帰ろう」
俺は独り言のように自分にそう呟くように言った。声が震えないように、腹に力を入れ……。
今日、俺は学んだ。いや、思い出したのだ。
身分違いの交流など、所詮は幻だということを。
光の当たらない地下の住人が、太陽に手を伸ばせばどうなるか。
焦がれ、焼かれ、そして影がより濃くなるだけだ。
一度見た甘い夢は、覚めた時の現実を何倍も残酷にする猛毒でしかなかった。
俺は鞄を掴むと、逃げるように地下書庫の出口へと歩き出した。
背後を振り返ることはしない。
振り返って、もし誰もいない空席をもう一度見てしまえば、俺は惨めさで泣き出してしまうかもしれないから。
もう二度と、この席で誰かを待つことなどないだろう。
俺には、孤独がお似合いだ。
重い扉を閉めると、書庫の闇が完全に俺の世界を閉ざした。
41
あなたにおすすめの小説
男女比1:15の貞操逆転世界で高校生活(婚活)
大寒波
恋愛
日本で生活していた前世の記憶を持つ主人公、七瀬達也が日本によく似た貞操逆転世界に転生し、高校生活を楽しみながら婚活を頑張るお話。
この世界の法律では、男性は二十歳までに5人と結婚をしなければならない。(高校卒業時点は3人)
そんな法律があるなら、もういっそのこと高校在学中に5人と結婚しよう!となるのが今作の主人公である達也だ!
この世界の経済は基本的に女性のみで回っており、男性に求められることといえば子種、遺伝子だ。
前世の影響かはわからないが、日本屈指のHENTAIである達也は運よく遺伝子も最高ランクになった。
顔もイケメン!遺伝子も優秀!貴重な男!…と、驕らずに自分と関わった女性には少しでも幸せな気持ちを分かち合えるように努力しようと決意する。
どうせなら、WIN-WINの関係でありたいよね!
そうして、別居婚が主流なこの世界では珍しいみんなと同居することを、いや。ハーレムを目標に個性豊かなヒロイン達と織り成す学園ラブコメディがいま始まる!
主人公の通う学校では、少し貞操逆転の要素薄いかもです。男女比に寄っています。
外はその限りではありません。
カクヨムでも投稿しております。
貞操逆転世界で出会い系アプリをしたら
普通
恋愛
男性は弱く、女性は強い。この世界ではそれが当たり前。性被害を受けるのは男。そんな世界に生を受けた葉山優は普通に生きてきたが、ある日前世の記憶取り戻す。そこで前世ではこんな風に男女比の偏りもなく、普通に男女が一緒に生活できたことを思い出し、もう一度女性と関わってみようと決意する。
そこで会うのにまだ抵抗がある、優は出会い系アプリを見つける。まずはここでメッセージのやり取りだけでも女性としてから会うことしようと試みるのだった。
高身長お姉さん達に囲まれてると思ったらここは貞操逆転世界でした。〜どうやら元の世界には帰れないので、今を謳歌しようと思います〜
水国 水
恋愛
ある日、阿宮 海(あみや かい)はバイト先から自転車で家へ帰っていた。
その時、快晴で雲一つ無い空が急変し、突如、周囲に濃い霧に包まれる。
危険を感じた阿宮は自転車を押して帰ることにした。そして徒歩で歩き、喉も乾いてきた時、運良く喫茶店の看板を発見する。
彼は霧が晴れるまでそこで休憩しようと思い、扉を開く。そこには女性の店員が一人居るだけだった。
初めは男装だと考えていた女性の店員、阿宮と会話していくうちに彼が男性だということに気がついた。そして同時に阿宮も世界の常識がおかしいことに気がつく。
そして話していくうちに貞操逆転世界へ転移してしまったことを知る。
警察へ連れて行かれ、戸籍がないことも発覚し、家もない状況。先が不安ではあるが、戻れないだろうと考え新たな世界で生きていくことを決意した。
これはひょんなことから貞操逆転世界に転移してしまった阿宮が高身長女子と関わり、関係を深めながら貞操逆転世界を謳歌する話。
男女比が1対100だったり貞操概念が逆転した世界にいますが会社員してます
neru
ファンタジー
30を過ぎた松田 茂人(まつだ しげひと )は男女比が1対100だったり貞操概念が逆転した世界にひょんなことから転移してしまう。
松田は新しい世界で会社員となり働くこととなる。
ちなみに、新しい世界の女性は全員高身長、美形だ。
PS.2月27日から4月まで投稿頻度が減ることを許して下さい。
↓
PS.投稿を再開します。ゆっくりな投稿頻度になってしまうかもですがあたたかく見守ってください。
男が少ない世界に転生して
美鈴
ファンタジー
※よりよいものにする為に改稿する事にしました!どうかお付き合い下さいますと幸いです!
旧稿版も一応残しておきますがあのままいくと当初のプロットよりも大幅におかしくなりましたのですいませんが宜しくお願いします!
交通事故に合い意識がどんどん遠くなっていく1人の男性。次に意識が戻った時は病院?前世の一部の記憶はあるが自分に関する事は全て忘れた男が転生したのは男女比が異なる世界。彼はどの様にこの世界で生きていくのだろうか?それはまだ誰も知らないお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる