男女比5対1の女尊男卑の世界で子供の頃、少女を助けたら「お嫁さんになりたい!」と言って来た。まさか、それが王女様だったなんて……。

楽園

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20話 冷たい静寂と身の程知らずの夢

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(アルト視点)
 
 今日の地下書庫の空気はいつもより澱んでいるように感じていた。
 無数に並ぶ本棚が作り出す影は、まるで墓標のように静まり返っている。
 この地下書庫に来てこんな風に感じたのは初めてだった。
 
 四日目ともなると、リリアーナと会うことが俺の日常になりつつあった。
 彼女の底なしの知的好奇心は、俺と同じくらいの深い渇きを抱えている。その渇きを互いに癒やすかのように、俺たちはここ三日間、身分の差も、時間の経過さえも忘れて語り合ったのだ。
 
 だが、今日は違った。
 俺はいつもの席で、読みかけの魔導書を開いたまま、ただ入り口の扉を見つめていた。
 柱時計の重厚な針の音が、カチリ、カチリと、やけに大きく響く。
 その針は、とっくに約束の時間を過ぎていた。
 
 ……来ない。
 隣の椅子は、冷たいままだ。
 昨日までは、この時間になれば必ず、あの扉が開いた。
 錆びついた蝶番がきしむ音さえ、彼女が来る合図だと思い、内心愛おしく感じたものだ。
 扉の向こうから、あの気品ある白百合の香りと共に彼女が現れる。
 
「ごきげんよう、アルト先生」
 そう言って、花が咲くように楽しげに笑いかけ、俺の隣に座る。
 絹擦れの音。柔らかな吐息。ページをめくる白く細い指先。
 それらがもたらす温もりが、この薄暗い地下室を、世界で一番輝く場所へと変えていた。
 
 しかし今日は、カビと古紙の乾いた匂いだけが、俺の鼻腔を満たしている。
 廊下で誰かの足音がするたび、心臓が跳ねた。
 だが、足音は近づくことなく遠ざかり、あるいはただの風の悪戯だと気づく。
 
 その度に、期待という名の熱が急速に冷め、代わりに鉛のような重さが胃の腑に溜まっていく。
 一分が、一時間にも感じられる拷問のような沈黙。
 開かれたままのページの上を、視線だけが虚しく滑る。文字など、一文字も頭に入ってこない。
 
 ……なんだ。結局、そういうことか。
 約束の時間を一時間も過ぎた頃。
 俺は、胸の奥にじわりと湧き上がった正体不明の痛みを、無理やり「納得」という分厚い蓋で押し込めた。
 
 飽きたのだ。
 所詮は、雲の上の住人である王族の、気まぐれな暇つぶしだったのだ。
 薄暗い地下書庫という変わった場所で、没落貴族という珍しい「おもちゃ(俺)」を見つけた。
 少し触って、少し喋って、珍しい知識を引き出して遊んでみたけれど、三日もすれば底が見えた。そして、飽きた。
 
 それだけのことだ。
 昨日の議論で、俺は彼女の知的好奇心を満たしきってしまったのかもしれない。
 あるいは――俺が「魔力はない」と頑なに嘘をつき続けたことに、愛想を尽かしたのか。
 
 彼女は聡明だ。俺の不自然な言動から、何かを隠していることくらい察していただろう。
 誠意のない平民もどきになど、これ以上時間を割く価値はないと判断されたとしても不思議ではない。
 
「……はは。よかったじゃないか」
 乾いた笑いが、唇から零れ落ちた。
 その声は、誰もいない書庫の闇に、無様に吸い込まれて消えた。
 これで、俺の平穏な日常が戻ってくる。
 
 あの恐怖の拘束時間は終わりだ。
 もう、不敬にならぬよう言葉を選んで冷や汗をかくこともない。
 彼女の美しい顔色を窺い、機嫌を損ねないよう道化のように振る舞う必要もない。
 もし王女に何かあれば、その責任を問われて処刑されるかもしれないという重圧からも解放される。
 
 俺はまた一人で、誰にも邪魔されず、この地下書庫で知識の海に没頭できる。
 これは、俺が望んでいた本来の形だ。
 誰とも関わらず、誰にも期待されず、ただひっそりと生きる「モブ」としての生活。
 
 ……それなのに。
 なぜ、隣の空席が、こんなにも寒々しく感じるのだろう。
 いつも座っていた硬い木の椅子が、まるで氷の玉座のように冷たく見える。
 なぜ、愛読していたはずの魔導書が、ただのインクの染みがついた紙束にしか見えないのだろう。
 
(……バカか、俺は……!)
 奥歯を噛み締める。
 期待していたのか?
 あの高潔な王女殿下と、対等な関係になれたなんて。
 身分の壁を越えて、心を通わせる「友人」のような存在になれたとでも、本気で錯覚していたのか。
 
 鏡を見てみろ。
 お前は、没落したキルシュヴァッサー家の生き残り。
 魔力を持たないと蔑まれ、社会の隅っこで息を潜めるだけの「灰色ネズミ」だ。
 
 対して彼女は、国を象徴する王家の王女殿下だ。
 住む世界が違うどころの話ではない。本来なら、視線を合わせることさえ許されない存在なのだ。
 
 三日間の夢。
 それが長すぎたのだ。
 自分の価値を勘違いするには、十分すぎるほど甘美で、残酷な時間だった。
「……っ」
 
 胸が痛い。
 物理的に抉り取られたかのように、心臓のあたりが疼く。
 拒絶されたわけではない。言葉で罵られたわけでもない。
 
 ただ、「忘れられた」だけだ。
 彼女の煌びやかな日常の中で、地下書庫での約束など、路傍の石ころのように取るに足らない記憶の断片として、捨て置かれただけ。
 それが、何よりも惨めで、情けなかった。
 
 俺は、開いていた本を乱暴に閉じた。
 バタン、と重い音が静寂を切り裂く。それは、俺の中の何かを断ち切る音でもあった。
 
 ガタッ。
 立ち上がると、椅子の脚が床を擦り、悲鳴のような音を立てた。
 その音さえもが、「お前は一人だ」と嘲笑っているように聞こえる。
 
「……帰ろう」
 俺は独り言のように自分にそう呟くように言った。声が震えないように、腹に力を入れ……。
 今日、俺は学んだ。いや、思い出したのだ。
 身分違いの交流など、所詮は幻だということを。
 光の当たらない地下の住人が、太陽に手を伸ばせばどうなるか。
 
 焦がれ、焼かれ、そして影がより濃くなるだけだ。
 一度見た甘い夢は、覚めた時の現実を何倍も残酷にする猛毒でしかなかった。
 俺は鞄を掴むと、逃げるように地下書庫の出口へと歩き出した。
 
 背後を振り返ることはしない。
 振り返って、もし誰もいない空席をもう一度見てしまえば、俺は惨めさで泣き出してしまうかもしれないから。
 もう二度と、この席で誰かを待つことなどないだろう。
 俺には、孤独がお似合いだ。
 重い扉を閉めると、書庫の闇が完全に俺の世界を閉ざした。
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