名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

文字の大きさ
14 / 22
猿の帯留めの章

しおりを挟む
 クロの家に帰った。結局、何の為にあの青年に会いに行ったのか、自分でもよく分からなかった。シロツメクサを自由にしたい、という青年の言葉が、強く、残っていた。大事なことは、胸よりも、頭の方に残るのだな、と、思われた。
 シロツメクサは、シロツメクサだけの所有であるべきだった。
 家に帰ると、クロが、割れた茶碗を片付けていた。シロツメクサが黙って、箒で畳の上をはいていた。クロは俺を見て、おかえり、と言う前に、申し訳なさそうな微笑をしてみせた。シロツメクサは、何とも言わず、無心で手を動かしていた。赤くなった目元が、泣いていた、とも見えた。畳の上で夕焼けを浴びて光る破片を見ながら、俺は、少し茫然とした。
「喧嘩か?」
 といって、笑おうとして、片頬が奇妙な引き攣り方をしたのが、分かった。シロツメクサは、きつく唇を結んで、同じところを、繰り返し掃除していた。やはり、泣いていたのだろうと、思われた。破片よりも、シロツメクサの目の縁が光って見えた。
 クロは立ち上がって、背筋を伸ばした。
「シロ、もう充分です。先に、お風呂の支度をしましょう」
 シロツメクサは、顔もまともに向けないまま、小さく、素早く、顎を引いた。

「僕は、あの人を自由にしたい」
 喉の奥に詰まった、熱い塊をその形のまま吐き出すように、青年は言った。
「俺たちは、シロを縛り付けていない」
 俺は言い返したが、青年の吐き出した、熱い塊に、たじろいでいた。
「それは、自由にしている、ということなのですか」
 青年は、強い口調で、叫ぶのを抑えるように言った。
「あの人は、自由に生きるべき人です。たくさんの人と話をして、たくさんのものを見て、たくさんのことを学ぶべきです。僕が、教えてあげます。綺麗なものも、そうでないものも、たくさん知るべきです」
 そして青年は、悔しそうに、言った。
「たった一人の人を、神様のように信じて生きるのは、違う……おかしい」

 背後に、背の高いクロが、ぼぅっ……と立っていた。
「悲しそうだな」
 俺は言った。
「悲しいのです」
「悲しいのは、シロだろう」
「なるほど」
 なるほどと思って、なるほどと言ったような、クロだった。
「喧嘩したのか」
「シロが、怒ったのです」
「だから、喧嘩したのだろう」
「そういうものなのでしょう」
 そういうものか、と思った。
 俺は縁側に座って、墨を塗りつけたような空に零れて点々と光る、青白いものを見上げていた。黒い浴衣に黒い髪のクロは、闇の中に立ったまま、沈んでいこうとしているようだった。肌の色だけが、妙に青白い。
「あなたは、私がこうして、幾年も生きるようになった理由を、一度も訊いたことがありませんね」
 耳障りが良すぎるような、クロの声は、畳の上を滑らかに滑った。
「理由が、あるのか」
 俺は、少し驚いていた。クロはそういうものだと思って、深く考えることもなかった。花が咲くように。風が吹くように。空が遠いように。俺の妻と呼ばれた女が、死んだように。そういうものだと、思っていた。
「随分と遠いことなので、私も、よくは覚えていないのです。ただ、怨恨だったと、記憶しています。祟られて、罵られて、呪われて……」
 ふと、クロは唇を結んで、暗く笑んだ。
「目を覚ますと、こうなっていました」
 どこかで、夜の鳥が鳴いた。
「これでも、愛する人がいたのです。けれど、離れていってしまいました。私が呪われていたからです。私は、その人が私以外の人と一緒になって、子どもを作って、苦労したり、幸せを感じたりする姿を、見ていました。けれど、その人も、その人の夫も、子どもたちも死にました。私は死にませんでした。それからも、好きになった人はいましたが、皆、私が呪われているのを知ると、離れていくのです。私は、その人たちに未練があるので追いかけます。けれど、皆死ぬのです。その人たちが死ぬたびに、辛くて堪らないのです」
 クロは、どんな人を好きだと思ったのだろう。追いかけて、追いついて、また逃げられて、それでも追いかけて、その終わりを見る。
 それは、とても疲れることなのではないかと、思った。
「そう、なのか……」
 悲劇、なのだろう。しかし、途方もなくて、俺には共感しようがなかった。
「辛かったのです。人が死ぬことに、慣れることはありません。悲しくて堪らなくて、死んでしまうと何度も思って……けれど、私は死にませんでした」
 そういう、呪いなのだろう。
 クロと初めて会ったとき、クロの中には今よりも、その悲劇の残滓が色濃く残っていたのかもしれない。かもしれなかったが、茫洋とした印象しか思い出せなかった。
「これでも、分かっているつもりなのです」
 クロの話は、続いた。
「私は、この姿のまま、老いることなく、死ぬこともない。けれど、周りは変わる。老いていく。死んでいく。同じ季節は還ってこない。あんなに小さかったシロだって、大きくなりました」
 クロの目の縁が、震えたように見えた。
「辛くて堪らなくて、人を愛することをやめたつもりになって、考えることをやめて、理解することをやめて、だから……自分が寂しいことを、忘れたつもりになっていました」
 俺は、クロのように追いかけるほど誰かに執着したことはない。人が老いて死ぬことは、クロよりも理解しているつもりだが、クロのように悲しんだことはない。だから、クロの気持ちは分からない。
 けれど、寂しい、というのは、分かる気がする。

「シロも、いつかは、私を置いて死ぬのです」


 ――桜の木の下に埋めた、俺の妻と呼ばれた女の体。
 後を追いかけようと思うほど、あの女に執着していたわけではない。
 いずれ俺より先に死ぬことは分かっていたから、女が死んでも、落ち着いていた。
 死ねばその体はただの抜け殻で、語っても触っても、答えることはない。
 それが、寂しいな、と、思っただけだった。

「シロにとっての幸せは、一年ごとに、共に老いる人と添って、当たり前に生きて、当たり前に死ぬことなのでは、ないでしょうか」
 クロは、悲しそうだった。辛そうだった。苦しそうだった。寂しそうだった。
「けれど、そう言うと、シロは泣くのです。怒るのです。自分は私のところに嫁いだのだと言うのです」
 暗く沈んだクロの目は、それでも、一滴の涙を見せることもなかった。
「シロは、自分の意思で私のところに来たのではありません。子どもで、周りの大人に逆らえなくて、私の元に供物として押し付けられたのです。最初から、優しくできなかったのなら、優しくしようとするべきではなかったのです」
 クロは、目を見開いた。怨恨で、変わること、老いること、死ぬことを失ったクロは、泣くこともできないのかと、思われた。
「シロを想うと、悲しいです」
 呪うように、クロは言った。
「辛いです。苦しいです。……寂しいです」
 俺は、目を閉じて、三つまで、ゆっくり数を数えて、開いた。胸の内は、先ほどよりは凪いでいた。これなら、激することなく、伝えることができる、と思った。
「……クロ」
 俺は、言った。襖の向こうで、シロツメクサが俺たちの話を聞いているのが、分かった。

「シロツメクサは、自由だよ」

 クロは、遠くを見つめた。眩しそうに、目を細める。泣きそうな顔ではなかったが、何かが抜け落ちていこうとする、表情は安らかに見えた。
 妻になった女を、桜の木の下に埋めて、気が付いたことがある。
 俺は、あの赤ん坊を死なせたくなかった。
 死なせたくなくて、あの、熱い命の塊を、抱いたのだった。

「シロツメクサは、自由だよ。自由に、お前を好きでいるだけだよ」

 きっと、そうなのだろう。

 安らかな気持ちだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。 前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。 ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。 「この家は、もうすぐ潰れます」 家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。 手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。

追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発

ハーフのクロエ
ファンタジー
 アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。

学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜

織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。 侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。 学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...