別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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武家の女(おなご)〈弐〉

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 ある日、与岐よき家中かちゅうで働く女中たちが縁側の隅で雑巾掛けの合間に声を潜めて噂話をしているのを聞き及んでしまった。

「……ねぇ、あんた、進藤様の御家おいえにさ、うちの与岐様のお嬢たちのお世話をするおなごがやって来たって知ってっかい」
「えっ、何だい、どういうこったよ」
「へぇ、知らねえのかい」
「なんだよ、焦らしっこなしだよ。早く云っとくれよ」
「わかったよ、わかったから静かにおしよ。だれかに聞かれちゃどうすんだよ。
 ……なんでもさ、進藤様の大奥様が手前てめぇの親戚筋から若旦那様の後妻のちぞえにするおなごを連れてきたって話だよ」
「えっ、乳飲み児の乳母じゃねぇのか。与岐様とは離縁すらしてねえってのに……」

 組屋敷に居を構える武家の奥方や子女たちであらば、恥を忍んで表立っては口にせぬであろうが、町家から雇い入れた女中や中間ちゅうげん(下男)なら人の口に戸は立てられぬ。
 瞬く間に組屋敷じゅうの者の知るところとなり——否や、もうすでにあらゆるところにて噂で持ちきりだろう。

 ——家中の揉め事なぞ「御家の恥」ではあらぬか。のままでは「進藤」の名の沽券にかかわる……

 娘たちの行く末に、支障をきたすことになりかねない。

 ——わたくしが……千賀や芙美のためにできることと云えば……

 居ても立っても居られなくなった与岐は文机ふづくえに向かった。硯箱を開けて、一心不乱に墨を擦り始める。

 やがて、墨が黒黒と擦り上がった。
 与岐は筆を手に取ると、婚家から突きつけられていた去り状を受け取る旨のふみしたため出した。

 ついに、かすかに心をつないでいた細い糸がぷつり、と切れてしまった。


 婚家に文が届けられて数日が経ったころ、与岐の生家に夫の進藤 又十蔵が現れた。
 同じ組屋敷に居を構える都合上、顔も合わせぬまま縁を切るわけにはいくまいと考えたのであろう。

 本田の家で一番良い座敷に案内あないされた又十蔵は、床の間を背にした上座に腰を下ろし左側におのれの大小の刀を置いた。
 すかさず与岐が茶を供すると、左手で湯呑みを掴んで一口喉を潤した。

「——先頃より、御役目では八代の公方くぼう様の頃に出された御定書おさだめがきのお改めが佳境を迎えてござってな。父上ともども昼夜奉行所に詰めてござって、家中のことは母上に任せきりゆえ、なかなか此方へ参る間がなくてな」

 ——ようやく来たかと思えば、いきなり云い訳じみたことを……
 与岐は少し腹立たしげに思いつつも、
「さようでござりまするか。旦那様におかれましてはご多忙の中のお出まし、恐縮至極にてつかまつりまする。どうぞ御身に触りませぬように」
 と涼しい顔で返した。

「ところで……先日、遣いの者に持たせた文はまことか」

 ——何を今さら……いきなり去り状を突きつけてきたのは、そちらの方であると云うのに…… 
 この物云いには、さすがに与岐の頭にカッと血が上りそうになった。
 
 されども、なんとかこらえる。
 進藤は代々奉行所でのお裁きの判例集をまとめる御家ゆえ書状にはうるさい。
 おそらく後々の禍根を残すことのないよう、又十蔵自ら本田家側の言質を取りにわざわざ出向いたのであろう。

 さようなことよりも、与岐にはどうしても聞き入れてもらわねばねばならぬことがあった。ここで又十蔵を怒らせてしまうのは得策ではない。
「……実にてござりまする」

 そして、下座の与岐は畳の上に額を押しつけんばかりに伏した。
「旦那様、後生でござりまする。たった一つ、わたくしの最後の願いをお聞きくださりませ」

「願いとは何でござるか、はよう申せ」
 又十蔵は鼻白みながらも与岐を急かした。

「二人の娘——千賀と芙美がわたくしに会いたいと申したときに、必ず会わせてくださりませ」

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