別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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再逢〈伍〉

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「松波は、代々南町奉行所の御奉行様を支えて与力や同心を束ねる年番方の御役目にてござるのに、此度多聞が北町より嫁に迎えた嫁御・志鶴しづる殿に対する些細しさいが、なんと町家の衆にまで伝わってござったとは……」
 又十蔵はこれより先の町家での松波家の評判をおもんぱかってか、顔をしかめた。

「何を他人事のごとく仰せかッ。芙美が北町の嫁ぎ先でこの刹那、いかなる仕打ちを受けておるやもしれぬと云うに——」
 与岐は娘の身を思うと気も触れんばかりであった。

「落ち着け、与岐」
 又十蔵がなだめる。
「芙美を北町へ嫁に出すにあたっては、それがしが松波の源兵衛げんべえ・多聞親子を引き連れて佐久間家へと参って、しかと話をしてござる。その折に進藤家として、当主の彦左衛門ひこざえもん殿および縁組相手の嫡男・帯刀殿には頭を下げて詫びた。
 ——志鶴殿をいびり倒したのは、富士ふじでござるからな」
 其の富士は進藤家から松波家へ嫁したゆえ、又十蔵と源兵衛は義兄弟、そして多聞は又十蔵の甥になる。

「当の富士は夫・源兵衛のめいによりしばらくの間蟄居させられてござった。実家さとである進藤に戻すことも考えたようでごさるが、母上がおるからな。甘やかされては却って藪蛇でござる。
 されど、今は志鶴殿の慈悲によってすでに蟄居は解かれておるそうでござる」
 武家も町家も問わず世間では「北町小町」とうたわれ、さぞかしもてはやされて育ったはずなのに決して驕ることなく、無碍にされた姑をゆるす志鶴の懐の深さはまるで観音様である。
 松波家は千賀でなく志鶴を迎え入れたことで功を奏したのだ。

「機を同じうして、めでたきことに志鶴殿が懐妊してござった。その後、嫡男・兵馬ひょうまが無事に生まれ、松波は跡取りができ佐久間家にとっては初孫ゆえ、その喜びはひとしおでござってな。おかげで両家のわだかまりはすっかり消え果ててござる」

「ま、まことでござりまするか。さすれば、佐久間様の芙美への扱いは……」
 与岐はほっと一安心しかけたが、又十蔵が渋い顔になる。
「実は、彦左衛門殿の奥方が……芙美にとっては『姑』でござるが、うちの母上や富士に少しばかり似た気性に見えるのだが——」
「そ、それでは、やはりッ」
 与岐は又十蔵のげんを遮って金切り声をあげた。
「娘が受けた仇を嫁で返す、と云う算段ではござらんかッ」

「待て待て、最後までよく聞け、与岐」
 再び又十蔵は与岐を宥める。
「芙美の夫となった帯刀殿とも、とくと話をしてござる。帯刀殿も自身の母のことはよっく心得てござる。 
 何より、芙美を一目見てたいそう気に入った様子でな。瞬く間に縁談が進んだのはそれゆえだ。
 決して芙美を無碍に扱うことなく彦左衛門殿父上とともに家中かちゅうには目を光らせると、帯刀殿はしかと約束してござった」

「されども……」
 与岐は未だ腑に落ちぬ。家中での「姑の力」が如何いかようなるものか、身をもって知っていたがゆえだ。

「それとな……帯刀殿に、しばらくして芙美が佐久間の家風に馴染んだ頃、町家の小伝馬町に住む生母に会いに行くのを許してやってはもらえまいか、と頼んでみたのだ」

「えっ——」
 与岐は驚きのあまり目を見開いた。

「しからば、帯刀殿は武家の御新造らしくしっかりと供をつけた上でならば、と快く承知してござったのだ」

 ——何と……北町に嫁入りした芙美に会える……

「帯刀殿は北町奉行所では当番方の見習与力で、何かござればすぐに駆けつけねばならぬ御役目ゆえか、町家の暮らしぶりをよう存じてござってな。
『もしそれがしが承知せねば、いつしか「おなごの公事師」なる女人がやってきて、さっさと去り状を書くよう迫られる羽目になるやもしれぬ心持ちがするゆえ』と云って、にやりと笑ってござったぞ」

 ——まさか、帯刀様はわたくしの生業なりわいを存じてござって……

「与岐、無闇矢鱈に案ずるな。所詮、我々が暮らす浮世なぞ成るようにしかならぬ」


 ゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


 与岐は押し切られて、辰吉との件が決着するまで渋々ながら又十蔵を我が家に置くことと相成あいなった。
 
「部屋は客間のこの座敷をお使いになって良うござんす。客用の夜具は物置にござんすからおのれでお持ちになって、朝になったらそこの衝立の陰にでも畳んで置いといておくんなまし。通いの下女にゃおまんまの支度と座敷の掃除は申し付けござんすが、進藤様の身の回りのことはわっちは知りゃあせんので、よごさんすね。あと、この家にゃあ茶など贅沢な代物はござんせんから、麦湯で辛抱しておくんなましよ」
 与岐は物云いを町家言葉に戻し、早口で捲し立てた。進藤の御屋敷にいた頃のごとく「嫁」として又十蔵の世話をするつもりなぞさらさらなかった。

相分あいわかった。若かりし頃は奉行所の宿直とのいの折に自ら夜具を敷いて、朝もおのれで身支度してござったゆえ、心配は無用にてござる。茶も別にいらぬゆえ、麦湯でじゅうぶんでござる」
 又十蔵は即座に応じた。


 それから幾日か過ぎた日の朝、通いの下女・おしかが裏木戸から仕舞屋に入ろうとしたら、見知った顔の女がぽつんと立っていた。

「あんれ、おいねじゃないかえ。朝早くにこんなところ一体いってぇどしたんだい」

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