別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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対峙〈壱〉

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 おしかは勝手口からおいねを仕舞屋の中へ入れてへっついのある土間に通すと、上りかまちに腰をかけさせた。それからおのれは三畳ほどの板間に駆け上がり、与岐を呼びに奥へと向かった。

 しばらくして、朝っぱらから何事かと与岐が板間にやってきた。おいねは上り框からぱっと立ち上がり、頭をがばりと下げる。
「後生でやんす。御新造ごしんぞさんの身の回りのことやら何やら、なんでもやるんで……どうかあたいをこの家に置いてくだせぇ」

「——藪から棒に……何だってのさ」
 朝がさほど強くない与岐であったが、さすがに目が覚めた。
「それに、おまえさん、亭主と子はどうしたんだえ」
 おいねは奉行所の御用聞きをしている岡っ引き・辰吉の女房だ。二人の間には一粒種の甚八がいる。

「亭主が……甚八を置いてかなけりゃ去り状は書かねえっうんで——何もかも置いて裏店うちから出てきやした」
 その言葉どおり、おいねの手には風呂敷包み一つなかった。

「あんた、可愛い息子を置いてまで家を出てくるなんざ……よっぽど辰吉っつぁんと別れてぇんだねぇ……」
 おしかは、呆れとも感心ともつかぬつぶやきを吐いた。

「置いてやりたいのは、やまやまなんだけどねぇ。わっちの身の回りのことはおしかがいるからさ。あいにく間に合ってんだよ」
 与岐は心苦しさをなんとか抑えて、きっぱりと告げた。
 可愛い子を置いて婚家を出るつらさはこの身をもって誰よりも知っている。さようなおいねの「覚悟」が並々ならぬものであろうと云うこともわかっていた。

「それに……実のところ、辰吉とはこれ以上波風立てずに事を収めたいって思ってんだよ」

 与岐が御公儀おかみの赦しを受けずに「おなごの公事師」をしているのではないかと、辰吉が奉行所に訴えを起こしたゆえだ。
 おいねが辰吉と離縁する考えを引っ込めさえすれば、辰吉も訴えを引っ込めて即決着となろうが、与岐の矜持としてまさかおのれの都合でおいねを犠牲にするわけにはいかぬ。

「正直云って、離縁するのにこれほどなごう掛かったのは初めてだけど、そいでも約束するよ。わっちが必ずおまえさんの亭主から去り状をもぎ取ってくるってんだ。
 ……だからさ、おまえさんには辛抱さしちまうけど、離縁が整うまでは裏店うちに戻って亭主はともかく甚八の世話はしておくれでないか。一度手放した子はどんなに望んでも、もう二度と手許にゃ戻ってはこないんだ。
 ——おいね、ほんとにわかってんのかい」
 与岐はおいねにとくと云い聞かせた。

 おいねはがっくりと項垂うなだれてしまった。張っていた気がすっかり抜けてしまったのかもしれぬ。
 どうやら、あれだけ親身になって離縁に関する面倒ををみてくれる与岐ならば、たとえ着の身着のまま飛び込んだとてそのまま家に置いてくれるに違いないと算段していたようだ。
 まさか、もう二度と戻らぬと覚悟して出てきた家にすぐさま戻れと諭されるなぞ夢にも思っていなかったのだろう。

 不憫に思ったおしかが、そっとおいねの肩に手を置く。おいねと同じ年頃の娘がいて、大工に嫁ぎ子を一人産んでいた。その娘に重なって見えるのであろう。

「——ならば、それがしが雇おう」

 突然声がして皆がそちらへ目を遣ると、又十蔵が板間の向こうの廊下に立っていた。

「し、進藤様……い、いつの間に……ッ」
 びっくり仰天した与岐の声が裏返った。
 おなご一人が住まうにはじゅうぶんとは云え、所詮は仕舞屋である。又十蔵が寝起きする座敷にまで声が響いたため、何事かと出てきたのであろう。

「なあに、それがしの身の回りの世話をするのに、ちょうど都合が良うござった。渡りに船でござる。さすれば、おいねとやらはこの家におれるゆえ一挙両得でござるな。
 ……あぁ、もちろん給金は進藤家が払うゆえ、与岐は心配無用でござるぞ」
 又十蔵は懐手をして鷹揚に告げた。

「あぁ、ありがてぇ。御新造さんのご亭主でやんすか。地獄に仏とはこのこってす」
 おいねは又十蔵にがばりと頭を下げた。

「か、勝手なことをお云いでないよっ、おいねを仕舞屋うちなんかに置いた日にゃ、わっちがおいねを亭主から引き離すためにそそのかしたって辰吉に思われるのが関の山じゃないかっ。
 そ、それに、進藤様はわっちの亭主なんかじゃないよっ。おまけにとうに『新造』なんて歳じゃねえかんね。おいね、わっちのことは名前で呼びな」


 ゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


 またもや与岐は又十蔵に押し切られて、渋々おいねを我が家に置くことと相成あいなった。
 下女が住み込む部屋なそあらぬゆえ、竈のある土間を上った三畳ほどの板間で寝起きする。されども、おいねは「置いてくれるだけでありがてぇ」と逆に手を合わせこそすれ、まったく頓着しなかった。


 それから幾日か過ぎた日の昼間、いきなり門口からとてもおとないとは思えぬ怒鳴り声がとどろいた。
 おしかとおいねが何事かと表に出ると、其処にいたのは——

 おいねの亭主・辰吉であった。

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