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対峙〈弐〉
しおりを挟む「おいね、見つけたぜっ。おめぇ、こんな処にいやがったんだなっ」
辰吉はそう叫ぶなり、様子を見に表へ出てきたおいねめがけて手を伸ばすと、袂を引き寄せてその腕をがしっと掴んだ。
「い、痛いってんだよっ、放しとくれっ」
おいねは身を捩って抗い、なんとか辰吉の手を振り払おうとする。
「うっせぇ、朝起きたらいきなりいなくなっちまいやがってっ。手前が腹痛めて産んだ子を置いて出ていくなんざぁ、そいでも母親かっ。鬼子母神だって手前の子を守るためにゃあ何だってするってぇのによ。おめぇのしたこった、鬼以下の所業だってんだ。——さぁ、甚八の許へとっとと帰るぜ」
「ちょ、ちょいとお待ちよ、辰吉っつぁん」
あまりの剣幕に、おしかはおろおろするばかりだ。
「——いったい何の騒ぎだえ。往来の目と鼻の先でみっともないったらありゃしないよ」
与岐までもが仕舞屋の中から出てきた。されど、騒ぎを起こしているのが辰吉と知れると、さっと表情が曇った。
「お与岐さんっ」
助けが来たと、おいねの顔はぱっと明るくなる。
「辰吉、乱暴な真似は止しな。おいねが痛がってんのがわからないのかえ。おまえさんがさような朴念仁だから、女房が逃げ出したくなっちまうんだよ」
おいねに掴みかかっている辰吉を見て、与岐は眉を顰めた。
「はん、いくら南町の筋の御武家さんっ云ってもよ、町家の女房を唆して亭主と別れさす手引きしておまんま喰ってるってのは、如何なもんでさ」
辰吉は鋭い目付きで与岐を見据えた。
「しかも……御公儀の赦しも得ずによ」
辰吉は右手はおいねの腕を掴んだまま、左手で帯に手挟んでいた十手を引き抜いた。十手は奉行所の御用を聞く「手先」である証である。ゆえに「十手持ち」とも呼ばれる。
そして、十手持ちが其れを使うのは咎人を捕縛するときだ。
「此処は町家だ。御武家であろうなかろうと、あんたがやっちまったことはおいねを拐かしたことに違いねえ。まずはおいらが話をよっく聞いてから、同心の旦那に突き出して吟味(取調べ)してもらわねぇといけねぇな」
辰吉は凄みつつ、ずい、と与岐に詰め寄る。
「——ちょいと番所まで来てもらおうか」
日頃、破落戸どもを相手に番所に引っ立てて連れて行っては、仕置きを使った手荒い吟味を行っていた。
与岐が辰吉の勢いに押されて、思わず後ずさったそのとき……
「——辰吉とやら、控えおれ」
又十蔵の威厳のある重々しき声が辺り一面に響いた。
「我ら奉行所は、おまえの私利私欲のために十手を預けておるわけではあるまいぞ」
「進藤様……」
振り返った与岐は呆然とつぶやいた。
又十蔵は気楽な着流し姿であったが、腰には大小の刀を差していた。
ひとたび使えば後々処分がなされることもあるが、武家として体面を保たねば恥をかく場合には「切り捨て御免」と一刀両断できる身分だ。
「おまいさん、進藤様はね、日頃あんたがへいこらしてる同心よりずーっと上の『与力様』だってんだよっ。それに、お与岐さんの別れたご亭主だよっ」
おいねが勝ち誇ったように云う。
俗に「江戸の三男」と呼ばれる「与力・相撲取り・火消しの鳶」は江戸に住む女人たちの憧れの的である。
辰吉とて本職は「火消しの鳶」ではあるが、いくら三男と並び称されていたとて、町家の衆にとって「与力」は別格で雲の上の人であった。
「えっ、まさか……なにゆえ、そんな身分の高ぇお人が……こんな町家の仕舞屋に……しかも、『別れたご亭主』だと……」
辰吉の顔がみるみるうちに真っ青になる。
与岐が御武家の出であるのは百も承知の二百も合点であったが、離縁して町家に住んでおなご一人で暮らしを立てていると云うことは——すなわち、実家を追い出されたのだと思い込んでいた。
ゆえに、与岐を捕縛するために少々手荒なことをしたとしても何処からも咎められることはないと信じていた。
されども、元亭主である与力の目の前で、まるで奉行所の笠を着るがごとくこれ見よがしに十手を出してしまった。
もしかしたら、辰吉の十手は奉行所に返納せねばならぬようになるやもしれぬ。
さすれば、辰吉はもう「十手持ち」ではいられなくなる——
掴まれていた腕の力が緩んだのを幸いに、おいねが辰吉の手を振り払って与岐の許へ駆け込んできた。咄嗟に、与岐はおいねを背中に回して庇う。
「おまいさんの方こそ、甚八はどしたんだよっ。裏店に放ってきたんじゃねぇのかよっ」
与岐の後ろから、身を乗り出すようにしておいねが問いただすと、
「起っきゃがれっ、甚八を連れておめぇを探すわけにゃいかねぇから、裏店の近所に住む女房どもにちゃあんと預けてきてらぁ」
辰吉はおいねに対しては相変わらずの威勢で怒鳴り返す。
与岐はふーっとため息を吐いた。
「——辰吉、わっちはね、おまえさんから必ず去り状をもぎ取ってやるっておいねと約束したんだ」
後ろのおいねが、ふんふんと肯く。
「だけどね……実のところ、これからのおまえさんの心持ち次第では、おいねと縒りを戻す手助けをしてもよいと思ってんだよ」
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