別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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対峙〈参〉

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「そ、そんな……お与岐さん、今になってひでぇよ」
 おいねが背後で悲鳴混じりの声をあげた。

「早合点しねえで、よっくお聞き。わっちは辰吉に『これからのおまえさんの心持ち次第では』ったんだけどねぇ」
 そして改めて辰吉に向き直ると、そのまなこをじっと見据えた。
「あんた、本気でおいねと縒りを戻してぇんだったらさ——まずは、甚八を此処ここに連れてきな」

 すると、今までいろんな破落戸ごろつきを相手に時には大立ち回りをしてきたはずの辰吉が、気圧けおされたのか、ごくり、と生唾を飲んだ。

「これからのおまえさんをしかと見定めさせてもらうのは、おいねじゃないよ。わっちさ」
「えっ、おめぇさんがおいらを見極めるってのかい」
「ああ、そうさ。あんたが心を入れ替えてこれなら女房とりを戻しても大丈夫でぇじょうぶだと見極めるまでは、おいねと甚八はわっちが預かるかんね」

「そいつぁ、殺生な話だぜ……ちっと待っとくれよ……」
 おいねを力尽くで丸め込んで連れ帰ろうと乗り込んできたのに、辰吉はすっかり当てが外れてしまった。

「辰吉、往生際が悪いぞ」
 又十蔵が一喝した。
「すでにこの時より、与岐のおまえへの『見極め』が始まってござるのがわからぬか」

「まったく……町家では何かってぇと頼りにされてる『辰吉の親分さん』だってのにさ。この期に及んで悪あがきするなんざ、みっともねえったらありゃしない。目も当てらんないね」
 おしかも呆れた声で辰吉をじろりと見た。たぶん明日の晩には「辰吉の親分」の無様な姿がおもしろおかしく裏店じゅうの女房の耳に入ることであろう。

「わ、わかったよ、今すぐ裏店うちけぇって甚八を連れてくるってのよ。
 その代わり、これからおいねや甚八のために心を入れ替えるつもりだかんさ。ちゃんとおいらのことを見極めとくれよ」
 四方八方から責められた辰吉はたじたじになる。

「あぁ、もちろんそうさ。本職の鳶で稼いだ銭を無闇矢鱈と岡っ引きの方に回さず、ちゃんと家に入れるこったね。それから、どうせ甚八の世話も裏店の女房連中に丸投げしてたんだろ。これからは、せいぜい会いにきて顔を見せてはてて親らしく遊んでやんだよ、いいね」
 与岐はまるでお白洲の御奉行によるお達しのごとく、きっぱりと云い渡した。

「お与岐さんっ、なんてありがてぇこって……」
 感極まったおいねが、わああぁと与岐にすがり付いた。

 家に置いてきた甚八にちゃんとおまんまをえせていないんじゃないかと、母恋しさに夜泣きする甚八がちゃんと眠れていないんじゃないかと、心配で心配でしようがなかった。
 実を云えば「あたいさえ辛抱すりゃあ……」と思い詰めて、幾度家に帰ろうとしたことか——

「おいね、よう踏ん張ったね、えらかったよ」
 与岐はおいねを抱きとめて、何度も何度も背中せなさすった。


 しばらくして、昂っていた心持ちをいくぶん落ち着かせたおいねをおしかに任せると、与岐は又十蔵の方へ向き直った。
「進藤様、先ほどはすんでのところでのご加勢、誠に痛み入りてござりまする」
 与岐は武家言葉に戻し、深々と頭を下げた。

「いや……それがしが出る幕は……さほどもござらんだな……」
 又十蔵は決まりが悪そうに小声でつぶやいたが、与岐は首を左右に振った。
「正直申せば、辰吉が十手を出してきたあの刹那、わたくしにはどうすればよいのか皆目浮かばず……情けなきことに心の臓がただただ早鐘を打つばかりでござった。
 さすれば進藤様がお出ましになり、辰吉を制してくださりますれば、わたくしが如何いかほど安堵し、心強きことでござったか……」

 もしも又十蔵がこの仕舞屋にいなければ、与岐は辰吉に番所へと引っ立てられていたことであろう。
 妙な意地を張らずに又十蔵を八丁堀へ帰らせないでよかったと、心の底から思った。

「されども、進藤様……」
 さりとて、これからは違う。
「おかげさまで、もうこの先は辰吉とのいさかいが起こることはありますまい。
 ——どうぞ、心置きなく奥方様の待つ八丁堀へとお帰りくださりませ」
 再び、与岐は深々と頭を下げた。そして、頭を上げたそのとき——

 目の前の又十蔵が、突然ぐらりとかしいだかと思いきや、なんとそのまま地面に倒れ込んでしまったのだ。

「し、進藤様っ、い、如何いかがなされたッ」
 仰天した与岐はすぐさま駆け寄った。すると、額にびっしょりと脂汗をかいた又十蔵が苦しげな形相で着流しの胸元をぎゅーっと固く握りしめていた。

 ——いったい、何が……今の今まで、何のきざしもござらんかったと云うに……

「お与岐さんっ、揺すぶっちゃだめだよっ」
 おしかが飛んできて、与岐の手をがしっと抑えた。気がそぞろになっていたのか、与岐は知らず知らずのうちに又十蔵を揺さぶろうとしていた。

「ほらほら、おめぇさんたちも、ぼうっとつっ立ってんじゃないよっ」
 呆然と立ち尽くすおいねと辰吉に向かって、おしかは次々と申し付けた。
「おいね、大急ぎで玄丞げんしょう先生を呼んどいで。途中でかごに出会ったら、乗ってくんだよ」
「あ、あぁ、行ってくるっ」
 おいねは青山緑町にある医者を目指して門口を飛び出して行った。
「辰吉っつぁん、男手が入用なんだ。進藤様を家ん中のお座敷へ運んどくれ」
「お、おう、よしきた。力仕事は任しとくれ」
 弾かれたように我に返った辰吉は、又十蔵の側へ走ってその上体をそっと抱え起こした。

 まさかと思うことが起こってしまい途方に暮れる与岐にも、やるべきことがあった。
 ——このことを、進藤様の奥方様に……知らせなければ……

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