別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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対峙〈肆〉

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 すぐさま又十蔵は辰吉によって寝起きしている座敷に運ばれ、おしかが敷いて整えた夜具に寝かせられた。
「進藤様、玄丞先生がおいでになるゆえ、お気を確かに保ちくだされ」
 与岐が枕元で又十蔵に呼びかけた。

「……う……ん……」
 又十蔵は微かな声で応じた。先ほどまでの苦しそうな形相よりはいくぶん和らいではいたが、まだまだ唇の色がない。
 与岐は水を張った木桶の中で手拭いを固く搾ると、又十蔵の血の気の失せた顔から首にかけてそっと拭ってやった。


 そうこうしているうちに、籠に乗って医師の竹内たけうち 玄丞が馳せ参じた。助手として娘の初音はつねも連れてきている。

 居を構える青山緑町で町医として日夜病人のために駆けずり回る玄丞だが、武家の出ゆえ本職は安芸広島新田しんでん藩の御殿医である。武家も町家も分け隔てなく診る稀有な玄丞を、進藤家のみならず与岐の実家の本田家も何かと頼りにしていた。
 与岐が又十蔵の先妻であったことはもちろん承知している。

 おしかの案内あないで足早に座敷に入ってきた玄丞は、早速又十蔵のたもとをめくって脈を診ると、今度は夜具をまくって着流しから見える膝下の皮膚を指で押さえた。壮健な者であらばすぐに戻るが、指の形が白く残ったままだ。
「……父上、やはり浮腫むくみがひどうござりまするね」
 初音がぼそりとつぶやくと、
「それに、手足に痺れが出てござるな」
 玄丞が眉をひそめた。

「浮腫みと痺れにてござりまするか。心の臓ではなく……」
 又十蔵が胸を掴んでいたゆえ、与岐はてっきり心の臓がいきなり如何どうにかなったのかと思っていた。
「心の臓はまださほど気遣いするにあたわぬのだが、実は——進藤様には宿痾しゅくあ(持病)がござってな」
 玄丞はさように告げて顔をしかめた。

「まさか、進藤様に……宿痾なぞ……」
 与岐は言葉を失った。娘二人は嫁に出したものの、嫡男はつい先頃元服したばかりである。そればかりか、奉行所の御役目で重責を担う働き盛りなのだ。

「——して、進藤様は何の宿痾を……」
 気を落ち着けると、恐る恐る与岐は尋ねた。

 御武家の御仁のやまいの名なぞ畏れ多くて聞くわけにはいかぬゆえ、おしかもおいねもそして辰吉も立ち上がり、そっと座敷から出て行く。


 やがて、玄丞がおもむろに与岐の問いに答えた。
「進藤様は——『江戸患い』でござる」
 
 江戸患いとは、野菜などが不足することにより足が浮腫んで痺れてそのうちに心の臓が弱まっていく、のちの世で「脚気かっけ」と呼ばれる病である。
 歴代の公方くぼう(将軍)様の幾人かが患った末に死に至らしめた怖ろしい病だ。
 
「そなたは存ぜぬでござろうが、進藤様に如何いかなる理由を付けてでも此処こちらにおいでになるようお勧めしたのは、それがしでござる」

 ——えっ、玄丞先生がなにゆえ……

「武家の世間も世知がろうござってな。もしも進藤様が病持ちだと知れると、奉行所に注進して例繰れいくり方与力の後釜を狙う輩が出てくるでござろう」
 今では当たり前のごとく親から子へ御役目が引き継がれているとは云え、そもそもは世襲ではない。引き継ぐべき嫡男が幼ければ、他家に御役目が移ったとて何もおかしゅうないのだ。

「では、なにゆえわたくしの家に……」
 与岐は不思議でしようがなかった。離縁した妻のもとなぞ、それこそ武士の沽券に関わることではないのか。

「あくまでもそれがしの考えにてござるが……」
 玄丞はさように前置きした上で云った。
「江戸患いには、米をかぬまま食した方が『薬』となるのではござらんか、と思うてござる」

 時代をもっと経てから判明するのだが、脚気は米ぬかに含まれる成分(ビタミンB1)によってある程度防ぐことができた。
 しかし、精米の技に優れた江戸では米糠が付いた玄米よりも米糠を除いた白米を食していたため、病を患う者が多くなった。なので、養生のため江戸を離れて地方に下るとおのずと玄米のままで食すようになり、病が軽くなった。
 脚気が当時の人々から「江戸患い」と称されたのは、その所以ゆえんである。

「さりとて……八丁堀の御屋敷では当主に搗かぬ米なぞ供するわけにはいかぬでござろうし、このまま進藤様の具合が悪うなればなったらで、奉公人の口からいつ当主の病の噂が流れるやもしれぬ。
 そこで、町家に住むそなたの家に転がり込めば、自ずと搗かぬ米を食すことになり、万事都合よく参るのではないかと思うてござってな」

 すると、又十蔵が弱々しい声で振り絞るように云った。
「玄丞……与岐は……搗いた……米で……ないと……喉を……通らぬ……性質たち……らしい……」

 同心や中間ちゅうげんの家ならいざ知らず、与岐の実家は「与力」である。しっかりと搗いた白い米を幼き頃より食していた。与岐が町家の暮らしでただ一つ馴染めなかったのが「搗かぬ米のおまんま」なのだ。
 ゆえに、町家に住んでも米だけは「しっかりと搗いた白い米」を支度していた。

「ええっ、せっかく町家においでになったのに真っ白なおまんまを召し上がってござったなんてっ」
 初音が素っ頓狂な声で叫んだ。
「——初音、口が過ぎるぞ」
 玄丞は娘をたしなめた。

「わたくしだって……一言仰せになってござれば、搗かぬ米を支度したものをっ」
 与岐は思わず病床の又十蔵をきっ、と睨んだ。


 ゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


 しばらくは動かすこともできぬゆえ、又十蔵は与岐の仕舞屋に留まることと相成あいなった。
 与岐は此度こたび些細を文にしたためて、又十蔵の御屋敷のある八丁堀の組屋敷へと遣いの者に持たせた。

 さらに幾日が過ぎ、進藤家の遣いが返しの文を携えてやってきた。
 文を開けると、奥方の端正な手(文字)が目に入ってきた。

 一度与岐と会って話がしたい、と云う旨であった。

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