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武家の妻女〈参〉
しおりを挟む「——その代わり、花江様が『進藤家の嫁御』として無事に御役目を果たし、克之助殿を立派に一人前に育て上げた暁には……わたくしが進藤様との離縁に向けての仲立ちをいたしまする」
「えっ……」
花江は目を見開いて与岐を見上げた。
「此れでも巷にて『おなごの公事師』と呼ばれてござって、数々の男どもから去り状をもぎ取っておりまする」
与岐は袖頭巾の下で、まるで釈迦如来のごとくにっこりと笑った。
おなごの目からはただただ慈悲深く、されど男の目からは腹の底まで見透かされるかのように見える笑みだ。
「ご安心なされませ。必ずや進藤様にも書かせまするよう、お約束いたしまする」
そのとき、茶汲み娘があったかい茶を運んできた。馥郁とした香りが小上がりに漂う。おそらく京よりの「下り茶」であろう。
与岐は往来から少し入ったこじんまりとした水茶屋ゆえに少々侮っていたが、改めねばならぬと思った。
「……此処は、わたくしの父の『手先』でござった者が営んでおりまする店にてござりまする」
この店の主人は同心であった花江の父親が嫡男に御役目を引き継いだのを切欠に、十手持ちを辞めて水茶屋へ専念していた。
花江とっては幼き頃より通い慣れた店だ。だからこそ、出入り口に近い処で与岐を待っていた。
「あれ、まぁ、本日は……気を利かせてとびきりの上茶を淹れてござっておりまするね」
花江の目がやわらいだ。
「さすれば、冷めぬうちに味わいましょうぞ」
与岐はさように云って促した。
そして、茶を飲むために二人はどちらからともなく被っていた袖頭巾を脱いで、初めて互いの素顔を晒した。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
小伝馬町の仕舞屋に帰ってきた与岐は、裏の勝手口へ回って竈のある土間に入った。
「お与岐さん、お帰りなせぇ」
おしかが水を張った盥と手拭いを持って出てきた。
「おしか、留守番ご苦労だったね」
上り框に腰をかけると、小袖の裾をぺらりとめくって盥の中へ足を浸す。冷えた水がひんやりとして心地よい。
「あれ、おいねは……」
与岐は辺りを見渡して尋ねた。
「甚八を連れて夕餉のお菜を買いに外へ遣いに出してまさ」
おしかは土間に膝をつくと、往来を歩いていつの間にか砂まみれになった与岐の足を濯ぎながら答えた。
「元気の有り余ってる男の子が一日じゅう家ん中にいちゃあ、息が詰まっちまってその内ちょこまかとあちこち動き回るようになんのが関の山だかんねぇ。
甚八が騒ぎ立てでもして、お座敷でじっと養生なすってる進藤の旦那様のお身体に障りが出ちゃいけねぇとも思いやして」
与岐の足を濯ぎ終えたおしかは手拭いで丹念に水気を拭き取った。
おしかに礼を告げて板間に上がった与岐は、又十蔵が養生する座敷へと向かった。
すると、与岐が出かける前は臥せっていたはずの又十蔵が、夜具から起き出て座敷に面した縁側で障子を背にして胡座を組んで座しているではないか。
「進藤様、御身を起こしなされて……障りござらんか」
与岐は側に駆け寄って膝をつく。思わず武家言葉になっていた。
「ああ、今日は身体の調子も気分も良うござるゆえ、少し外の景色を見とうなってな」
又十蔵は与岐の気遣いとは裏腹に屈託なく応じた。確かに今までになく肌艶がよく、声色にも張りと云うより力が感じられる。
周囲を塀で囲まれて奥行きのない坪庭は、もちろん進藤家の御屋敷とは比べるべくもあるまいが、与岐なりに季節ごとに庭師を入れて丹精を込め、四季折々の木々や草花を愛でては愉しんでいた。
「この庭は……心が和むな……」
又十蔵は遠い目をして告げた。
ほっと一安心した与岐は居住まいを正すと、単刀直入に切り出した。
「進藤様、実は本日——奥方様に呼ばれて会うて参りましてござりまする」
又十蔵がこの家でもうしばらく住まう以上、わだかまりのような面倒事は抱えたくなかったゆえ、正直に告げた。
「そうか……そなたには何かと手間をかけさせてかたじけのうござる。花江は息災でござったか」
別段、驚いたふうもなく又十蔵は尋ねてきた。
「さようにお見受けいたしてござりまする。ご子息様もお代わりなきようで」
与岐もまた平然と返した。
「克之助は歳の離れた姉がいた所為か、妙に大人びておるゆえ心配は要らぬがな。生まれた頃より家中のいざこざに揉まれて育っておるからか、のらりくらりと躱す術も心得てござる。それよりも……」
又十蔵はやはり驚いたふうもなく同じ調子で尋ねてきた。
「花江は——某と離縁したがってござったであろう。あれには、祝言を目前にして引き裂かれた許婚がござったからな」
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