2 / 12
本編
2
しおりを挟むこの世界に来てから、どれくらい経ったのか。正確には分からないが、傷が癒える程度には長く置いてもらっているのは確かだ。食べられることも痛めつけられることも、売り飛ばされることもなく、相変わらず寝室の隅が俺の定位置だった。彼は怯える俺を叱るでも無理に引っ張ることもせず、分厚い布を幾重にもおいて簡易的な寝床を作ってくれたのだ。
男の表情は分かりづらく、鋭く尖った視線もそのままだが、そこに落ち着く頃には何故かそれほど恐ろしく感じないようになっていた。言葉は分からないままだが、彼がなるべく優しく接しようとしてくれているのが伝わってくるからかもしれない。それなのに、俺は未だに「ありがとう」の一言も伝えられていなかった。
あの場の凍てついた眼差しの中には殺意のようなものも多く感じられて、彼が止めてくれなければ嬲り殺されていたとしても不思議ではない状況だった。救われておいて礼すら言わず、ひたすらに怯え続ける俺を、彼はいつでも見放せたはずだ。そうされても可笑しくないほどに、失礼な態度を取っていた自覚はある。それでも呆れずに面倒を見てくれているのだから良い人なのだろう。きっと、勝手に一言発したくらいでは怒らないでいてくれるはずだ。
そろそろと寝室を出て、恐らく仕事に向かおうとしている彼の背を見つめる。サイボーグを思わせる黒を基調としたアーマーは分厚い身体に張りつき、鍛え抜かれ盛り上がった筋肉が見て取れた。圧を感じるほど屈強な男であるのは確かだが、同時に優しく頭を撫でてくれたのも目の前の彼だと分かっている。
ぎゅっと布の合わせを、滲む手で握りしめる。そして、緊張に乾いた喉を潤すように唾を飲みこみ、やけに重たく感じる唇を開いた。
「ぃ……いって、らっしゃい……」
自分でも情けなく思うくらい、か細い声だった。けれど、彼は少しだけ驚いたように振り返って、かすかに目元を和らげてくれたように思えた。気のせいかもしれない。けれど、僅かでも変化が感じ取れたことが嬉しかった。姿形は違っても、通わせることのできる何かが在るように思えたからだ。
……いや、勝手に怯えて、遠ざけていたのは俺だけか。彼はずっと、優しくしてくれた。接し方も変わったわけではない。変わったように見えるのなら、多分それは俺の感じ方に因るものなのだろう。
それが分かった時、震えは止まっていた。仰ぐほどの巨体はそのままだが、太い四本の腕が伸ばされても恐怖は感じない。分厚い掌が頭や頬を撫でるのが、射抜くような鋭い眼光がふっと少しだけ緩む瞬間を、いつからか好ましいとすら思うようになっていた。
俺が逃げずに傍にいるようになると、彼は名前を教えてくれようとしたらしい。らしい、というのは上手く聞き取れなかったからだ。男の発する言葉は不思議な響きを持っていて、音の羅列を組み合わせることが難しかった。今まで生きてきた上で耳にしたことがないようなもので、それを自分の中にあるものに収めようとしても上手くいかない。何度か繰り返してくれたものの、結局は一音すら言葉に変換できなかった。かといって、助けてくれた彼を適当に呼ぶのは躊躇われる。どうしたものかと悩んだ末に「旦那様」と呼ぶことにした。これなら目上の男性に当て嵌まるし、ご主人様よりは照れくささが薄れるようなしないような感じだ。他に候補が見つかるまでは、取り敢えずこれでいこうと思う。
「旦那様」
始めは呼びかけても反応してもらえないこともあったが、その響きが彼を指したものだと分かってもらえたらしい。いつからか、呼ぶと此方を見てくれるようになった。
彼は深く身を屈ませると、背と尻に腕を添わせるようにして抱き上げてくれる。急に目線が上がって驚くが、四本の逞しい腕が回されると安定感があって居心地が良かった。
そっと、彼の胸に手を添える。黒いアーマーに覆われた肉体も十分過ぎるほど逞しいが、やはり彼の場合は脱いだ方が余計に大きく見えた。計四本の腕を支える肩には鞭のような太い血管が浮き上がり、手足に向かって黒い鱗が隙間なくビッシリと覆っている。撫でるようにして触れてみると、ひんやりとして硬い。竜みたいだ、なんて見たこともない癖に思ってしまう。
「一緒に寝てもいい……?」
今まで散々に遠ざけておいて寂しくなったら縋るなんて、虫のいい話だと自分でも思う。けれど、彼は嫌な様子も見せずに、隣り合うようにしてベッドに下ろしてくれた。枕の代わりのように頭の下に腕が回され、胸の上に分厚い掌が添わされる。ぽんぽんと子をあやすように優しく叩かれ、その振動に瞼が重たくなってきた。頬に触れる大胸筋は思いのほか柔らかく、むっちりとしている。あたたかくて、気持ちがいい。沁みるような安堵が手足の先までほぐしてくれて、気づけばゆったりと眠りに落ちていた。
234
あなたにおすすめの小説
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果
ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。
そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。
2023/04/06 後日談追加
異世界から戻ってきた俺の身体が可笑しい
海林檎
BL
異世界転生で何故か勇者でも剣士でもましてや賢者でもなく【鞘】と、言う職業につかされたんだが
まぁ、色々と省略する。
察してくれた読者なら俺の職業の事は分かってくれるはずだ。
まぁ、そんなこんなで世界が平和になったから異世界から現代に戻ってきたはずなのにだ
俺の身体が変なままなのはどぼじで??
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
マンスーン
BL
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
触手生物に溺愛されていたら、氷の騎士様(天然)の心を掴んでしまいました?
雪 いつき
BL
仕事帰りにマンホールに落ちた森川 碧葉(もりかわ あおば)は、気付けばヌメヌメの触手生物に宙吊りにされていた。
「ちょっとそこのお兄さん! 助けて!」
通りすがりの銀髪美青年に助けを求めたことから、回らなくてもいい運命の歯車が回り始めてしまう。
異世界からきた聖女……ではなく聖者として、神聖力を目覚めさせるためにドラゴン討伐へと向かうことに。王様は胡散臭い。討伐仲間の騎士様たちはいい奴。そして触手生物には、愛されすぎて喘がされる日々。
どうしてこんなに触手生物に愛されるのか。ピィピィ鳴いて懐く触手が、ちょっと可愛い……?
更には国家的に深刻な問題まで起こってしまって……。異世界に来たなら悠々自適に過ごしたかったのに!
異色の触手と氷の(天然)騎士様に溺愛されすぎる生活が、今、始まる―――
※昔書いていたものを加筆修正して、小説家になろうサイト様にも上げているお話です。
【完】心配性は異世界で番認定された狼獣人に甘やかされる
おはぎ
BL
起きるとそこは見覚えのない場所。死んだ瞬間を思い出して呆然としている優人に、騎士らしき人たちが声を掛けてくる。何で頭に獣耳…?とポカンとしていると、その中の狼獣人のカイラが何故か優しくて、ぴったり身体をくっつけてくる。何でそんなに気遣ってくれるの?と分からない優人は大きな身体に怯えながら何とかこの別世界で生きていこうとする話。
知らない世界に来てあれこれ考えては心配してしまう優人と、優人が可愛くて仕方ないカイラが溺愛しながら支えて甘やかしていきます。
「今夜は、ずっと繋がっていたい」というから頷いた結果。
猫宮乾
BL
異世界転移(転生)したワタルが現地の魔術師ユーグと恋人になって、致しているお話です。9割性描写です。※自サイトからの転載です。サイトにこの二人が付き合うまでが置いてありますが、こちら単独でご覧頂けます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる