召喚失敗、成れの果て【完結】

米派

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この世界に来てから、どれくらい経ったのか。正確には分からないが、傷が癒える程度には長く置いてもらっているのは確かだ。食べられることも痛めつけられることも、売り飛ばされることもなく、相変わらず寝室の隅が俺の定位置だった。彼は怯える俺を叱るでも無理に引っ張ることもせず、分厚い布を幾重にもおいて簡易的な寝床を作ってくれたのだ。

男の表情は分かりづらく、鋭く尖った視線もそのままだが、そこに落ち着く頃には何故かそれほど恐ろしく感じないようになっていた。言葉は分からないままだが、彼がなるべく優しく接しようとしてくれているのが伝わってくるからかもしれない。それなのに、俺は未だに「ありがとう」の一言も伝えられていなかった。

あの場の凍てついた眼差しの中には殺意のようなものも多く感じられて、彼が止めてくれなければ嬲り殺されていたとしても不思議ではない状況だった。救われておいて礼すら言わず、ひたすらに怯え続ける俺を、彼はいつでも見放せたはずだ。そうされても可笑しくないほどに、失礼な態度を取っていた自覚はある。それでも呆れずに面倒を見てくれているのだから良い人なのだろう。きっと、勝手に一言発したくらいでは怒らないでいてくれるはずだ。

そろそろと寝室を出て、恐らく仕事に向かおうとしている彼の背を見つめる。サイボーグを思わせる黒を基調としたアーマーは分厚い身体に張りつき、鍛え抜かれ盛り上がった筋肉が見て取れた。圧を感じるほど屈強な男であるのは確かだが、同時に優しく頭を撫でてくれたのも目の前の彼だと分かっている。

ぎゅっと布の合わせを、滲む手で握りしめる。そして、緊張に乾いた喉を潤すように唾を飲みこみ、やけに重たく感じる唇を開いた。

「ぃ……いって、らっしゃい……」

自分でも情けなく思うくらい、か細い声だった。けれど、彼は少しだけ驚いたように振り返って、かすかに目元を和らげてくれたように思えた。気のせいかもしれない。けれど、僅かでも変化が感じ取れたことが嬉しかった。姿形は違っても、通わせることのできる何かが在るように思えたからだ。

……いや、勝手に怯えて、遠ざけていたのは俺だけか。彼はずっと、優しくしてくれた。接し方も変わったわけではない。変わったように見えるのなら、多分それは俺の感じ方に因るものなのだろう。

それが分かった時、震えは止まっていた。仰ぐほどの巨体はそのままだが、太い四本の腕が伸ばされても恐怖は感じない。分厚い掌が頭や頬を撫でるのが、射抜くような鋭い眼光がふっと少しだけ緩む瞬間を、いつからか好ましいとすら思うようになっていた。

俺が逃げずに傍にいるようになると、彼は名前を教えてくれようとしたらしい。らしい、というのは上手く聞き取れなかったからだ。男の発する言葉は不思議な響きを持っていて、音の羅列を組み合わせることが難しかった。今まで生きてきた上で耳にしたことがないようなもので、それを自分の中にあるものに収めようとしても上手くいかない。何度か繰り返してくれたものの、結局は一音すら言葉に変換できなかった。かといって、助けてくれた彼を適当に呼ぶのは躊躇われる。どうしたものかと悩んだ末に「旦那様」と呼ぶことにした。これなら目上の男性に当て嵌まるし、ご主人様よりは照れくささが薄れるようなしないような感じだ。他に候補が見つかるまでは、取り敢えずこれでいこうと思う。

「旦那様」

始めは呼びかけても反応してもらえないこともあったが、その響きが彼を指したものだと分かってもらえたらしい。いつからか、呼ぶと此方を見てくれるようになった。

彼は深く身を屈ませると、背と尻に腕を添わせるようにして抱き上げてくれる。急に目線が上がって驚くが、四本の逞しい腕が回されると安定感があって居心地が良かった。

そっと、彼の胸に手を添える。黒いアーマーに覆われた肉体も十分過ぎるほど逞しいが、やはり彼の場合は脱いだ方が余計に大きく見えた。計四本の腕を支える肩には鞭のような太い血管が浮き上がり、手足に向かって黒い鱗が隙間なくビッシリと覆っている。撫でるようにして触れてみると、ひんやりとして硬い。竜みたいだ、なんて見たこともない癖に思ってしまう。

「一緒に寝てもいい……?」

今まで散々に遠ざけておいて寂しくなったら縋るなんて、虫のいい話だと自分でも思う。けれど、彼は嫌な様子も見せずに、隣り合うようにしてベッドに下ろしてくれた。枕の代わりのように頭の下に腕が回され、胸の上に分厚い掌が添わされる。ぽんぽんと子をあやすように優しく叩かれ、その振動に瞼が重たくなってきた。頬に触れる大胸筋は思いのほか柔らかく、むっちりとしている。あたたかくて、気持ちがいい。沁みるような安堵が手足の先までほぐしてくれて、気づけばゆったりと眠りに落ちていた。




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