僕の異世界攻略〜神の修行でブラッシュアップ〜

リョウ

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12歳の疾走。

叔父になる。

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 午後のアトリエは、紙の匂いで満ちていた。扉が開く音、ほこりを払う気配、そして朗らかな声。

「リョウ、ただいま」

 ロイック兄さんはいつも通り荷を軽く置く。旅の疲れより、どこか浮き立った火の気がある。机に広げた設計図の上に、僕は新製品の部品を並べた。熱と冷えを制御する小瓶、幼子でも扱える留め具、軽量の枠。兄さんは眉をあげる。

「ずいぶん優しい顔の道具だな」
「産後に役立つ保温箱と、清潔に保つ仕組み。火を使わずに温かいスープが保てるやつだよ。匂い移りもしない」
「商会の看板にふさわしい。王都支店はストラストに任せてあるし、他の支店はイゼルがしっかり回している。ここで腰を据えて、こういうものを育てよう」

 兄さんはゆっくり頷いて、それから少しだけ視線を落とした。胸の奥を、別の緊張がかすめているのが分かる。三人の兄嫁が、もう間もなく――。

 そこへ、控えめに扉が叩かれた。伝令役の若い者が息を切らせて頭を下げる。

「マリカ様が……お産に!」

 椅子が二つ、音を立てた。僕と兄さんは顔を見合わせ、一拍ののち、同時に走り出す。石畳を蹴る足音が二つ、通りの人々が手を振って道を開けてくれる。胸のうちで、さっき話した保温箱の図面が、別の意味で心もとなく揺れた。

 スサン商会の別邸は、夕陽の色を帯びていた。女中衆が慌ただしく出入りし、湯が張られ、布が煮られ、香草の束が干された棚から次々と減っていく。玄関先で、ラクラ薬師がすでに手を洗っていた。落ち着いた声が、揺れる空気をなだめるように低く響く。

「よう来た。男の役目は少ないが、待つ者の呼吸もまた産の支度じゃ。深く吸って、長く吐く。はい、ロイック殿も」

「す、吸って……吐く……いや、無理だ。落ち着けと言われても、落ち着けん!」
「ならば、立ち会えばよい。戸の外で手を握るのも立派な仕事じゃ」

 兄さんは一瞬固まり、それから決心の音を立てて頷いた。ラクラ薬師と助産師が先に部屋へ入る。兄さんは戸口で靴下を脱ぐ手を震わせ、深呼吸を三つ、四つ。僕は肩を軽く叩いた。

「兄さん」
「……行ってくる」

 戸が吸い込むように閉まる。屋内の空気が一段落ち着いたところで、僕は台所に回る。湯の火加減、清潔な布の仕分け、甘い薄粥の用意。声を荒らげる者はいない。音の小さな戦場みたいに、みんなが役割を切り替え続ける。しばらくして、別邸の門から二人の姿が現れた。父と母だ。

「ロイックは?」
「戸の内側。手を握ってると思うよ」
「よし」

 お父さんはは短く頷き、お母さんは胸に手を当て、祈るように息を揃えた。廊下の椅子に腰を下ろすと、母は微笑んで僕の頭を撫でる。

「あなたも、よく走ったわね」
「うん。走った。緊張で胃が小さくなった気がする」
「あとで温かいものを食べよう。あなたの箱、きっと役に立つわ」

 小さな笑いが生まれて、また波にさらわれるように静まった。時間が、やわらかくのびていく。外の夕焼けが藍に溶け、別邸の灯がひとつずつ増える。そのあいだ、助産師の落ち着いた指示の声、ラクラ薬師の低い返事、布が絞られる音、湯気の匂い。僕は台所と廊下を行き来し、湯の温度を確かめ、手を洗い、お父さんとお母さんにお茶を渡し、また戸口のほうへ耳を傾けた。

「ロイックは……どうしてる?」
「息が上ずるたびに、ラクラ薬師に深呼吸を命じられている気配がする」
「ふふ……」

やがて、夜が深くなる。六つの鐘が遠くで鳴り、廊下にいる全員が同じ数を心の中で数えた。待つという仕事は、体温を奪う。僕は用意してきた小さな保温箱を開け、薄手の毛布を温め、おんの肩とお父さんの膝にそっとかけた。母は驚いて目を瞬き、指で布の縁を撫でる。

「軽いのね」
「うん。中の熱を逃がさないようにしてある。火を離れても、しばらく暖かい」

 そうしていると、戸の向こうで、兄さんの声がひときわ高くなった。叫びではない。風に乗った祈りに近い。助産師が短く力強く号令をかけ、次の瞬間、部屋の空気が一気に変わるのがわかった。

 小さな泣き声が、夜を真っ二つに割った。

 誰かが椅子から立ち上がり、誰かの息が詰まり、誰かの手が口元をふさいだ。僕も立ち上がっていた。お父さんの拳がゆっくりほどけ、お母さんが涙を拭った。戸が開き、ラクラ薬師が顔を覗かせて、いつもの落ち着きに、少しだけ得意の色を混ぜて言った。

「母子ともに健やかじゃ。よう頑張った」

 全身から力が抜ける。壁にもたれそうになった僕は、代わりに父の背に手を当てた。お父さんは黙って頷き、目だけで礼を言い、お母さんと並んで戸口へ進む。僕もあとにつづく。

 部屋は温かく、湿り気のある空気がやさしくまとわりついた。マリカ姉さんは汗で濡れた髪を額に貼りつかせ、けれど凛とした目でこちらを見る。ロイック兄さんは……少年のように泣いていた。指の腹でそっと、産着の端を撫でている。

「……おめでとう」

 声が出たのは、それだけだった。助産師が包みを少しだけ開いてくれる。小さな顔。薄いまぶた。赤く握られた拳。息を吸い込むたび、胸が豆粒みたいに上下する。

 男の子だった。天使だった。

 光が、どこからともなく差しているように見えた。誰かの祈りが形になって、そこに眠っているようだった。僕は手のひらを胸の前に合わせ、深く息を吐く。さっきまでの六時間が、一本の糸になって喉の奥を通っていく。

「ありがとう」

 兄さんがようやく僕を見た。目は赤く腫れているのに、笑っている。ラクラ薬師が小さく咳払いし、兄さんの肩を叩く。

「父の仕事はもう始まっておるぞ。手を洗って、温かい飲み物を持ってきなさい。母の唇も渇く。リョウ、その箱、役に立てておくれ」
「もちろん」

 僕は頷き、台所へ走る。保温箱から湯を取り、薄い蜂蜜湯を二つ。産室の空気に広がっていく甘さは、疲れの芯をゆるめる薬みたいだ。マリカ姉さんは一口含んで、目で礼を言い、また赤子の顔へ視線を戻す。兄さんが息をのみ、何度も息を吐く。父と母は、言葉少なに手を重ねる。

「この子のためにも、わたしたちは毎日を良くしなきゃね」
母の声に、父が短く応じる。
「そうだな」

 僕は産着の端をそっと見つめながら、心の中に、小さな約束を一本ずつ片づけていく。図面の続き、保温箱の改良、清潔のための新しい布の織り方、音を立てない戸の工夫。今日の六時間で見えたものが、次の六十日に繋がるように。

 赤ん坊は、小さな口で眠たげに空を吸い、また吐いた。その静かな往復に合わせて、部屋の全員の呼吸が整っていく。ラクラ薬師が最後に頷いて、助産師とともに控えに下がる。外はもう夜明け前の色だ。別邸の庭木に、鳥の影がわずかに揺れる。

「ようこそ、僕たちの街へ」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、僕はそう言った。天使は眠っている。けれど、ちゃんと届いた気がした。胸の奥で、温かさが静かに広がっていく。こんなふうにして、家族は増える。商会は、街は、僕らの仕事もまた、それに合わせて形を変えていく。急がず、でも確かに。

 朝が来る。新しい一日が、赤ん坊の呼吸の速さで始まる。僕は兄さんの背を軽く叩き、父と母の横に並んだ。その肩と肩のあいだに、ひとつ分の未来が生まれていた。
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