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12歳の疾走。
バトエルエン。
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産声の夜が明けて、別邸はまだ湯気のようにやわらかい空気で満ちていた。保温箱で温めておいた薄い蜂蜜湯を入れ替え、煮沸した布を干し直す。廊下には足音を忍ばせる決まりができ、みんながそれを守っている。小さな寝息の主……兄嫁マリカ姉さんの腕の中の赤ん坊は、丸い拳で空を握ってはほどき、そのたびに部屋の温度がほんの少し上がるように感じた。
ノックのあと、扉から顔を出したのはリディアだった。いつもの凛とした気配が、今日は一枚、羽衣のように柔らかい。けれど、敷居の手前でぴたりと止まると、彼女は眉を寄せて囁いた。
「……近づいたら壊れてしまいそうじゃ。わらわ、手が、怖い」
「大丈夫よ、リディア。ほら、見て。ちゃんと寝てるでしょ」
マリカ姉さんが笑って肩を揺らす。リディアは首だけ伸ばして覗き込み、息を詰め、そして……。
「かわいい……かわいい……っ、かわいすぎる……!」
背中まできゅっと縮んで、その場で悶絶した。いつもの堂々たるドラゴンの面影はどこへやら、両手を胸の前で泳がせて、足音を立てない“喜びの暴れ”を繰り返す。その様子がおかしくて、みんなが笑いを噛み殺した。
「触ったら死ぬ気がする。ねえ、わらわ、触らないほうが……」
「触っていいの。むしろ抱いて。赤ちゃんは、抱かれるために生まれてくるんだって」
マリカ姉さんの声は、いつになく頼もしい。僕は保温箱のふたをそっと閉じ、リディアの隣に立って腕の形を教えた。曲げる角度、肩の力の抜き方、呼吸。
「壊れない?」
「壊れないよ。でも、壊れ物みたいに扱って」
リディアはゆっくり手を差し入れた。指の長い手が布越しに赤ん坊の体を受け止めた瞬間、彼女の目がまん丸になった。
「……温かい。小さいのに、私より強い……」
「生きる力はそういうものよ」
マリカ姉さんが微笑む。リディアは頬をきゅっと緩め、唇を結んで、決して余計な動きをしないように、そよ風を怖がる葉っぱのように静かに立っていた。赤ん坊が小さく欠伸をし、彼女の胸の上でまた眠る。リディアは一滴だけ涙をこぼして、慌てて目尻を指で拭った。
「……ありがとう。返すのが惜しい」
「なら、もう一回、ね」
そんな様子を、戸口の影から覗き込んでいたのがエメイラとミザーリだ。エメイラは指先を口元に立て、僕に目で「静かに」と告げる。ミザーリは背負い袋から小さな香草束を出した。
「産室の空気を少しさっぱりさせます。火を通した袋なので匂いだけ」
「助かる。ありがとう」
二人も近づき、赤ん坊が眉をぴくりと動かすたびに、まるで弓の弦が震えたみたいに胸を押さえて「かわいい」と呟いた。護衛と魔術の師が、前に出る時はいつでも頼もしいのに、今日は完全に“親戚”の顔だ。
昼前、廊下に咳払いの音が響いた。お爺様であるナフェル騎士爵だ。背筋はまっすぐ、目はいつもより柔らかい。腕にはお祖母様が寄り添い、その後ろからは史書を一冊抱えたラジュラエンお爺さんが続く。
「入ってもよいか」
「もちろんです、お爺様」
お爺様は、ゆっくり近づいて、腕の中の小さな包みをじっと見つめた。口元がほどける。
「玄孫は……もっと可愛いな」
その一言に、部屋がふわりと笑いで満ちた。お祖母様が「そうでしょう?」と肘で小突く。お爺様は咳払いをひとつ。
「こうなると、今度こそ引退するかな」
「何度目だ、その台詞は」
ラジュラエンお爺さんが喉で笑い、史書の栞を軽く弾いた。お爺様も笑って肩を竦める。
「いや、剣は置かん。だが、稽古の号令は少し減らそう。玄孫の昼寝を邪魔せんようにな」
「それなら歓迎です」
兄のロイック兄さんが、眠気と幸福を混ぜたような顔で頭を下げる。目は赤いが、声はきりりとしていた。
「父さん、母さん。お爺様方。名前を決めました」
一瞬で空気が締まる。ラジュラエンお爺さんが史書を胸に抱え直し、マリカ姉さんが頷く。僕は手のひらが汗ばむのを感じた。
「……バトエルエンにします」
音が部屋に止まり木のように落ち、すぐに芽吹く。ラジュラエンお爺さんが目を細めた。
「良い。『バトエル』は古代の王国の中興の祖の名。凍てついた年々のあと、倉を開き、道を直し、歌を戻した王だ。末尾の『エン』は、この家の系譜の響きでもある。歴史と家名が、ひとつの音で結ばれておる」
お爺様は頷き、太い手でそっと赤子の足元を撫でる仕草をした(触れはしない、騎士の礼法だ)。お祖母様は手を合わせ、「よく来てくれたね、バトエルエン」と囁く。エメイラは静かにその名を口に乗せ、魔力視覚の光が一瞬、瞳の奥でやわらかく灯った。ミザーリは、戦場では見せないほどの笑顔で親指を立てる。リディアは深く頷き、胸に手を当てた。
「強い名。けれど、優しい音」
僕の胸にも、何かがすっと通った。商会の未来図……帳場の灯、工房の槌音、港へ向かう荷馬、取引の挨拶……その中心に、小さな背中がいる景色がふっと浮かんで、同時に笑えてくる。まだ寝返りも打てない子が、未来では注文書にサインをするのか。いや、それは彼が選ぶことだ。けれど、選べる道をたくさん用意しておく。それが今の僕の仕事だと思った。
「よく眠って、よく飲んで、よく笑え。商売の秘訣は、それができる体だ」
父ハッセルエンが、いつになく詩人めいたことを言うと、みんながまた笑う。母ハノンは蜂蜜湯を新しくして、マリカ姉さんの唇にそっとあてがった。保温箱は、ちゃんと役に立っている。
「記念に一本、作ろう」
リディアがぽつりと言う。
「この日のためのブレンド。甘すぎず、けれど長く香る。名を……バトエルの雫、とか」
「素敵だね。大人たちが乾杯する頃には、本人は寝てるだろうけど」
僕が返すと、リディアはくすくす笑った。ラジュラエンお爺さんは、史書の端にさらりと何かを書きつける。
「日付と名。歴史は、こうして始まるのだよ」と。
その時、バトエルエンが小さく呻いて、握った拳をほどいた。僕は指先を近づける。豆粒みたいな手が、僕の小指をぎゅっと掴む。引力みたいに強い。世界が、その小さな握力のほうへ少し傾く。
将来の商会長は、君かもしれない。いや、別の道でもいい。どの道でも、歩けるように道を整えておくよ。
心の中だけでそう約束して、僕はそっと小指を預けておいた。やがて赤ん坊の握力はゆるみ、また眠りの波が戻ってくる。部屋の誰もが、同じ速度で息を整える。
夕方、光が床を静かに移ろう。お爺様は「引退」の言葉をもう一度言い、すぐに「剣は磨く」と付け足して笑いを取った。エメイラとミザーリは、湯の温度と香草袋を確認し直し、夜の見張りの順番まで書き出してくれる。リディアは窓の外を見て、低く歌うように呟いた。
「家族、って、こういう歌なのじゃな」
僕は頷き、保温箱の蓋を指で弾いた。乾いた小さな音が、今日という日の句読点になった。明日の行列、明後日の帳面、遠い先の新製品の図面。それらは全部、この小さな寝息の延長線上にある。
ノックのあと、扉から顔を出したのはリディアだった。いつもの凛とした気配が、今日は一枚、羽衣のように柔らかい。けれど、敷居の手前でぴたりと止まると、彼女は眉を寄せて囁いた。
「……近づいたら壊れてしまいそうじゃ。わらわ、手が、怖い」
「大丈夫よ、リディア。ほら、見て。ちゃんと寝てるでしょ」
マリカ姉さんが笑って肩を揺らす。リディアは首だけ伸ばして覗き込み、息を詰め、そして……。
「かわいい……かわいい……っ、かわいすぎる……!」
背中まできゅっと縮んで、その場で悶絶した。いつもの堂々たるドラゴンの面影はどこへやら、両手を胸の前で泳がせて、足音を立てない“喜びの暴れ”を繰り返す。その様子がおかしくて、みんなが笑いを噛み殺した。
「触ったら死ぬ気がする。ねえ、わらわ、触らないほうが……」
「触っていいの。むしろ抱いて。赤ちゃんは、抱かれるために生まれてくるんだって」
マリカ姉さんの声は、いつになく頼もしい。僕は保温箱のふたをそっと閉じ、リディアの隣に立って腕の形を教えた。曲げる角度、肩の力の抜き方、呼吸。
「壊れない?」
「壊れないよ。でも、壊れ物みたいに扱って」
リディアはゆっくり手を差し入れた。指の長い手が布越しに赤ん坊の体を受け止めた瞬間、彼女の目がまん丸になった。
「……温かい。小さいのに、私より強い……」
「生きる力はそういうものよ」
マリカ姉さんが微笑む。リディアは頬をきゅっと緩め、唇を結んで、決して余計な動きをしないように、そよ風を怖がる葉っぱのように静かに立っていた。赤ん坊が小さく欠伸をし、彼女の胸の上でまた眠る。リディアは一滴だけ涙をこぼして、慌てて目尻を指で拭った。
「……ありがとう。返すのが惜しい」
「なら、もう一回、ね」
そんな様子を、戸口の影から覗き込んでいたのがエメイラとミザーリだ。エメイラは指先を口元に立て、僕に目で「静かに」と告げる。ミザーリは背負い袋から小さな香草束を出した。
「産室の空気を少しさっぱりさせます。火を通した袋なので匂いだけ」
「助かる。ありがとう」
二人も近づき、赤ん坊が眉をぴくりと動かすたびに、まるで弓の弦が震えたみたいに胸を押さえて「かわいい」と呟いた。護衛と魔術の師が、前に出る時はいつでも頼もしいのに、今日は完全に“親戚”の顔だ。
昼前、廊下に咳払いの音が響いた。お爺様であるナフェル騎士爵だ。背筋はまっすぐ、目はいつもより柔らかい。腕にはお祖母様が寄り添い、その後ろからは史書を一冊抱えたラジュラエンお爺さんが続く。
「入ってもよいか」
「もちろんです、お爺様」
お爺様は、ゆっくり近づいて、腕の中の小さな包みをじっと見つめた。口元がほどける。
「玄孫は……もっと可愛いな」
その一言に、部屋がふわりと笑いで満ちた。お祖母様が「そうでしょう?」と肘で小突く。お爺様は咳払いをひとつ。
「こうなると、今度こそ引退するかな」
「何度目だ、その台詞は」
ラジュラエンお爺さんが喉で笑い、史書の栞を軽く弾いた。お爺様も笑って肩を竦める。
「いや、剣は置かん。だが、稽古の号令は少し減らそう。玄孫の昼寝を邪魔せんようにな」
「それなら歓迎です」
兄のロイック兄さんが、眠気と幸福を混ぜたような顔で頭を下げる。目は赤いが、声はきりりとしていた。
「父さん、母さん。お爺様方。名前を決めました」
一瞬で空気が締まる。ラジュラエンお爺さんが史書を胸に抱え直し、マリカ姉さんが頷く。僕は手のひらが汗ばむのを感じた。
「……バトエルエンにします」
音が部屋に止まり木のように落ち、すぐに芽吹く。ラジュラエンお爺さんが目を細めた。
「良い。『バトエル』は古代の王国の中興の祖の名。凍てついた年々のあと、倉を開き、道を直し、歌を戻した王だ。末尾の『エン』は、この家の系譜の響きでもある。歴史と家名が、ひとつの音で結ばれておる」
お爺様は頷き、太い手でそっと赤子の足元を撫でる仕草をした(触れはしない、騎士の礼法だ)。お祖母様は手を合わせ、「よく来てくれたね、バトエルエン」と囁く。エメイラは静かにその名を口に乗せ、魔力視覚の光が一瞬、瞳の奥でやわらかく灯った。ミザーリは、戦場では見せないほどの笑顔で親指を立てる。リディアは深く頷き、胸に手を当てた。
「強い名。けれど、優しい音」
僕の胸にも、何かがすっと通った。商会の未来図……帳場の灯、工房の槌音、港へ向かう荷馬、取引の挨拶……その中心に、小さな背中がいる景色がふっと浮かんで、同時に笑えてくる。まだ寝返りも打てない子が、未来では注文書にサインをするのか。いや、それは彼が選ぶことだ。けれど、選べる道をたくさん用意しておく。それが今の僕の仕事だと思った。
「よく眠って、よく飲んで、よく笑え。商売の秘訣は、それができる体だ」
父ハッセルエンが、いつになく詩人めいたことを言うと、みんながまた笑う。母ハノンは蜂蜜湯を新しくして、マリカ姉さんの唇にそっとあてがった。保温箱は、ちゃんと役に立っている。
「記念に一本、作ろう」
リディアがぽつりと言う。
「この日のためのブレンド。甘すぎず、けれど長く香る。名を……バトエルの雫、とか」
「素敵だね。大人たちが乾杯する頃には、本人は寝てるだろうけど」
僕が返すと、リディアはくすくす笑った。ラジュラエンお爺さんは、史書の端にさらりと何かを書きつける。
「日付と名。歴史は、こうして始まるのだよ」と。
その時、バトエルエンが小さく呻いて、握った拳をほどいた。僕は指先を近づける。豆粒みたいな手が、僕の小指をぎゅっと掴む。引力みたいに強い。世界が、その小さな握力のほうへ少し傾く。
将来の商会長は、君かもしれない。いや、別の道でもいい。どの道でも、歩けるように道を整えておくよ。
心の中だけでそう約束して、僕はそっと小指を預けておいた。やがて赤ん坊の握力はゆるみ、また眠りの波が戻ってくる。部屋の誰もが、同じ速度で息を整える。
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