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12歳の疾走。
舵を取れ、推進機を回せ。
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生まれたばかりの子は、レーンと名付けられた。やわらかな産着の中で、丸い拳をぎゅっと握っている。泣き声は小さく、でもよく通る。部屋の空気が、それだけで少し明るくなる。
「よかった……ほんとうに、よかったわ」
お母さんが、指先で目尻をそっと押さえた。お父さんは、言葉少なに頷くばかりだ。兄のロイック兄さんは立ち会いをやり切った顔で、椅子に腰を落ち着けると、胸の奥から空気を吐きながら笑った。
「疲れた……でも、これ以上の疲れなら、なんぼでも引き受ける」
隣でケリィ姉さんが微笑む。汗がまだ額に残っているのに、目はしっかりと澄んでいた。
「リョウ、リディア。ほら、見てあげて」
促されて、僕とリディアはそっと産室の奥へ進む。リディアは扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸ってから、猫の足取りで近づいた。
「……かわいい。かわいい……っ」
「お猿さん、みたいだね。でも、美人になる顔だ」
僕が冗談半分に囁くと、ケリィ姉さんがくすりと笑う。リディアは手を胸の前で組み、緊張した声で言った。
「私、また……触っても大丈夫?」
「抱いてあげて」
ケリィ姉さんが頷く。リディアは学習した通りの腕の形で、慎重にレーンを受け取った。胸にのせた途端、表情が溶ける。
「……温かい。こんなに小さいのに、ちゃんと前へ進む音がする」
「それ、心臓の鼓動」
「うん。いい音」
ロイック兄さんは椅子の上で半分眠り、半分笑っている。お父さんとお母さんはそっと視線を交わし、助産師の片付けを手伝うジェン姉さんに小さく礼をした。ラクラ薬師は「母子ともに良好」と短く告げ、静かに部屋を辞した。
「私は少し、ここに残るわ」
リディアがレーンをケリィ姉さんに返しながら言う。「歌、聴いていたいの」
「お願い」
僕は頷いて、控えていたエメイラとミザーリを見る。「僕らはお暇するね」
廊下に出ると、湯の匂いと蜂蜜の香りが混じった。エメイラが歩幅を合わせ、さりげなく聞いてくる。
「ねえ、将来男の子と女の子、どっちがいい?」
「まだ考えられないよ。……でもさ、どちらでも、この世に産まれてきたらそれでいいよね」
「ふふ。あなたらしい」
ミザーリは肩を竦める。「子どもは強い。親の覚悟のほうを鍛えておくことだな」
「鍛えとく。筋力Dだけど」
「そこは肉体制御Bでカバーしろ」
三人で笑って、アトリエへ戻る。机には図面と帳面、試作の金具、チョコレートの試片、ステンレスの薄板。窓辺でナビが尻尾を揺らしていた。
ペンを手に取りかけたところで、ふと、未来のことが喉にひっかかった。リーリシアの声が遠くで響く……「こっちで結婚しなさい」。天界の妻。世界の主神。僕は彼女を何よりも敬い、好きで、救われている。それ以上に誰かを好きになることって、あるのかな。彼女が許してくれても、それは……公認の浮気ってやつじゃないのか。
「……」
机に影が落ちる。ナビがのし、と乗ってきて、顔を近づけてくる。
「にゃっ」
「なに考えてるんだ、って顔だね」
「にゃー」
額に額をつけて小さく頭突き。くすぐったくて、笑ってしまう。
「はいはい。今はやることね」
気を取り直す。帳面に今週の段取りを書く。チョコレートは配合表を安定させて、取引先の菓子舗を増やす。ステンレスの普及は鍋と器具の標準化から。バーナーはスサン商会のカタログに載り、デモ隊を組んで職人工房を回る予定。なにより空の船は、ここからが本番だ。フォンブイヨン村の地鎮が終わり、仮設棟が立ち始めた。訓練と標準の積み上げ、事故ゼロで行くための地味な工程が山ほどある。
「ちょっと、気晴らしに行ってくる」
「にゃ」
外套を引っ掛け、アトリエを出る。ミザーリが無言で後ろにつき、エメイラが本を閉じて同行する。三人と一匹で、夕方の風を受けながら、運河へ向かった。開通間近の水路は、まだ静かだ。水鏡のように空を映し、縁では石工が最後の目地を指で押さえている。
「穏やかだな」
ミザーリが呟く。エメイラは水面の光を目で追いながら言う。
「でも、動き出したら忙しくなる。舟は舟で、空とは違う曲がり方をするの」
「うん。きっと僕の人生も、この運河みたいに穏やかではないだろうね」
遠くで、獣人隊商の合図が一度鳴った。ヤク牛の鈴の音。風が頬を撫で、運河の水面にさざ波を作る。
「でも、舵は僕が握る。心には推進機をつけておく。向かい風には角度を変えて、背から押す風には甘えすぎず、みんなの針目と槌と踏車が前へ出るように」
「言うじゃない」
エメイラが口角を上げる。ミザーリは肩越しに空を見る。「なら、訓練メニューを増やすか」
「やめて」
「ふふ」
風に、遠い笑い声が混じった気がした。リーリシアの声かもしれない。あるいは……産室に残ったリディアが、レーンの寝息に合わせて鼻歌を歌っているのかも。
運河の端まで歩いて、夕日が水に落ちるのを見届ける。戻る途中、ナビが肩から飛び降り、石垣の上で翼を伸ばした。小さな体に不釣り合いな、影の大きさ。縮小の輪を外したら、きっと運河の橋が軽く揺れるだろう。
「帰ろうか。やること、山ほど」
「にゃ」
アトリエの灯がともる。扉を開けると、ストークが手短に報告をして、ギピアが湯気の立つ椀を差し出した。机には、新しい依頼書。工房の若い子が織り見本を抱えて、目を輝かせている。
「リョウ様、見てください。朝と昼で色が変わる布。おばあさんが“歌わせて”くれました」
「いいね。明日の会議に持っていこう」
ペン先を置く。夜が静かに降りてきて、遠くで赤ん坊の泣き声がいっぺんだけ聞こえ、すぐ収まった。きっと、誰かの胸の上で。また一人、前へ進む音が、街のどこかで鳴っている。
……さあ、続きだ。
バーナーに火を入れ、図面に線を加え、手順書に句読点を打つ。
運河は、もうすぐ開く。空の船は、これからもっと高く。
舵を握れ。推進機を回せ。
僕らの針目は、まだ、終わらない。
「よかった……ほんとうに、よかったわ」
お母さんが、指先で目尻をそっと押さえた。お父さんは、言葉少なに頷くばかりだ。兄のロイック兄さんは立ち会いをやり切った顔で、椅子に腰を落ち着けると、胸の奥から空気を吐きながら笑った。
「疲れた……でも、これ以上の疲れなら、なんぼでも引き受ける」
隣でケリィ姉さんが微笑む。汗がまだ額に残っているのに、目はしっかりと澄んでいた。
「リョウ、リディア。ほら、見てあげて」
促されて、僕とリディアはそっと産室の奥へ進む。リディアは扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸ってから、猫の足取りで近づいた。
「……かわいい。かわいい……っ」
「お猿さん、みたいだね。でも、美人になる顔だ」
僕が冗談半分に囁くと、ケリィ姉さんがくすりと笑う。リディアは手を胸の前で組み、緊張した声で言った。
「私、また……触っても大丈夫?」
「抱いてあげて」
ケリィ姉さんが頷く。リディアは学習した通りの腕の形で、慎重にレーンを受け取った。胸にのせた途端、表情が溶ける。
「……温かい。こんなに小さいのに、ちゃんと前へ進む音がする」
「それ、心臓の鼓動」
「うん。いい音」
ロイック兄さんは椅子の上で半分眠り、半分笑っている。お父さんとお母さんはそっと視線を交わし、助産師の片付けを手伝うジェン姉さんに小さく礼をした。ラクラ薬師は「母子ともに良好」と短く告げ、静かに部屋を辞した。
「私は少し、ここに残るわ」
リディアがレーンをケリィ姉さんに返しながら言う。「歌、聴いていたいの」
「お願い」
僕は頷いて、控えていたエメイラとミザーリを見る。「僕らはお暇するね」
廊下に出ると、湯の匂いと蜂蜜の香りが混じった。エメイラが歩幅を合わせ、さりげなく聞いてくる。
「ねえ、将来男の子と女の子、どっちがいい?」
「まだ考えられないよ。……でもさ、どちらでも、この世に産まれてきたらそれでいいよね」
「ふふ。あなたらしい」
ミザーリは肩を竦める。「子どもは強い。親の覚悟のほうを鍛えておくことだな」
「鍛えとく。筋力Dだけど」
「そこは肉体制御Bでカバーしろ」
三人で笑って、アトリエへ戻る。机には図面と帳面、試作の金具、チョコレートの試片、ステンレスの薄板。窓辺でナビが尻尾を揺らしていた。
ペンを手に取りかけたところで、ふと、未来のことが喉にひっかかった。リーリシアの声が遠くで響く……「こっちで結婚しなさい」。天界の妻。世界の主神。僕は彼女を何よりも敬い、好きで、救われている。それ以上に誰かを好きになることって、あるのかな。彼女が許してくれても、それは……公認の浮気ってやつじゃないのか。
「……」
机に影が落ちる。ナビがのし、と乗ってきて、顔を近づけてくる。
「にゃっ」
「なに考えてるんだ、って顔だね」
「にゃー」
額に額をつけて小さく頭突き。くすぐったくて、笑ってしまう。
「はいはい。今はやることね」
気を取り直す。帳面に今週の段取りを書く。チョコレートは配合表を安定させて、取引先の菓子舗を増やす。ステンレスの普及は鍋と器具の標準化から。バーナーはスサン商会のカタログに載り、デモ隊を組んで職人工房を回る予定。なにより空の船は、ここからが本番だ。フォンブイヨン村の地鎮が終わり、仮設棟が立ち始めた。訓練と標準の積み上げ、事故ゼロで行くための地味な工程が山ほどある。
「ちょっと、気晴らしに行ってくる」
「にゃ」
外套を引っ掛け、アトリエを出る。ミザーリが無言で後ろにつき、エメイラが本を閉じて同行する。三人と一匹で、夕方の風を受けながら、運河へ向かった。開通間近の水路は、まだ静かだ。水鏡のように空を映し、縁では石工が最後の目地を指で押さえている。
「穏やかだな」
ミザーリが呟く。エメイラは水面の光を目で追いながら言う。
「でも、動き出したら忙しくなる。舟は舟で、空とは違う曲がり方をするの」
「うん。きっと僕の人生も、この運河みたいに穏やかではないだろうね」
遠くで、獣人隊商の合図が一度鳴った。ヤク牛の鈴の音。風が頬を撫で、運河の水面にさざ波を作る。
「でも、舵は僕が握る。心には推進機をつけておく。向かい風には角度を変えて、背から押す風には甘えすぎず、みんなの針目と槌と踏車が前へ出るように」
「言うじゃない」
エメイラが口角を上げる。ミザーリは肩越しに空を見る。「なら、訓練メニューを増やすか」
「やめて」
「ふふ」
風に、遠い笑い声が混じった気がした。リーリシアの声かもしれない。あるいは……産室に残ったリディアが、レーンの寝息に合わせて鼻歌を歌っているのかも。
運河の端まで歩いて、夕日が水に落ちるのを見届ける。戻る途中、ナビが肩から飛び降り、石垣の上で翼を伸ばした。小さな体に不釣り合いな、影の大きさ。縮小の輪を外したら、きっと運河の橋が軽く揺れるだろう。
「帰ろうか。やること、山ほど」
「にゃ」
アトリエの灯がともる。扉を開けると、ストークが手短に報告をして、ギピアが湯気の立つ椀を差し出した。机には、新しい依頼書。工房の若い子が織り見本を抱えて、目を輝かせている。
「リョウ様、見てください。朝と昼で色が変わる布。おばあさんが“歌わせて”くれました」
「いいね。明日の会議に持っていこう」
ペン先を置く。夜が静かに降りてきて、遠くで赤ん坊の泣き声がいっぺんだけ聞こえ、すぐ収まった。きっと、誰かの胸の上で。また一人、前へ進む音が、街のどこかで鳴っている。
……さあ、続きだ。
バーナーに火を入れ、図面に線を加え、手順書に句読点を打つ。
運河は、もうすぐ開く。空の船は、これからもっと高く。
舵を握れ。推進機を回せ。
僕らの針目は、まだ、終わらない。
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