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12歳の疾走。
蒸留所の風。
ルステインの上空を渡る風が、薄く甘いアルコールの香りを運んでくる。
今日は「空の船」の作業が詰まっていた。推進器の試運転、帆の角度調整、そしてエルフ技師たちとの連携確認。午前中は慌ただしく過ぎていったが、昼前に執事ストークが静かに僕の耳元で告げた。
「リディア様がお呼びです。蒸留所にて“少々真面目な相談”とのことです」
“真面目な相談”という言葉に、嫌な予感がした。リディアが真面目な時ほど、こちらが振り回されるのだ。
僕は資料をまとめて工房の机に置き、ナビを肩に乗せたままリディアの蒸留所へ向かった。
蒸留所は相変わらず、甘い香りと熱気に包まれていた。光を反射して輝く銅の釜、壁際に並ぶ無数の瓶、棚に置かれた果実と香草。その中央で、白銀の髪を束ねたリディアが腕を組み、難しい顔をしていた。
「来たか、リョウエスト。少し、相談に乗ってくれ」
「また酒の話?」
「またとは失礼だな。今回は真剣だ」
彼女は瓶の一つを持ち上げ、光に透かして見せる。淡い金色が揺れた。ラベルには手書きで「バトエルの雫」と記されていた。
「……あのバトエル?」
「そうだ」
リディアは満足そうに頷いた。
「二日と空けずにあの子のところへ通っていたらな、すっかり魅了されてしまってな。あの子の清らかさ、静かな力……あれを酒にしたいと思ったんだ。だから、ブレンドを続けていた。ようやく“完璧なバトエルらしい蒸留酒”ができた」
「つまり、商品化したいってこと?」
「うむ」
彼女は真っすぐ僕を見た。
「この『バトエルの雫』を名酒として世に出したい。バトエルの名を知らしめるためにも、ぜひ正式に売り出したい」
僕は腕を組んで少し考える。彼女の情熱は買うが、問題は量産だ。
「……情熱はすごいけど、大量生産は無理じゃない? 素材も希少だし」
「そこは抜かりない」
リディアがにやりと笑う。
「この間、鱗をロイックエンに売ったんだ。その金で材料を仕入れ、三百本分の蒸留酒を確保した。ブレンドできる酒はもう用意してある」
「……ロイック兄さん、鱗を買ったの?」
「うむ。工芸品にするらしい。輝きが特別だそうだ」
さすが兄さん、商才の塊だ。
僕はため息をつきながら言った。
「じゃあ、売り方だね。僕より、ロイック兄さんか父さんに聞けば早いよ」
「二人ともダメだ」
リディアは即答した。
「ロイックエンは新婚生活で腑抜け、ハッセルエンは孫に夢中で腑抜けだ。今まともに商談できるのはお前だけだ」
「……腑抜けって言い方、容赦ないね」
「事実だ」
僕は頭をかきながら少し考え込む。この酒を普通に市場に流すのはもったいない。バトエルの名を広めたいという目的も考えれば、象徴的な販路がいい。
「じゃあこうしよう。王族や上流貴族を中心に、百五十人に贈るんだ。一本は保存用、もう一本は鑑賞用。『ドラゴンが愛し子のためにブレンドした酒』という触れ込みで」
「保存用? 飲まないのに二本も?」
「飲むためじゃなく、持つための酒だよ。バトエルという存在を知ってもらうには、それくらい“物語”が必要なんだ。飲むより語られる方が価値がある」
「……なるほど、確かにそれは“らしい”な」
リディアの顔がぱっと明るくなった。
「そうと決まれば、さっそくブレンドを仕上げる!」
そう言って彼女は白い外套を翻し、釜の前に立った。蒸気の向こうで、彼女の表情はまるで祈るようだった。
火加減、香草の量、香りの流れ。そのすべてを“感覚”で操る。ドラゴンの鼻と舌は人の比ではない。
「リョウエスト、火力を少し上げてくれ」
「了解」
僕は魔導の炎をかざし、銅釜の底に小さな青い火を灯す。蒸気が立ち上り、部屋に甘い香りが満ちた。
ナビがくんくんと鼻をひくつかせて「すごくいい匂い」とにゃーと鳴く。
その時、外から慌ただしい足音が響いた。戸口を叩く音。
「リョウエスト様っ! リディア様っ!」
スサン商会の丁稚が息を切らして飛び込んできた。額に汗を浮かべ、声が上ずっている。
「け、ケリィ様が……産気づかれたそうです!」
「えっ!」
僕は蒸気の中でリディアと顔を見合わせた。
「場所は?」
「別邸の二階、夫人方のお部屋です!」
「わかった!」
僕は道具を放り出して駆け出す。リディアも後を追う。彼女は走りながら、髪を風になびかせて笑った。
「めでたいな! また新しい命か! これは祝い酒を作らねば!」
「いまから!?」
「当たり前だろう!」
彼女は誇らしげに胸を張った。
「その子のための新酒を作る! “生まれ日の雫”だ!」
「名前まで決まってるんだ……!」
蒸留所を飛び出し、二人で石畳を駆け抜ける。リディアの大きな足音が後ろで響き、僕の胸も高鳴っていた。あの強くて気まぐれなドラゴンが、こうして誰かの命に喜びを感じている。その姿が、妙に人間らしく思えて胸が熱くなる。
「リディア」
「ん?」
「バトエルの雫も、生まれ日の雫も……きっと良い酒になるよ」
「当然だとも!」
彼女は笑って言った。
「ドラゴンが祝福する命に、悪い酒などできるはずがない!」
リディアと共に別邸に駆け込むと、家の中は慌ただしいがどこか温かかった。ケリィの部屋からは、微かな産声と、兄ロイックエンの泣き笑いの声。
リディアは静かに扉を見つめ、腕を組んで呟く。
「また“家族”が増えたな……」
その横顔には、かすかな微笑みと涙があった。
「さて、忙しくなるぞ。祝い酒を作らねばな!」
そう言って、彼女は大きく伸びをした。その背中には、太陽のような力と、静かな愛情があった。
今日は「空の船」の作業が詰まっていた。推進器の試運転、帆の角度調整、そしてエルフ技師たちとの連携確認。午前中は慌ただしく過ぎていったが、昼前に執事ストークが静かに僕の耳元で告げた。
「リディア様がお呼びです。蒸留所にて“少々真面目な相談”とのことです」
“真面目な相談”という言葉に、嫌な予感がした。リディアが真面目な時ほど、こちらが振り回されるのだ。
僕は資料をまとめて工房の机に置き、ナビを肩に乗せたままリディアの蒸留所へ向かった。
蒸留所は相変わらず、甘い香りと熱気に包まれていた。光を反射して輝く銅の釜、壁際に並ぶ無数の瓶、棚に置かれた果実と香草。その中央で、白銀の髪を束ねたリディアが腕を組み、難しい顔をしていた。
「来たか、リョウエスト。少し、相談に乗ってくれ」
「また酒の話?」
「またとは失礼だな。今回は真剣だ」
彼女は瓶の一つを持ち上げ、光に透かして見せる。淡い金色が揺れた。ラベルには手書きで「バトエルの雫」と記されていた。
「……あのバトエル?」
「そうだ」
リディアは満足そうに頷いた。
「二日と空けずにあの子のところへ通っていたらな、すっかり魅了されてしまってな。あの子の清らかさ、静かな力……あれを酒にしたいと思ったんだ。だから、ブレンドを続けていた。ようやく“完璧なバトエルらしい蒸留酒”ができた」
「つまり、商品化したいってこと?」
「うむ」
彼女は真っすぐ僕を見た。
「この『バトエルの雫』を名酒として世に出したい。バトエルの名を知らしめるためにも、ぜひ正式に売り出したい」
僕は腕を組んで少し考える。彼女の情熱は買うが、問題は量産だ。
「……情熱はすごいけど、大量生産は無理じゃない? 素材も希少だし」
「そこは抜かりない」
リディアがにやりと笑う。
「この間、鱗をロイックエンに売ったんだ。その金で材料を仕入れ、三百本分の蒸留酒を確保した。ブレンドできる酒はもう用意してある」
「……ロイック兄さん、鱗を買ったの?」
「うむ。工芸品にするらしい。輝きが特別だそうだ」
さすが兄さん、商才の塊だ。
僕はため息をつきながら言った。
「じゃあ、売り方だね。僕より、ロイック兄さんか父さんに聞けば早いよ」
「二人ともダメだ」
リディアは即答した。
「ロイックエンは新婚生活で腑抜け、ハッセルエンは孫に夢中で腑抜けだ。今まともに商談できるのはお前だけだ」
「……腑抜けって言い方、容赦ないね」
「事実だ」
僕は頭をかきながら少し考え込む。この酒を普通に市場に流すのはもったいない。バトエルの名を広めたいという目的も考えれば、象徴的な販路がいい。
「じゃあこうしよう。王族や上流貴族を中心に、百五十人に贈るんだ。一本は保存用、もう一本は鑑賞用。『ドラゴンが愛し子のためにブレンドした酒』という触れ込みで」
「保存用? 飲まないのに二本も?」
「飲むためじゃなく、持つための酒だよ。バトエルという存在を知ってもらうには、それくらい“物語”が必要なんだ。飲むより語られる方が価値がある」
「……なるほど、確かにそれは“らしい”な」
リディアの顔がぱっと明るくなった。
「そうと決まれば、さっそくブレンドを仕上げる!」
そう言って彼女は白い外套を翻し、釜の前に立った。蒸気の向こうで、彼女の表情はまるで祈るようだった。
火加減、香草の量、香りの流れ。そのすべてを“感覚”で操る。ドラゴンの鼻と舌は人の比ではない。
「リョウエスト、火力を少し上げてくれ」
「了解」
僕は魔導の炎をかざし、銅釜の底に小さな青い火を灯す。蒸気が立ち上り、部屋に甘い香りが満ちた。
ナビがくんくんと鼻をひくつかせて「すごくいい匂い」とにゃーと鳴く。
その時、外から慌ただしい足音が響いた。戸口を叩く音。
「リョウエスト様っ! リディア様っ!」
スサン商会の丁稚が息を切らして飛び込んできた。額に汗を浮かべ、声が上ずっている。
「け、ケリィ様が……産気づかれたそうです!」
「えっ!」
僕は蒸気の中でリディアと顔を見合わせた。
「場所は?」
「別邸の二階、夫人方のお部屋です!」
「わかった!」
僕は道具を放り出して駆け出す。リディアも後を追う。彼女は走りながら、髪を風になびかせて笑った。
「めでたいな! また新しい命か! これは祝い酒を作らねば!」
「いまから!?」
「当たり前だろう!」
彼女は誇らしげに胸を張った。
「その子のための新酒を作る! “生まれ日の雫”だ!」
「名前まで決まってるんだ……!」
蒸留所を飛び出し、二人で石畳を駆け抜ける。リディアの大きな足音が後ろで響き、僕の胸も高鳴っていた。あの強くて気まぐれなドラゴンが、こうして誰かの命に喜びを感じている。その姿が、妙に人間らしく思えて胸が熱くなる。
「リディア」
「ん?」
「バトエルの雫も、生まれ日の雫も……きっと良い酒になるよ」
「当然だとも!」
彼女は笑って言った。
「ドラゴンが祝福する命に、悪い酒などできるはずがない!」
リディアと共に別邸に駆け込むと、家の中は慌ただしいがどこか温かかった。ケリィの部屋からは、微かな産声と、兄ロイックエンの泣き笑いの声。
リディアは静かに扉を見つめ、腕を組んで呟く。
「また“家族”が増えたな……」
その横顔には、かすかな微笑みと涙があった。
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