47 / 171
四章 猛毒草
14、どうか外へ【1】
しおりを挟む
范敬は、呉正鳴を殺そうとした毒で死んだ。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
47
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。