後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
46 / 171
四章 猛毒草

13、毒の壺

しおりを挟む
「あなた、よく無事だったわね。本当なら、主の蔡昭媛ツァイしょうえんさまよりも、具合が悪くなっていたはずなのに」

 翠鈴ツイリンの言葉に、蔡昭媛は「どういうことなの?」と、范敬ファンジンの顔を見た。

「それとも気丈にふるまうことで、不調を悟られぬようにしているのかしら」

 図星だったらしい。
 翠鈴の指摘に、范敬はびくりと身をすくませた。

「そちらの呉正鳴ウージョンミンの症状は、毒によるものです。おそらくは大芹おおぜり毒芹どくぜりとも言いますが。最凶の毒草のひとつです」

 翠鈴は周囲を見渡した。
 医師がいる、医官もいる。けれど人払いをしている場合ではない。

 もし誰もいなくなれば、この侍女は再び大芹を呉正鳴の口に突っ込むだろう。
 飲みこみやすいように、小さく切った猛毒を。

 大芹に触れるだけでも、痙攣や麻痺を起こす。
 ほんの少し口に入れただけで、呼吸停止に陥る者もいる。
 触れても、食べても死亡する危険が高い。

(この侍女は危険だ。毒に対して中途半端な知識がある)

 范敬は動くだろうと、翠鈴は考えていた。だが、まさか猛毒草を壺に入れて持ち歩いているなど、想定外だ。

 翠鈴にしても胡玲にしても、薬師なので毒の知識は当然ある。だからこそ、見誤った。
 触れるだけで死に至る毒を、素手で杜撰に扱う者がいるなど。あり得ない、あってはならないことだ。

 医局に人が入ってくる気配がした。

 翠鈴が横目で見ると、光柳と雲嵐の姿があった。
 呉正鳴に、話を聞くためにやって来たのだろう。

 当の呉正鳴は、苦しそうに呻いている。寝台の枕の周囲に、大芹のかけらや葉が落ちている。
 幸い、顔にはかかっていないが。医官たちがすぐに敷布を交換した。

「どうして呉正鳴に毒を食べさせたの? 薬と偽って」
「わ、私は……雪雪シュエシュエさまをお守りしようと」

 翠鈴に答える范敬の声は震えている。
 手の震えは緊張なのか。それとも大芹に触れたせいで、痙攣をおこしているのか。

 以前。秋明菊の草汁が染みた紙に触れた陳燕チェンイェンの手を、翠鈴はすぐに水で洗い流した。

 陳燕も范敬も、どちらも翠鈴を愚弄したが。助ける、助けないの基準はその点ではない。
 この侍女には、明確な殺意がある。
 范敬ファンジンの具合が悪いのであれば、呉正鳴を殺せないと翠鈴は判断した。

(だから嫌なのよ。薬師は人の命を救うけれど。場合によっては、人の命に優先順位をつけなければならないのだから)

 翠鈴は強く拳を握りしめた。てのひらに爪が食い込むほどに。
 それでも自分がやらなければならない。蔡昭媛は翠鈴を頼ってきたのだから。
 重い。あまりにも重い判断だ。

「主を守るために、嫌味を言う意地悪な宦官を殺すの? 嫌いならば、殺せばいいなんて。子供でも、そんな単純な考え方はしないわ。それに、あなたが守りたいという蔡昭媛さまに嫌疑がかかるのではなくて?」

「ですが……あの男が、悪いんです。雪雪さまが嫌がっておいでなのに。愚図で見すぼらしくて、意志が弱くて。女性としての魅力もない。そんな風に、雪雪さまのことを罵るばかりで。わざわざ罵倒するために、宮にやってきて」

 蔡昭媛は、呉正鳴の姿を見るたびに脅えていたらしい。声を聞くたびに、冷や汗をかいていたらしい。
 それでも呉正鳴はやって来る。

「一度でも、夜に訪れたいものだね。陛下と君の閨での様子を記録したいものだ。だが、そんな日は来ない。君とはいつだって昼にしか会わない」と、皮肉を言うために。

 中傷するためだけに、わざわざ関係のない嬪のもとを、宦官が訪れるだろうか。
 否。呉正鳴には別の目的があったはずだ。

「……オレ、は、雪雪さまを、穢されたくなかった」

 か細い声が、寝台から聞こえた。
 少し意識が明瞭になったらしい。呉正鳴が、虚ろではあるが目を開いている。

「雪雪さまがご病気なら、それが気の病であっても……陛下は彼女を遠ざける」

 それは陛下に抱かれることが、すなわち穢れであると。呉正鳴は話している。
 しかも、帝の嬪を鬱の状態に落とし、この後宮から外に出してやりたいと。

 なんという不敬。妃嬪は帝の子を産むために、集められているというのに。

「あんたには分からないわ」と、范敬はこぼした。

「後宮を追いだされても、雪雪さまは幸せになどなれない。こんなにも衰弱なさっては、尼寺ですら受け入れてはくれない。昭媛の位を剥奪された雪雪さまを、蔡家が歓待するわけがない」

 ぎりっと歯ぎしりをする音が聞こえた。
 范敬は、寝台に横たわる呉正鳴を睨みつけている。親の仇かと思えるほどに、厳しい目つきで。

「穢されたくなかったというのなら。呉正鳴、あなたは蔡昭媛の元に陛下が訪れることが分かっていたのね」

 翠鈴は問うた。

 たとえ気まぐれであったとしても。陛下は、蔡昭媛を抱こうと思いついた。
 おそらくは「そういえば、まだ一度も手を付けたことのない嬪がいたな」と、周囲に話したのだろう。

 渡りが本決まりとなれば、先触れがいる。永仁宮でも、陛下を迎える用意をしなければならないのだから。

「あんたが雪雪さまを追い込まなければ。雪雪さまは、御子を授かったかもしれないのに」

 范敬が床を殴る。何度も、何度も。
 切り刻まれた大芹の根茎と葉が、彼女の拳で潰されていく。

(ああ、もうダメだ)

 翠鈴は天井を仰いだ。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。