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四章 猛毒草
14、どうか外へ【1】
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范敬は、呉正鳴を殺そうとした毒で死んだ。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
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