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十一章 蓖麻子《ひまし》
5、驟雨
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翠鈴と南蕾が未央宮の門をくぐった時。ぽつりと雨が降ってきた。
「あー、ツイリン。おかえり」
庭で遊んでいたのだろうか。桃莉が門までの道を駆けてくる。
「いけません、桃莉さま。雨が降ってきました」
桃莉を背後から捕まえたのは、侍女頭の梅娜だ。桃莉は「やだー、雨で遊ぶの」ともがいている。
「失礼いたします」
梅娜は桃莉を抱えあげて、回廊まで走って戻った。
台車をガタガタさせながら、翠鈴も走った。手に振動が伝わり、てのひらがかゆくなる。南蕾は文箱を濡らさぬように、両腕で抱えこんでいる。
間に合うはずだった。雨は降りはじめたばかりなのだから。
だが驟雨になるとは思わなかった。あと一歩で回廊に入れる、その位置で翠鈴の目の前は白くなった。あまりにも雨の勢いが強いせいだ。
「わぁ、すごーい」
ザァァという雨音と共に、桃莉のはしゃぐ声が聞こえてきた。翠鈴はすでにびしょ濡れだ。髪は頰に張りつき、衣も一瞬で水を含んで重くなっている。
睫毛の先からも雨のしずくが滴ってくる。
「大丈夫? 南蕾」
「へ、平気、です。文箱は濡れていません」
「いや、あなたのことなんだけど」
梅娜が、ずぶ濡れで床にうずくまった南蕾を助け起こしている。どうやら文箱を濡らすまいと回廊に飛び込んだようだ。桃莉の歓声も、南蕾の機敏な動きに向けられたものなのだろう。
(やっぱり呂充儀は判断を誤ったんだわ。こんなにも主にひたむきに仕えてくれる侍女は珍しいのに。南蕾さんを粗雑に扱って、あまつさえ辞めさせたのだから)
後宮を出て、故国に送り返された呂充儀は、もう冴えない侍女のことなど思い出さないかもしれない。
呂充儀はきっと分かっていない。本当に真心を持った侍女だ誰であったのかを。
「ねぇねぇ、すごいね。ツイリン。タオリィもびしょぬれしたい」
「お風邪を召しますし、衣が濡れたら気持ち悪いですよ」
泥遊びが好きな桃莉は、水遊びも好きなようだ。
軒から手を出しては、てのひらを叩く雨を面白がっている。
「翠鈴、南蕾。早く拭いて、着替えた方がいいわ」
梅娜が体を拭く毛巾を持ってきてくれた。
翠鈴は雨の降りしきる庭に目を向けた。花壇から離れた場所、雑草が繁る辺りに赤い枝がある。唐胡麻とも呼ばれる蓖麻だ。
(気にしていなかったけど。意外とどこにもで生えているのね)
「タオリィ。ツイリンをふいてあげるね」
小さな手で背伸びをしながら、桃莉公主はわしゃわしゃと翠鈴の体を拭いてくれる。
乾いた毛巾は、すぐに湿ってしまった。
◇◇◇
突然の雨に光柳が気づいたのは、墨汁で書いた文字が滲んだからだ。いつもと同じ濃さに墨を磨ったのに。紙の水分を含んで書いた文字の墨汁が薄まっている。
「ただいま戻りました」
書令史室の扉が開き、雲嵐が声をかけた。すぐに中に入らないのは傘の水滴を払っているのだろう。バサバサという音が聞こえる。
「ひどい雨です」
「濡れなかったか、よかったな」
光柳の近くまで雲嵐が来ると、水の匂いがした。
「そういえば翠鈴を見かけましたよ。油の補充でしょうか、壺を運んでいました」
「傘は持っていたか? 濡れていないだろうか」
主に問われて、雲嵐は高い天井を見やった。翠鈴の後ろ姿を思い出すために。
「台車を利用していましたから、傘は持っていないでしょう。新しい侍女と一緒でした。立ち話をせずに未央宮にまっすぐに戻れば、濡れていないと思いますが」
「ならよかった」
ほっと息をついた光柳は筆を執った。
ここのところ翠鈴とちゃんと話していない。忙しそうだから、呼び出すのも気が引ける。
(以前、翠鈴は私に何かを言いたそうにしていたのだが)
これまでならきっと強引に聞き出していただろう。だが、話したくなったら翠鈴から話を切り出してくれるに違いない。
(そう。私は待てるようになったのだ)
光柳はうんうんと頷いた。
その時だった、雲嵐の顔が曇っていることに気づいたのは。
「光柳さま。そろそろ夏至ですから。麦の収穫も終わっています」
「ああ。過夏麦も催されるな」
どうして突然、麦の話題を振るのだろうと光柳は訝しんだ。雲嵐が仕事中に意味のない話をすることはない。
「去年に引き続き、今年も雨が多い。もしかすると麦が不作なのか?」
「概算ですが、収穫量は例年の九割ほどだそうです」
雲嵐は説明を続ける。
「後宮にも宮城にも穀物庫がございます。麦だけではなく米も蓄えられております。陛下や妃嬪、外廷に勤める官吏たちが飢えることはないでしょう。米の収穫も秋ですし、充分に持つと思いますが」
「その割に表情が暗いな」
光柳は筆を置いて、雲嵐に向き直った。
話すべきかと逡巡しているのだろう。雲嵐は瞼を閉じて、眉をひそめた後でようやく口を開いた。
「杷京や新杷国の民の暮らし向きに関しては、我々宦官の管轄ではありません。外廷に勤める官僚の仕事です」
「まぁな。だが気になることがあるのだろう?」
皇城といわれる外廷にまで宦官が出向いて政治に口を出せば、厄介なことになる。
宦官に任されているのは閉じられた世界の管理。分は弁えなければならない。
「九割は収穫があるはずなのに、麦が足りないらしいのです。陛下は蔵を開き、民に食糧を分け与えると仰っているそうです」
国を統治する皇帝として正しい判断だ。
だが雲嵐が怪訝に思うように、光柳もまた違和感が拭えない。
本当に食糧不足なのか、という点だ。
新杷国の国土は狭くはない。小麦は生育期に涼しく、収穫期に温暖である必要がある。米よりも乾燥に強く、その反面収穫時の雨に弱い。
そのために新杷国でも北方の乾燥した地域で麦を栽培している。
「麦が消えているということか」
呟いた自分の声が舌の上でざらついたように思えた。
「あー、ツイリン。おかえり」
庭で遊んでいたのだろうか。桃莉が門までの道を駆けてくる。
「いけません、桃莉さま。雨が降ってきました」
桃莉を背後から捕まえたのは、侍女頭の梅娜だ。桃莉は「やだー、雨で遊ぶの」ともがいている。
「失礼いたします」
梅娜は桃莉を抱えあげて、回廊まで走って戻った。
台車をガタガタさせながら、翠鈴も走った。手に振動が伝わり、てのひらがかゆくなる。南蕾は文箱を濡らさぬように、両腕で抱えこんでいる。
間に合うはずだった。雨は降りはじめたばかりなのだから。
だが驟雨になるとは思わなかった。あと一歩で回廊に入れる、その位置で翠鈴の目の前は白くなった。あまりにも雨の勢いが強いせいだ。
「わぁ、すごーい」
ザァァという雨音と共に、桃莉のはしゃぐ声が聞こえてきた。翠鈴はすでにびしょ濡れだ。髪は頰に張りつき、衣も一瞬で水を含んで重くなっている。
睫毛の先からも雨のしずくが滴ってくる。
「大丈夫? 南蕾」
「へ、平気、です。文箱は濡れていません」
「いや、あなたのことなんだけど」
梅娜が、ずぶ濡れで床にうずくまった南蕾を助け起こしている。どうやら文箱を濡らすまいと回廊に飛び込んだようだ。桃莉の歓声も、南蕾の機敏な動きに向けられたものなのだろう。
(やっぱり呂充儀は判断を誤ったんだわ。こんなにも主にひたむきに仕えてくれる侍女は珍しいのに。南蕾さんを粗雑に扱って、あまつさえ辞めさせたのだから)
後宮を出て、故国に送り返された呂充儀は、もう冴えない侍女のことなど思い出さないかもしれない。
呂充儀はきっと分かっていない。本当に真心を持った侍女だ誰であったのかを。
「ねぇねぇ、すごいね。ツイリン。タオリィもびしょぬれしたい」
「お風邪を召しますし、衣が濡れたら気持ち悪いですよ」
泥遊びが好きな桃莉は、水遊びも好きなようだ。
軒から手を出しては、てのひらを叩く雨を面白がっている。
「翠鈴、南蕾。早く拭いて、着替えた方がいいわ」
梅娜が体を拭く毛巾を持ってきてくれた。
翠鈴は雨の降りしきる庭に目を向けた。花壇から離れた場所、雑草が繁る辺りに赤い枝がある。唐胡麻とも呼ばれる蓖麻だ。
(気にしていなかったけど。意外とどこにもで生えているのね)
「タオリィ。ツイリンをふいてあげるね」
小さな手で背伸びをしながら、桃莉公主はわしゃわしゃと翠鈴の体を拭いてくれる。
乾いた毛巾は、すぐに湿ってしまった。
◇◇◇
突然の雨に光柳が気づいたのは、墨汁で書いた文字が滲んだからだ。いつもと同じ濃さに墨を磨ったのに。紙の水分を含んで書いた文字の墨汁が薄まっている。
「ただいま戻りました」
書令史室の扉が開き、雲嵐が声をかけた。すぐに中に入らないのは傘の水滴を払っているのだろう。バサバサという音が聞こえる。
「ひどい雨です」
「濡れなかったか、よかったな」
光柳の近くまで雲嵐が来ると、水の匂いがした。
「そういえば翠鈴を見かけましたよ。油の補充でしょうか、壺を運んでいました」
「傘は持っていたか? 濡れていないだろうか」
主に問われて、雲嵐は高い天井を見やった。翠鈴の後ろ姿を思い出すために。
「台車を利用していましたから、傘は持っていないでしょう。新しい侍女と一緒でした。立ち話をせずに未央宮にまっすぐに戻れば、濡れていないと思いますが」
「ならよかった」
ほっと息をついた光柳は筆を執った。
ここのところ翠鈴とちゃんと話していない。忙しそうだから、呼び出すのも気が引ける。
(以前、翠鈴は私に何かを言いたそうにしていたのだが)
これまでならきっと強引に聞き出していただろう。だが、話したくなったら翠鈴から話を切り出してくれるに違いない。
(そう。私は待てるようになったのだ)
光柳はうんうんと頷いた。
その時だった、雲嵐の顔が曇っていることに気づいたのは。
「光柳さま。そろそろ夏至ですから。麦の収穫も終わっています」
「ああ。過夏麦も催されるな」
どうして突然、麦の話題を振るのだろうと光柳は訝しんだ。雲嵐が仕事中に意味のない話をすることはない。
「去年に引き続き、今年も雨が多い。もしかすると麦が不作なのか?」
「概算ですが、収穫量は例年の九割ほどだそうです」
雲嵐は説明を続ける。
「後宮にも宮城にも穀物庫がございます。麦だけではなく米も蓄えられております。陛下や妃嬪、外廷に勤める官吏たちが飢えることはないでしょう。米の収穫も秋ですし、充分に持つと思いますが」
「その割に表情が暗いな」
光柳は筆を置いて、雲嵐に向き直った。
話すべきかと逡巡しているのだろう。雲嵐は瞼を閉じて、眉をひそめた後でようやく口を開いた。
「杷京や新杷国の民の暮らし向きに関しては、我々宦官の管轄ではありません。外廷に勤める官僚の仕事です」
「まぁな。だが気になることがあるのだろう?」
皇城といわれる外廷にまで宦官が出向いて政治に口を出せば、厄介なことになる。
宦官に任されているのは閉じられた世界の管理。分は弁えなければならない。
「九割は収穫があるはずなのに、麦が足りないらしいのです。陛下は蔵を開き、民に食糧を分け与えると仰っているそうです」
国を統治する皇帝として正しい判断だ。
だが雲嵐が怪訝に思うように、光柳もまた違和感が拭えない。
本当に食糧不足なのか、という点だ。
新杷国の国土は狭くはない。小麦は生育期に涼しく、収穫期に温暖である必要がある。米よりも乾燥に強く、その反面収穫時の雨に弱い。
そのために新杷国でも北方の乾燥した地域で麦を栽培している。
「麦が消えているということか」
呟いた自分の声が舌の上でざらついたように思えた。
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