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十一章 蓖麻子《ひまし》
6、耳澄ます
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夏至の頃は、過夏麦が催される。
蘭淑妃にお茶に招かれていた光柳は、未央宮を訪れていた。過夏麦の祭祀に妃嬪が参加することはないが、それぞれの宮で夏至らしいお茶会が催される。
「過夏麦の豌豆黄と夏至餅を用意させましたよ」
蘭淑妃の説明が終わると同時に、桃莉公主が卓を覗きこんだ。
「わぁ。食べてもいいの?」
梔子で美しく染められた豌豆黄は、桃莉のお気に入りだ。それに夏至餅。これは収穫されたばかりの麦で作られる。
野菜や干し肉が、練った小麦を薄く焼いた餅の中に入っている。
卓についているのは蘭淑妃と桃莉公主、そして光柳だ。雲嵐は光柳の後ろに立ち、扉の近くには侍女頭の梅娜が控えている。
「さすがに宮中では、新麦も手に入りますね」
「そうね。今年は小麦が品薄なのでしょう?」
蘭淑妃の問いかけに、光柳は「よくご存じですね」と返事をした。後宮から出ることがなくとも、蘭淑妃の視野は広い。いかに皇帝の寵愛を受けるか、美を競い合う妃嬪とは一線を画してるからこそ、蘭淑妃は皇后のお気に入りなのだろう。
光柳はお茶をひとくち飲んだ。
爽やかな柑橘の香りを感じたような気がした。だが、柑橘の果皮で匂いをつけたようでもない。
口の中に仄かに甘味が残る。白茶だろう。だが光柳に分かるのはそこまでだ。
「古樹白茶を用意してもらったのよ」
蘭淑妃は、茶杯の香りを楽しんでいる。
良い茶なのはわかる。きっと翠鈴がいたら、この茶の価値がもっとよく分かっただろう。
室内に翠鈴の姿はない。
耳を澄ませば回廊を歩く翠鈴の足音が聞こえるのではないか。同僚の由由と話す声が届くのではないか。あるいは「失礼いたします」と扉が開くのではないか。
そう期待したが部屋の外は静かだった。
「翠鈴のことが気になるのね」
「ツイリン、よんでこようか?」
蘭淑妃と桃莉公主が、同時に光柳に声をかけた。梅娜に至っては、扉を開こうと手を伸ばしている。察しが良すぎるのではないか?
「いえ、それには及びません。翠鈴も忙しいでしょうし」
「そうねぇ。この間も灯籠に使う油が代わったとか言っていたわね。夜間や深夜に無燈というのは物騒ですものね」
蘭淑妃は窗に目を向けた。今日も曇りだ。昼間だというのに室内はうす暗く、すでに宮灯が点されている。
この部屋の明かりをつけたのは翠鈴だろうか。いや、回廊ではないので由由かもしれない。
翠鈴がいないからだろう。桃莉公主も言葉が少ない。
「夏至ゆうべ白き月の消ゆる音 杯を重ねて耳澄ますのみ」
光柳の唇から、ぽつりと詩がこぼれた。形式も法則も何もない呟きのように。
「梅娜。紙と筆をお願い」
「は、はい。淑妃さま、お忘れにならぬように詩を諳んじておいてください」
あわあわと慌てながら、梅娜が部屋の端の机に駆け寄る。淑妃はといえば「夏至ゆうべ……」と光柳が戯れに詠んだ詩を呟いた。
「あの。もしや先ほどの詩を書き留めるおつもりですか?」
「ええ、そうよ。そうだわ光柳、あとで名前を記してね。大丈夫、ちゃんと詩のお代は支払うわ」
「淑妃さまは翠鈴に似てきていませんか?」
確かに以前から、光柳の詩を買ってくれてはいるが。一言一句も逃すまいという姿勢に翠鈴が重なってしまう。
「でも、のちのちお金は入用でしょう? 詩人、松麟美の名には価値があるわ。多作である必要はないけれど、寡作もよくないわね。わたくしは翠鈴に苦労をさせたくないの」
まるで翠鈴の姉であるかのような言葉だ。
翠鈴の実の姉はとうに亡くなっている。結婚を約束した男に裏切られ、自死を選んだのだ。
翠鈴はこの後宮に復讐のためにやって来た。とうに目的は果たしたのに、今も司燈として未央宮で働き続けてくれている。
蘭淑妃や桃莉公主、それに侍女たちとも翠鈴は親しい。同僚の由由に医官の胡玲。さらに夜更けの薬売りとしての翠鈴は「女炎帝」と讃えられるほどだ。
(それほどに周囲から大事にされている翠鈴を、私が外に連れて行くのだ。必ず幸せにしてみせる)
宦官の身に堕とされて、意欲もなく生きてきた光柳に翠鈴は光を見せてくれた。月光のように白く冴えているのに、夏至の強い太陽にも似ている。
翠鈴が明かりを扱う司燈の宮女であるのも、納得できた。
彼女自身が光なのだから。
蘭淑妃にお茶に招かれていた光柳は、未央宮を訪れていた。過夏麦の祭祀に妃嬪が参加することはないが、それぞれの宮で夏至らしいお茶会が催される。
「過夏麦の豌豆黄と夏至餅を用意させましたよ」
蘭淑妃の説明が終わると同時に、桃莉公主が卓を覗きこんだ。
「わぁ。食べてもいいの?」
梔子で美しく染められた豌豆黄は、桃莉のお気に入りだ。それに夏至餅。これは収穫されたばかりの麦で作られる。
野菜や干し肉が、練った小麦を薄く焼いた餅の中に入っている。
卓についているのは蘭淑妃と桃莉公主、そして光柳だ。雲嵐は光柳の後ろに立ち、扉の近くには侍女頭の梅娜が控えている。
「さすがに宮中では、新麦も手に入りますね」
「そうね。今年は小麦が品薄なのでしょう?」
蘭淑妃の問いかけに、光柳は「よくご存じですね」と返事をした。後宮から出ることがなくとも、蘭淑妃の視野は広い。いかに皇帝の寵愛を受けるか、美を競い合う妃嬪とは一線を画してるからこそ、蘭淑妃は皇后のお気に入りなのだろう。
光柳はお茶をひとくち飲んだ。
爽やかな柑橘の香りを感じたような気がした。だが、柑橘の果皮で匂いをつけたようでもない。
口の中に仄かに甘味が残る。白茶だろう。だが光柳に分かるのはそこまでだ。
「古樹白茶を用意してもらったのよ」
蘭淑妃は、茶杯の香りを楽しんでいる。
良い茶なのはわかる。きっと翠鈴がいたら、この茶の価値がもっとよく分かっただろう。
室内に翠鈴の姿はない。
耳を澄ませば回廊を歩く翠鈴の足音が聞こえるのではないか。同僚の由由と話す声が届くのではないか。あるいは「失礼いたします」と扉が開くのではないか。
そう期待したが部屋の外は静かだった。
「翠鈴のことが気になるのね」
「ツイリン、よんでこようか?」
蘭淑妃と桃莉公主が、同時に光柳に声をかけた。梅娜に至っては、扉を開こうと手を伸ばしている。察しが良すぎるのではないか?
「いえ、それには及びません。翠鈴も忙しいでしょうし」
「そうねぇ。この間も灯籠に使う油が代わったとか言っていたわね。夜間や深夜に無燈というのは物騒ですものね」
蘭淑妃は窗に目を向けた。今日も曇りだ。昼間だというのに室内はうす暗く、すでに宮灯が点されている。
この部屋の明かりをつけたのは翠鈴だろうか。いや、回廊ではないので由由かもしれない。
翠鈴がいないからだろう。桃莉公主も言葉が少ない。
「夏至ゆうべ白き月の消ゆる音 杯を重ねて耳澄ますのみ」
光柳の唇から、ぽつりと詩がこぼれた。形式も法則も何もない呟きのように。
「梅娜。紙と筆をお願い」
「は、はい。淑妃さま、お忘れにならぬように詩を諳んじておいてください」
あわあわと慌てながら、梅娜が部屋の端の机に駆け寄る。淑妃はといえば「夏至ゆうべ……」と光柳が戯れに詠んだ詩を呟いた。
「あの。もしや先ほどの詩を書き留めるおつもりですか?」
「ええ、そうよ。そうだわ光柳、あとで名前を記してね。大丈夫、ちゃんと詩のお代は支払うわ」
「淑妃さまは翠鈴に似てきていませんか?」
確かに以前から、光柳の詩を買ってくれてはいるが。一言一句も逃すまいという姿勢に翠鈴が重なってしまう。
「でも、のちのちお金は入用でしょう? 詩人、松麟美の名には価値があるわ。多作である必要はないけれど、寡作もよくないわね。わたくしは翠鈴に苦労をさせたくないの」
まるで翠鈴の姉であるかのような言葉だ。
翠鈴の実の姉はとうに亡くなっている。結婚を約束した男に裏切られ、自死を選んだのだ。
翠鈴はこの後宮に復讐のためにやって来た。とうに目的は果たしたのに、今も司燈として未央宮で働き続けてくれている。
蘭淑妃や桃莉公主、それに侍女たちとも翠鈴は親しい。同僚の由由に医官の胡玲。さらに夜更けの薬売りとしての翠鈴は「女炎帝」と讃えられるほどだ。
(それほどに周囲から大事にされている翠鈴を、私が外に連れて行くのだ。必ず幸せにしてみせる)
宦官の身に堕とされて、意欲もなく生きてきた光柳に翠鈴は光を見せてくれた。月光のように白く冴えているのに、夏至の強い太陽にも似ている。
翠鈴が明かりを扱う司燈の宮女であるのも、納得できた。
彼女自身が光なのだから。
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