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十一章 蓖麻子《ひまし》
7、涼糕《リアンガオ》に醤油はかけない
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光柳と雲嵐は蘭淑妃と別れた。
土産にと蘭淑妃が茶葉を持たせてくれた。布の包みに入っているのは、先ほど飲んだ茶と同じものだという。
今日も曇天だが、夏至が近いので日暮れは遅い。まだ回廊に明かりは灯っていない。
(これが冬至の頃なら、仕事をしている翠鈴と偶然出会えたかもしれないのに)
とはいえ用事もなく未央宮をぶらぶらするわけにもいかない。光柳が回廊を進もうとした時。背中をつんつんと指で突かれた。
「光柳さま。もう少しゆっくり歩まれてはいかがですか?」
背後に立つ雲嵐が、光柳の耳もとで囁いた。訳もなくそんな提案をする雲嵐ではない。光柳は素直に歩調を緩めた。
「あ、うわっ」
急ぎ足で門からの道をやってきた人影が声を上げた。聞き間違えるはずのない声だ。
光柳はとっさに手で髪を整えた。動揺を面に出さぬよう、涼しい表情を張りつける。
「光柳さまじゃないですか。いらしてたんですね」
灰色の雲が風に流れた。細い筋となった光が未央宮を照らす。光の下に翠鈴が立っていた。
「ああ。過夏麦のお茶会に招かれていたんだ」
「確かに。もう夏至ですものね」
明かりを灯す棒を持った翠鈴は、空いた左手で懐に触れた。大事な物の在処を確認するように。
そういえば以前も翠鈴は、懐を妙に気にしていた。
(何を入れているのだろう。翠鈴のことだから、薬で稼いだ金とか? それとも茶葉。そうだ、さっきは古樹白茶を飲んだのだ)
翠鈴も飲めば、きっととても喜んだだろう。「これはおいしいですね」と桃莉公主と顔を見合わせて微笑んだかもしれない。
「翠鈴も招こうかと蘭淑妃が話していたぞ」
光柳は声が上ずった。
蘭淑妃に招かれた過夏麦のお茶会では、あんなにも扉を開けて翠鈴が入ってこないかと待ち焦がれていたのに。
実際に顔を合わせると、何を言っていいのか分からなくなる。
(なんだ……心臓がバクバクいっている)
分かっている、これは恋だ。麟美として恋愛の詩をこれでもかというほど詠んでいるので、理解している。
好いた人を前にしての動悸、顔の火照りは自然な反応だ。
「仕事もありますし。わたしは宮女ですから、行事には同席できませんが。そう仰っていただけて嬉しいです」
翠鈴は微笑んだ。黙っていれば翠鈴は冷たく見えるし、あまりにも鋭い目つきだから。ともすれば凄味があるのだが。だからこそ余計に翠鈴の笑顔は破壊力がある。
(だ、だめだ。これを可愛いと言わないのならば、何を以て可愛いと言うのだ)
もう少しで言葉にしそうになり、光柳は慌てて口をつぐんだ。
天気が悪くてよかった。夏至の日暮れはとても遅い。もし晴れていたら、こうして回廊の吊り灯籠に火をともす翠鈴と出会うこともなかった。
光柳は恋の詩を詠んでいるが。それは母の麟美の作風を模倣して、女性が好みそうな詩を作っていただけだ。たとえ詩に心がこもっていなくとも、鑑賞者は自分の状況や経験を重ねあわせて感動してくれる。
そんなものだと慢心していたのだ。
(今の気持ちを詩に詠めとか、無理だ。あれは落ち着いた状態でようやく言葉を綴ることができるのだ)
今の光柳の脳内では「愛おしい」「守りたい、むしろ守られたい」「好ましすぎてどうしていいのか分からない」と、言葉が暴風雨のように吹き荒れている。
自分の感情を制御するのがやっとで、繊細な機微など拾えない。
大人であるのに初めての恋心に翻弄される光柳を、雲嵐が目を細めて和やかに眺めている。
「あのっ。光柳さま」
意を決したように、翠鈴が強い口調で話しかけた。
「お話ししたいことがあるので。近々、お時間をいただけませんか?」
「今ここで聞こうか?」
「いえ。さすがにここでは。人通りがありますから」
翠鈴は周囲に視線を向けた。確かに室内の灯をともすために出入りしているのが見える。過夏麦のお茶会の片づけのために侍女たちも歩いている。
「今夜、お時間をいただけますか?」
大丈夫だと光柳が応えると、池の橋の真ん中を翠鈴は提案した。今夜は夜に薬を売ることもないし、池の上ならば盗み聞きの心配もないとのことだ。
(えらく警戒しているな)
だが翠鈴が話したい内容が何であるのか、光柳は思いつかない。
結局、約束の時間まで光柳の心は落ち着くことがなかった。
仕事をしては失敗が多く。紙を何枚も反故にしてしまった。
早めに仕事を切り上げた方がいいと雲嵐が提案したほどだ。
さらに夕食でも光柳はぼうっとしていた。食後に用意されたのは、甘くとろりとした涼糕だった。玄米から作られた涼糕は、蜜をかけて匙ですくって食べる。
「光柳さま。それは醤油です」
「あっ」
傾けていた容器を元に戻すが、もう遅い。一滴二滴ではなく、涼糕は醤油の黒に染まってしまった。
「これでは菓子ではなく、粘り気のある豆腐だ」
「頑張ってお召し上がりください」
対面する席で、雲嵐はとろりとした蜜を涼糕にかけた。
いいなぁ、おいしそうだ。
自分が羨ましい目で眺めていることに、光柳は気づかなかった。
土産にと蘭淑妃が茶葉を持たせてくれた。布の包みに入っているのは、先ほど飲んだ茶と同じものだという。
今日も曇天だが、夏至が近いので日暮れは遅い。まだ回廊に明かりは灯っていない。
(これが冬至の頃なら、仕事をしている翠鈴と偶然出会えたかもしれないのに)
とはいえ用事もなく未央宮をぶらぶらするわけにもいかない。光柳が回廊を進もうとした時。背中をつんつんと指で突かれた。
「光柳さま。もう少しゆっくり歩まれてはいかがですか?」
背後に立つ雲嵐が、光柳の耳もとで囁いた。訳もなくそんな提案をする雲嵐ではない。光柳は素直に歩調を緩めた。
「あ、うわっ」
急ぎ足で門からの道をやってきた人影が声を上げた。聞き間違えるはずのない声だ。
光柳はとっさに手で髪を整えた。動揺を面に出さぬよう、涼しい表情を張りつける。
「光柳さまじゃないですか。いらしてたんですね」
灰色の雲が風に流れた。細い筋となった光が未央宮を照らす。光の下に翠鈴が立っていた。
「ああ。過夏麦のお茶会に招かれていたんだ」
「確かに。もう夏至ですものね」
明かりを灯す棒を持った翠鈴は、空いた左手で懐に触れた。大事な物の在処を確認するように。
そういえば以前も翠鈴は、懐を妙に気にしていた。
(何を入れているのだろう。翠鈴のことだから、薬で稼いだ金とか? それとも茶葉。そうだ、さっきは古樹白茶を飲んだのだ)
翠鈴も飲めば、きっととても喜んだだろう。「これはおいしいですね」と桃莉公主と顔を見合わせて微笑んだかもしれない。
「翠鈴も招こうかと蘭淑妃が話していたぞ」
光柳は声が上ずった。
蘭淑妃に招かれた過夏麦のお茶会では、あんなにも扉を開けて翠鈴が入ってこないかと待ち焦がれていたのに。
実際に顔を合わせると、何を言っていいのか分からなくなる。
(なんだ……心臓がバクバクいっている)
分かっている、これは恋だ。麟美として恋愛の詩をこれでもかというほど詠んでいるので、理解している。
好いた人を前にしての動悸、顔の火照りは自然な反応だ。
「仕事もありますし。わたしは宮女ですから、行事には同席できませんが。そう仰っていただけて嬉しいです」
翠鈴は微笑んだ。黙っていれば翠鈴は冷たく見えるし、あまりにも鋭い目つきだから。ともすれば凄味があるのだが。だからこそ余計に翠鈴の笑顔は破壊力がある。
(だ、だめだ。これを可愛いと言わないのならば、何を以て可愛いと言うのだ)
もう少しで言葉にしそうになり、光柳は慌てて口をつぐんだ。
天気が悪くてよかった。夏至の日暮れはとても遅い。もし晴れていたら、こうして回廊の吊り灯籠に火をともす翠鈴と出会うこともなかった。
光柳は恋の詩を詠んでいるが。それは母の麟美の作風を模倣して、女性が好みそうな詩を作っていただけだ。たとえ詩に心がこもっていなくとも、鑑賞者は自分の状況や経験を重ねあわせて感動してくれる。
そんなものだと慢心していたのだ。
(今の気持ちを詩に詠めとか、無理だ。あれは落ち着いた状態でようやく言葉を綴ることができるのだ)
今の光柳の脳内では「愛おしい」「守りたい、むしろ守られたい」「好ましすぎてどうしていいのか分からない」と、言葉が暴風雨のように吹き荒れている。
自分の感情を制御するのがやっとで、繊細な機微など拾えない。
大人であるのに初めての恋心に翻弄される光柳を、雲嵐が目を細めて和やかに眺めている。
「あのっ。光柳さま」
意を決したように、翠鈴が強い口調で話しかけた。
「お話ししたいことがあるので。近々、お時間をいただけませんか?」
「今ここで聞こうか?」
「いえ。さすがにここでは。人通りがありますから」
翠鈴は周囲に視線を向けた。確かに室内の灯をともすために出入りしているのが見える。過夏麦のお茶会の片づけのために侍女たちも歩いている。
「今夜、お時間をいただけますか?」
大丈夫だと光柳が応えると、池の橋の真ん中を翠鈴は提案した。今夜は夜に薬を売ることもないし、池の上ならば盗み聞きの心配もないとのことだ。
(えらく警戒しているな)
だが翠鈴が話したい内容が何であるのか、光柳は思いつかない。
結局、約束の時間まで光柳の心は落ち着くことがなかった。
仕事をしては失敗が多く。紙を何枚も反故にしてしまった。
早めに仕事を切り上げた方がいいと雲嵐が提案したほどだ。
さらに夕食でも光柳はぼうっとしていた。食後に用意されたのは、甘くとろりとした涼糕だった。玄米から作られた涼糕は、蜜をかけて匙ですくって食べる。
「光柳さま。それは醤油です」
「あっ」
傾けていた容器を元に戻すが、もう遅い。一滴二滴ではなく、涼糕は醤油の黒に染まってしまった。
「これでは菓子ではなく、粘り気のある豆腐だ」
「頑張ってお召し上がりください」
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いいなぁ、おいしそうだ。
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