後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
155 / 171
十一章 蓖麻子《ひまし》

4、蓖麻子油《ひましゆ》

しおりを挟む
 去年、菜種の産地での天候不良が続いたせいで、菜種油の高騰が続いている。身分の低い宮女や雑役の宦官は熱源として石炭を用い、灯籠や宮灯には桐油とうゆを用いていたが。
 菜種油が出回るまでは蓖麻子油ひましゆも扱うこととなった。

 蓖麻ひま唐胡麻とうごまとも呼ばれている。蓖麻の種子で「蓖麻子」だ。

「じゃあ、説明を聞いてくるわ」

 翠鈴は、宮灯の掃除をしている由由に声をかけた。
 司燈はそれぞれの宮にいるが、大元の管轄は尚寝局しょうしんきょくだ。庭の手入れをする司苑や司燈など、尚寝局は居住空間に携わる女官や宮女が所属する部署である。

 今日は、それぞれの宮から司燈が尚寝局に赴かねばならない。油を管理する女官から蓖麻子油の取り扱いの注意を聞くためだ。

「ごめんね、翠鈴。あたしじゃ、女官の説明を聞いてもよく分からなくて」
「うーん。大丈夫だと思うよ。桐油だって毒があるけど、これまでも使っていたし。蓖麻子油も危険なのは種子であって、搾った油は飲めば下剤になる程度だからね」
「下剤っ? 油を飲むの?」

 由由の声は裏返った。

「そうよ。蓖麻子油は下剤や点眼薬、化粧にも使われるわね。でも、油をとった後の圧搾残渣あっさくざんさには、きわめて強い毒性があるの」

 ひぃっと由由は顔をひきつらせたが。そもそも蓖麻子油に加工されたものを購入しているわけだから。危険な搾りかすがあるわけでもない。

(まぁ。唐胡麻も後宮内にちらほら生えているけど。唐胡麻に限らず、毒のある植物は多いから)

 無毒な植物だけを植えるように、という基準ができれば。どの庭にもほとんどの草花は存在しなくなる。
 子供の頃に好んで吸っていた躑躅つつじの蜜にも、微量ではあるが毒はある。

(躑躅に毒があるなんて知らずに、胡玲フーリンと一緒に蜜を吸っていたっけ)

「ふたりともほどほどにしなさいよ」と、姉の明玉メイユィたしなめられたのも、懐かしい思い出だ。

 尚寝局にある司燈の棟には、数十人が集まっていた。
 ここのところの睡眠不足もあって、翠鈴はあくびを噛み殺した。蓖麻子の毒性ならば、翠鈴は詳しい。さっき由由に話して聞かせたところだ。

(ちょっとくらいうたた寝しても平気かな)

 目を閉じているとばれないように軽くうつむいて、座っていればいいだろう。
 軽い倦怠感が、翠鈴を眠りに誘う。

「ああ、陸翠鈴。ちょっと前に出てちょうだい」
「え?」

 せっかく寝ようと思っていたのに。とはさすがに言えない。
 女官に呼ばれた翠鈴は訝しむながらも、集団から抜け出した。

「この陸翠鈴に、蓖麻子油の説明をしてもらいます」
「え? どうしてですか」

 思わず声が出てしまった。そもそも翠鈴は宮女なのだ。現場で働く宮女を管理し教育するのは女官の勤め。それは翠鈴の役目ではない。

「だって、私は蓖麻子油なんて扱ったことないもの」

 ひそひそと耳打ちしてくる女官の顔をよく見れば。夜更けの薬売りのお客さまだ。翠鈴が薬にも毒にも詳しいことを、よく知っているのだろう。

(だからって司燈の仕事とは分けてほしいんだけど)

 とにかく目立つのはごめんだ。皆が憧れる光柳と親しくしているし、陛下から佩玉を賜ったり、皇后陛下にも目をかけていただいている。
 一介の宮女としてはありえないほど厚遇されているのだ。

「お願い、ね」と女官は手を合わせてにっこりと微笑んだ。押しが強い。翠鈴は仕方なく、由由に話したのと同じ内容を説明した。

 油そのものではなく、圧搾残渣が危険であること。後宮内で蓖麻の種子を搾っているわけでもないので、油自体を恐れることはない。
 だが、蓖麻は後宮内にも生えているので触れない方がいい。

「草丈もまちまちで、人の背を越える者もあれば、草としか見えないものもあります。実が棘に覆われているのと、葉の形がてのひらを広げたような形は共通しています」

 翠鈴は分かりやすく話したが。宮女たちは「自分たちには別に関係ないか」という風に反応が鈍い。
 あくびをしたり、退屈そうに首を掻いたりしている宮女たちの中。ただひとり、前に立つ翠鈴をじっと見据える宮女がいた。痩せぎすで、髪を結っていても毛がぱさついているのが分かった。

「蓖麻の実に触れることはないと思いますが。食べると猛毒、口にせずとも傷口から毒に侵されることがあります。油は大丈夫なので、心配しなくてもいいですよ。ただし生えている蓖麻……唐胡麻の実には気をつけてください」

 痩せた宮女は顔を強ばらせていたが。他の宮女たちは「なんだ、平気なんだ」と呑気に言葉を交わした。

 尚寝局を出ると、風が湿り気を帯びていた。見上げる空は、鈍色にびいろの雲が垂れこめている。

「雨になる前に帰れたらいいんだけど」

 翠鈴は、蓖麻子油の入った壺を載せた台車を押した。籠に入った壺は倒れることはないが。それでも敷石の継ぎ目ごとに壺同士がぶつかって音を立てるのが気になる。

「翠鈴さんじゃないですか」

 声をかけてきたのは、新たに蘭淑妃の侍女となった南蕾ナンレイだ。螺鈿細工が施されている、漆塗りの箱を抱えている。

「珍しいですね、南蕾さん。こんなところで」
「近くの尚功局しょうこうきょくに文箱を取りに行っていたんです。螺鈿が剥がれそうで、淑妃さまが修復を依頼なさっていたの」

 ふふ、と南蕾は表情を和らげた。偶然翠鈴に会えたのが嬉しい、とでもいう風に。呂充儀ルーじゅうぎの侍女であった頃の南蕾は、表情も硬く脅えた様子だったのに。

「不真面目って思われたらいけないんですけど。こうやってお話をしながら未央宮に戻るのって楽しいですね」

 なんでもない当たり前のことが、普通の日常を送れることが、南蕾にとっては特別なのだろう。彼女の明るい顔を見ると、翠鈴も和んでしまう。
 その時だった。翠鈴は背中に衝撃を受けた。

「うわっ」と声を上げてふり返ると、壺を抱えた宮女が顔をしかめていた。見覚えがある。さっき、蓖麻子油の説明を聞いていた宮女だ。十代半ばの痩せぎすで、たったひとり翠鈴をじっと見据えていた。

「ごめん。あ、油、こぼれたかも」
軟木なんぼくで栓がしてあるから、大丈夫だと思うけど」
「でもこれ、蓖麻子油だから。どうしよう、危ないんよね?」

 宮女はおろおろと袖や手を確認している。

(いや、だから油は危険じゃないって説明したのに。あなた、集中してるように見えたのに。聞いてなかったの?)

 ほとんどの司燈は蓖麻子油の説明を適当に聞き流していた。だとしたら、油の移し替えで混乱が起きるかもしれない。

(うーん。油自体は危なくないってそれぞれの宮に張り紙をしても、読めない宮女が多いし。しかもそれはわたしの仕事の範疇を越えてるしなぁ)

 翠鈴が女官であれば責任も伴うだろうが。その女官からして、蓖麻子油の説明を宮女である翠鈴に任せるのだから。

「あ、あの。うち、卓鳩児ズオジウアーといいます。最近、後宮に入ったばかりで。その、唐胡麻って後宮のどの辺りに生えてるん?」
「どこって。鳥が種を運んだなら、草の生えている場所にもあるけど。栽培種なら花瓶に挿して飾ったりするから、その場合は司苑にどの宮の庭に植えてあるのか聞いた方がいいかも」

 一応、唐胡麻の種子が蓖麻子であるという説明は聞いていたんだ。でも大事なのはそこじゃないな。翠鈴は思案した。
 頰を撫でる風が、ひんやりとした。土っぽい匂いが強くなる。今にも雨が降りそうだ。

「南蕾さん、急ぎましょう。濡れてしまいます」

 鳩児との話を切りあげた翠鈴は、南蕾を促した。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。