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十一章 蓖麻子《ひまし》
3、雲嵐が怒ると……怖い
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「……また部屋を抜け出しましたね」
未央宮の門を出たところで、雲嵐が光柳の前に立ちはだかった。
ここのところ雨の日が多かったが、今日は天気が悪いわけでもない。空はよく晴れているし、風が吹いているわけでもない。木々の枝はそよいでもいないのだから。
なのに、ひゅううと足下を風が吹き抜けた気がした。
雲嵐は怒っている、とても静かに。それが証拠に腕組みをして、光柳を見おろしているのだ。
雲嵐は背が高い。そして姿勢がいい。護衛のために鍛えているせいか、筋肉のついた体をしている。ふだんは温厚で微笑みを絶やさないのに。
こうして言葉少なに怒っていると……とても怖い。
「司燈の仕事は早朝と夕暮れが忙しいのは、ご存じですよね」
「ご存じです」
光柳は、自分でも気づかぬうちに声がかすれてしまった。
「せめて翠鈴の手が空いていそうな時間を選べないんですか? それとも恋の熱に浮かされた少年のように、相手の事情も考えずに突撃しないと気が済まないんですか」
「う……っ」
言葉を詰まらせた光柳は、一歩後退した。
今朝、未央宮を訪れたことに理由はない。強いていうなら、目が覚めた時に薫衣草の匂いがした。だから、翠鈴に会いたくなった。それだけだ。
女流詩人である松麟美としての自分なら、こうした軽はずみな行為も許されるだろう。
「これまでも早朝に部屋を抜け出すのを、何度か見逃してきましたが。頻繁になると困ります」
「だがまぁ、後宮だからな。そう危険なこともないだろう」
「これほど毒と謀略に溢れた場所も、そうそうありませんが?」
その指摘は正しい。だからこそ、後宮内であっても雲嵐が光柳の護衛として、影のように付き従っている。
「光柳さまは、ご自分が私の前からふっと消えることは多いですよね」
しまった。雲嵐のお小言が始まってしまった。光柳は身構えた。
とはいえ用もなく、ただ翠鈴に会いたいと。その衝動というか気持ちを優先させるのに、わざわざ眠っている雲嵐を起こすのも申し訳ない気分になるのだ。
きっと説教の雨が降る。それも豪雨だ。覚悟を決めた光柳だが、小言の雨粒は落ちてこない。恐る恐る見上げると、雲嵐は肩を落としてため息をこぼしていた。
「いつまでも光柳さまと共にと願ってはおりますが。もし御身に事があれば、私は責任を取ることになります。別な護衛が光柳さまの下に配属されるやもしれません」
「それは困るっ」
考えるよりも先に、言葉が光柳の口をついて出た。
確かに考えが浅慮だった。後宮には自分を害する者はいないと、どこかで思い上がっていたのかもしれない。
公主である桃莉ですら、毒を盛られたというのに。
「反省した。すまない、雲嵐」
「分かってくだされば、いいんですよ」
「これからは、遠慮なく雲嵐を叩き起こす。それで許してくれるか?」
いや、そうではないでしょう。そう言いたげに雲嵐は啞然とした表情を浮かべる。
「……早朝は、翠鈴が忙しいと申しあげましたよね」
「だが、早朝でなければ未央宮には人がいる。大丈夫だ。ほんの少し会話をしただけで戻って来た」
「本当ですね? 本当に本当ですね?」
しつこいくらいに雲嵐に念を押されて、光柳は何度もうなずく。
「そうだ。今朝は私が朝食を運んでこよう。せめてもの詫びだ」
「いえ、そこまでは」と遠慮する雲嵐を置いて、光柳は宿舎の近くにある食堂へと向かった。
存在があまりにも近すぎるので。雲嵐に甘えすぎていたかもしれない。どんな我儘も、雲嵐なら許してくれるだろう。「しょうがありませんね」と、肩をすくめながらも容認してくれるだろう、と。
だが、自分が何者かに襲われでもすれば。責任を負うのは雲嵐だ。
常に一緒に行動していれば、雲嵐は光柳を守ってくれる。だが、裏を返せば共にいなければ、雲嵐は主を守ることができないのだ。
朝食は、小麦粉を発酵させた生地を薄く焼いた焼餅だ。表面には白ごまが振ってある。
玉蘭片という干した筍と、刻んだ豚肉を炒めたものが挟んである。これを肉末焼餅という。
それに豆奬と呼ばれる豆乳が碗に入っている。
光柳たちと同じ敷地の宿舎には、雑役の宦官は暮らしていない。むしろ品階としては光柳よりも高い身分の宦官の方が多い。
ゆえに食事も雑役の宦官と比べれば高級だ。
「あの、光柳さまが料理を取りにいらっしゃったんですか? 雲嵐さまは、具合が悪くていらっしゃるんですか?」
厨房で働く女官が、恐る恐る光柳に声をかけてくる。食堂に集っている宦官も、光柳に視線を向けた。
注目されることに慣れた光柳は、気にしていないが。食堂内のすべての視線が、光柳が歩みと共に移動する。
「待たせたな、雲嵐」
宿舎に戻って来た光柳を見た雲嵐は、妙な顔をした。椅子から立とうとした雲嵐を、光柳は手で制する。
「どうした? 肉末焼餅は嫌いだったか?」
「いえ、そういうわけでは」
「ならよかった」と、光柳は卓に碗や皿を並べていった。
「なんというか……奇妙な感じですね」
今にも椅子から立ち上がりそうに足を動かしながら。それでも雲嵐はまた足を揃えて座り直す。
光柳は気づいていない。
これまで食事の時は雲嵐が常に給仕をしてくれた。自らが食堂に行き、料理を運んだことなどほとんどない。
「お変わりになりましたね、光柳さま」
「そうか?」
今日は翠鈴も雲嵐も、やたらとくすぐったそうな表情で自分を見てくるな、と考えながら。光柳は焼餅をほおばった。
歯ごたえのある焼餅は、白ごまの香りがして。さらに炒肉末の醤油と肉の甘みと旨みが口に広がった。
「雲嵐。食べないのか?」
「いえ。いただきます」
なぜか雲嵐が瞳を潤ませている。
いずれは後宮の外へと出ていく主に対して「成長なさったなぁ」と考えているのだが。
その心の内までは、光柳は読むことができない。
未央宮の門を出たところで、雲嵐が光柳の前に立ちはだかった。
ここのところ雨の日が多かったが、今日は天気が悪いわけでもない。空はよく晴れているし、風が吹いているわけでもない。木々の枝はそよいでもいないのだから。
なのに、ひゅううと足下を風が吹き抜けた気がした。
雲嵐は怒っている、とても静かに。それが証拠に腕組みをして、光柳を見おろしているのだ。
雲嵐は背が高い。そして姿勢がいい。護衛のために鍛えているせいか、筋肉のついた体をしている。ふだんは温厚で微笑みを絶やさないのに。
こうして言葉少なに怒っていると……とても怖い。
「司燈の仕事は早朝と夕暮れが忙しいのは、ご存じですよね」
「ご存じです」
光柳は、自分でも気づかぬうちに声がかすれてしまった。
「せめて翠鈴の手が空いていそうな時間を選べないんですか? それとも恋の熱に浮かされた少年のように、相手の事情も考えずに突撃しないと気が済まないんですか」
「う……っ」
言葉を詰まらせた光柳は、一歩後退した。
今朝、未央宮を訪れたことに理由はない。強いていうなら、目が覚めた時に薫衣草の匂いがした。だから、翠鈴に会いたくなった。それだけだ。
女流詩人である松麟美としての自分なら、こうした軽はずみな行為も許されるだろう。
「これまでも早朝に部屋を抜け出すのを、何度か見逃してきましたが。頻繁になると困ります」
「だがまぁ、後宮だからな。そう危険なこともないだろう」
「これほど毒と謀略に溢れた場所も、そうそうありませんが?」
その指摘は正しい。だからこそ、後宮内であっても雲嵐が光柳の護衛として、影のように付き従っている。
「光柳さまは、ご自分が私の前からふっと消えることは多いですよね」
しまった。雲嵐のお小言が始まってしまった。光柳は身構えた。
とはいえ用もなく、ただ翠鈴に会いたいと。その衝動というか気持ちを優先させるのに、わざわざ眠っている雲嵐を起こすのも申し訳ない気分になるのだ。
きっと説教の雨が降る。それも豪雨だ。覚悟を決めた光柳だが、小言の雨粒は落ちてこない。恐る恐る見上げると、雲嵐は肩を落としてため息をこぼしていた。
「いつまでも光柳さまと共にと願ってはおりますが。もし御身に事があれば、私は責任を取ることになります。別な護衛が光柳さまの下に配属されるやもしれません」
「それは困るっ」
考えるよりも先に、言葉が光柳の口をついて出た。
確かに考えが浅慮だった。後宮には自分を害する者はいないと、どこかで思い上がっていたのかもしれない。
公主である桃莉ですら、毒を盛られたというのに。
「反省した。すまない、雲嵐」
「分かってくだされば、いいんですよ」
「これからは、遠慮なく雲嵐を叩き起こす。それで許してくれるか?」
いや、そうではないでしょう。そう言いたげに雲嵐は啞然とした表情を浮かべる。
「……早朝は、翠鈴が忙しいと申しあげましたよね」
「だが、早朝でなければ未央宮には人がいる。大丈夫だ。ほんの少し会話をしただけで戻って来た」
「本当ですね? 本当に本当ですね?」
しつこいくらいに雲嵐に念を押されて、光柳は何度もうなずく。
「そうだ。今朝は私が朝食を運んでこよう。せめてもの詫びだ」
「いえ、そこまでは」と遠慮する雲嵐を置いて、光柳は宿舎の近くにある食堂へと向かった。
存在があまりにも近すぎるので。雲嵐に甘えすぎていたかもしれない。どんな我儘も、雲嵐なら許してくれるだろう。「しょうがありませんね」と、肩をすくめながらも容認してくれるだろう、と。
だが、自分が何者かに襲われでもすれば。責任を負うのは雲嵐だ。
常に一緒に行動していれば、雲嵐は光柳を守ってくれる。だが、裏を返せば共にいなければ、雲嵐は主を守ることができないのだ。
朝食は、小麦粉を発酵させた生地を薄く焼いた焼餅だ。表面には白ごまが振ってある。
玉蘭片という干した筍と、刻んだ豚肉を炒めたものが挟んである。これを肉末焼餅という。
それに豆奬と呼ばれる豆乳が碗に入っている。
光柳たちと同じ敷地の宿舎には、雑役の宦官は暮らしていない。むしろ品階としては光柳よりも高い身分の宦官の方が多い。
ゆえに食事も雑役の宦官と比べれば高級だ。
「あの、光柳さまが料理を取りにいらっしゃったんですか? 雲嵐さまは、具合が悪くていらっしゃるんですか?」
厨房で働く女官が、恐る恐る光柳に声をかけてくる。食堂に集っている宦官も、光柳に視線を向けた。
注目されることに慣れた光柳は、気にしていないが。食堂内のすべての視線が、光柳が歩みと共に移動する。
「待たせたな、雲嵐」
宿舎に戻って来た光柳を見た雲嵐は、妙な顔をした。椅子から立とうとした雲嵐を、光柳は手で制する。
「どうした? 肉末焼餅は嫌いだったか?」
「いえ、そういうわけでは」
「ならよかった」と、光柳は卓に碗や皿を並べていった。
「なんというか……奇妙な感じですね」
今にも椅子から立ち上がりそうに足を動かしながら。それでも雲嵐はまた足を揃えて座り直す。
光柳は気づいていない。
これまで食事の時は雲嵐が常に給仕をしてくれた。自らが食堂に行き、料理を運んだことなどほとんどない。
「お変わりになりましたね、光柳さま」
「そうか?」
今日は翠鈴も雲嵐も、やたらとくすぐったそうな表情で自分を見てくるな、と考えながら。光柳は焼餅をほおばった。
歯ごたえのある焼餅は、白ごまの香りがして。さらに炒肉末の醤油と肉の甘みと旨みが口に広がった。
「雲嵐。食べないのか?」
「いえ。いただきます」
なぜか雲嵐が瞳を潤ませている。
いずれは後宮の外へと出ていく主に対して「成長なさったなぁ」と考えているのだが。
その心の内までは、光柳は読むことができない。
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