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十一章 蓖麻子《ひまし》
8、もう不安を抱かなくていい
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夜には雲が切れた。今夜の月の出は遅い。洗い流したような澄んだ空では、星が煌めいている。
雲嵐が提げ灯籠を持ち、光柳の足下を照らす。
水の匂いがして光柳は顔を上げた。すっと伸びた白菖の向こうに、曲線を描いた反橋が見える。
橋の中ほどに翠鈴の姿が見えた。欄干に寄りかかるわけでもなく、白菖の葉のように佇んでいる。
池の魚が跳ねたのだろうか。それとも蛙が飛びこんだのだろうか。ぱしゃん、と水音が聞こえた。
「光柳さま、雲嵐さま」
提げ灯籠の明かりに気づいた翠鈴が、笑顔で手を振る。
よかった、悪い話ではなさそうだ。光柳はほっと息をついた。
初めて光柳は、自分が緊張していたことに気づいた。
遅くに呼び出したことを翠鈴は詫びるが、未央宮でも書令史室でも話せない事情があるのだろう。
翠鈴は懐に手を入れた。
来た。光柳は息を呑んだ。気づかぬうちに一歩下がっていたらしい、雲嵐の逞しい体に背中がぶつかってしまう。
「大丈夫ですよ」と囁く雲嵐に背中を押された。
そう、問題ない。翠鈴を信じるのだ。沓の中の指に力を込めて、光柳は一歩進む。
やはり翠鈴は大事な物を懐に忍ばせていたのだろう。握りしめた手から、紐が垂れているのが見えた。
大きく深呼吸をして、翠鈴は瞼を閉じた。そして意を決したように目を開く。いつもの鋭さはない、星明りでも翠鈴の瞳が揺れているのが分かる。
「皇后陛下からこちらを拝受しました」
開いた翠鈴のてのひらに載っていたのは円形の翡翠だった。
しっとりと潤んだように夜の微かな光を閉じこめた翡翠には、龍のような紋様が彫られている。
「土牛か」
外側に曲がった角で、光柳はそれを龍ではなく土牛であると判断した。
「義兄の画策か。私にではなく翠鈴に託すとは」
「陛下から皇后陛下、そしてわたしから光柳さまに届くようにとお考えなのでしょう」
翠鈴は心底困っているという風に眉を下げた。察した雲嵐が、提げ灯籠の位置をずらす。翠鈴の顔を照らさぬために。
「皇后娘娘から下賜されたものを、翠鈴がつき返せるはずもない。私もだ」
皇帝、劉傑倫にとって、光柳は今でもどこか頼りない弟として見えているようだ。不本意ではあるが、兄に心配されるのが弟という立場なのだろう。
「翠鈴。いつ佩玉をもらったんだ?」
「ひと月ほど前です」
「そうか……一人で抱え込むには長い期間だな」
光柳は紐を手に取った。見た目よりもずっしりとした翡翠の重さを感じる。
「これはもうありがたく頂戴するしかないな。義兄の善意なのだから」
翠鈴の表情が明るくなった。
ひと月の間に顔を合わせることもあったのに。光柳に相談することができなかった。それは光柳の問題だ。きっと佩玉を突っぱねるだろうと、翠鈴は悩んだに違いない。
翠鈴に安心を与えれなかった己を、不甲斐なく思った。
「私は自分で思っているほどに大人ではなかったのだな」
冷たく滑らかな翡翠を光柳は握りしめた。
「翠鈴。不眠はもう終わりだ」
「あの、それはどういう」
「今後、この斗牛の佩玉は私が預かろう。これまで緊張し続けていたのだな、朝も昼も夜も。気づいてやれなくて済まない」
翠鈴の目が輝いた。まるで夜空の星を宿したかのように。翠鈴の表情が和らいで、緊張が解けていくのが分かった。
(ああ、私は彼女のこんな表情が見たかったんだ)
光柳が翠鈴の笑顔が見たいように、義兄もまた光柳の笑顔が見たいのだろう。
将来を誓いあった仲であれ、兄弟であれ。相手を愛しく思う気持ちに違いはない。
「そうだ。代わりといっては何だが。これを蘭淑妃からもらったんだ」
光柳が袂から布の包みを取りだす。中には、一握りほどの茶葉が入っている。
「私はもう味わった。それに翠鈴の方が喜ぶだろうと思ってな」
「開いてもいいですか?」と問うた翠鈴は、光柳の返事を待つ前に包みを解いた。
茶葉に顔を近づけて、香りを吸いこんでいる。
きらきらを宿した瞳が、さらに輝きを増す。
「もしかして古樹白茶ですか。うわ、うわぁ。なんていい香り」
翠鈴は早口でまくし立てた。
「あの、ですね。標高が高い場所で育ち、百年を越した老木になると、茶葉の成長はとてもゆっくりになるんです。一番茶を摘むのは四月なのですが。古樹となると低地では二番茶の時期に、新茶となるんです」
成長が遅いことで、茶葉の栄養は高くなる。さらに後味が濃く、香りの余韻がいつまでも残る。
新茶を摘む時期は遅ければ遅いほどいい。夏至に古樹白茶がふるまわれるということは、この茶葉は六月に摘まれたものではないか?
翠鈴の話は止まらない。
こんなにも生き生きとした翠鈴を見るのは、久しぶりに思える。
光柳だけでなく、雲嵐もなぜか表情を和らげている。
「ああ、すみません。熱くなってしまいました」
突然我に返った翠鈴が謝った。夢中で語ってしまったことがよほど恥ずかしいのだろう。
珍しく頰に手を添えてうつむいた。
(私にはよく分からぬが。こんな風に熱心に語ってもらえる茶葉が羨ましいな)
おそらく蘭淑妃は翠鈴の分の茶葉を取り分けていることだろう。
光柳は身分は低くとも、出自の高さから公的なお茶会に招かれる。だが宮女である翠鈴は参加できない。
(大丈夫だ。きっと梅娜が丁寧に淹れたお茶をふるまってくれるさ)
近いうちに翠鈴は、蘭淑妃や桃莉公主の私的なお茶の時間に呼ばれることだろう。
嬉しそうに古樹白茶の香りをかぐ翠鈴を想像すると、光柳は嬉しくなった。
雲嵐が提げ灯籠を持ち、光柳の足下を照らす。
水の匂いがして光柳は顔を上げた。すっと伸びた白菖の向こうに、曲線を描いた反橋が見える。
橋の中ほどに翠鈴の姿が見えた。欄干に寄りかかるわけでもなく、白菖の葉のように佇んでいる。
池の魚が跳ねたのだろうか。それとも蛙が飛びこんだのだろうか。ぱしゃん、と水音が聞こえた。
「光柳さま、雲嵐さま」
提げ灯籠の明かりに気づいた翠鈴が、笑顔で手を振る。
よかった、悪い話ではなさそうだ。光柳はほっと息をついた。
初めて光柳は、自分が緊張していたことに気づいた。
遅くに呼び出したことを翠鈴は詫びるが、未央宮でも書令史室でも話せない事情があるのだろう。
翠鈴は懐に手を入れた。
来た。光柳は息を呑んだ。気づかぬうちに一歩下がっていたらしい、雲嵐の逞しい体に背中がぶつかってしまう。
「大丈夫ですよ」と囁く雲嵐に背中を押された。
そう、問題ない。翠鈴を信じるのだ。沓の中の指に力を込めて、光柳は一歩進む。
やはり翠鈴は大事な物を懐に忍ばせていたのだろう。握りしめた手から、紐が垂れているのが見えた。
大きく深呼吸をして、翠鈴は瞼を閉じた。そして意を決したように目を開く。いつもの鋭さはない、星明りでも翠鈴の瞳が揺れているのが分かる。
「皇后陛下からこちらを拝受しました」
開いた翠鈴のてのひらに載っていたのは円形の翡翠だった。
しっとりと潤んだように夜の微かな光を閉じこめた翡翠には、龍のような紋様が彫られている。
「土牛か」
外側に曲がった角で、光柳はそれを龍ではなく土牛であると判断した。
「義兄の画策か。私にではなく翠鈴に託すとは」
「陛下から皇后陛下、そしてわたしから光柳さまに届くようにとお考えなのでしょう」
翠鈴は心底困っているという風に眉を下げた。察した雲嵐が、提げ灯籠の位置をずらす。翠鈴の顔を照らさぬために。
「皇后娘娘から下賜されたものを、翠鈴がつき返せるはずもない。私もだ」
皇帝、劉傑倫にとって、光柳は今でもどこか頼りない弟として見えているようだ。不本意ではあるが、兄に心配されるのが弟という立場なのだろう。
「翠鈴。いつ佩玉をもらったんだ?」
「ひと月ほど前です」
「そうか……一人で抱え込むには長い期間だな」
光柳は紐を手に取った。見た目よりもずっしりとした翡翠の重さを感じる。
「これはもうありがたく頂戴するしかないな。義兄の善意なのだから」
翠鈴の表情が明るくなった。
ひと月の間に顔を合わせることもあったのに。光柳に相談することができなかった。それは光柳の問題だ。きっと佩玉を突っぱねるだろうと、翠鈴は悩んだに違いない。
翠鈴に安心を与えれなかった己を、不甲斐なく思った。
「私は自分で思っているほどに大人ではなかったのだな」
冷たく滑らかな翡翠を光柳は握りしめた。
「翠鈴。不眠はもう終わりだ」
「あの、それはどういう」
「今後、この斗牛の佩玉は私が預かろう。これまで緊張し続けていたのだな、朝も昼も夜も。気づいてやれなくて済まない」
翠鈴の目が輝いた。まるで夜空の星を宿したかのように。翠鈴の表情が和らいで、緊張が解けていくのが分かった。
(ああ、私は彼女のこんな表情が見たかったんだ)
光柳が翠鈴の笑顔が見たいように、義兄もまた光柳の笑顔が見たいのだろう。
将来を誓いあった仲であれ、兄弟であれ。相手を愛しく思う気持ちに違いはない。
「そうだ。代わりといっては何だが。これを蘭淑妃からもらったんだ」
光柳が袂から布の包みを取りだす。中には、一握りほどの茶葉が入っている。
「私はもう味わった。それに翠鈴の方が喜ぶだろうと思ってな」
「開いてもいいですか?」と問うた翠鈴は、光柳の返事を待つ前に包みを解いた。
茶葉に顔を近づけて、香りを吸いこんでいる。
きらきらを宿した瞳が、さらに輝きを増す。
「もしかして古樹白茶ですか。うわ、うわぁ。なんていい香り」
翠鈴は早口でまくし立てた。
「あの、ですね。標高が高い場所で育ち、百年を越した老木になると、茶葉の成長はとてもゆっくりになるんです。一番茶を摘むのは四月なのですが。古樹となると低地では二番茶の時期に、新茶となるんです」
成長が遅いことで、茶葉の栄養は高くなる。さらに後味が濃く、香りの余韻がいつまでも残る。
新茶を摘む時期は遅ければ遅いほどいい。夏至に古樹白茶がふるまわれるということは、この茶葉は六月に摘まれたものではないか?
翠鈴の話は止まらない。
こんなにも生き生きとした翠鈴を見るのは、久しぶりに思える。
光柳だけでなく、雲嵐もなぜか表情を和らげている。
「ああ、すみません。熱くなってしまいました」
突然我に返った翠鈴が謝った。夢中で語ってしまったことがよほど恥ずかしいのだろう。
珍しく頰に手を添えてうつむいた。
(私にはよく分からぬが。こんな風に熱心に語ってもらえる茶葉が羨ましいな)
おそらく蘭淑妃は翠鈴の分の茶葉を取り分けていることだろう。
光柳は身分は低くとも、出自の高さから公的なお茶会に招かれる。だが宮女である翠鈴は参加できない。
(大丈夫だ。きっと梅娜が丁寧に淹れたお茶をふるまってくれるさ)
近いうちに翠鈴は、蘭淑妃や桃莉公主の私的なお茶の時間に呼ばれることだろう。
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