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十一章 蓖麻子《ひまし》
9、油条がほしい
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光柳と反橋で会った夜、翠鈴は久しぶりに熟睡できた。
懐が軽い。佩玉自体の重さだけではなく、皇帝から皇后へ、そして自分へと託された重みを光柳が引き受けてくれた。
その安心感と古樹白茶の茶葉を枕元に置いたことが、翠鈴を快適な眠りに導いた。
夜半に降りはじめた雨が宿舎の屋根を叩いても、目を覚まさない。それは久しぶりのことだった。
「えぇ? 雷も鳴ってたよ? 気づかなかったの?」
早朝の消灯を終えた由由に、翠鈴は呆れられてしまった。もう雨はやんでいるが。二人並んで食堂へと向かう道の敷石は、今も湿っている。
「気づかないっていいよね」
翠鈴は両腕を上げて背筋を伸ばした。
「呑気だなぁ、翠鈴は。あたしなんて、蓖麻子油が未だに怖くって。回廊や門の灯を消す時でも、残った油がこぼれたらどうしようって緊張するのに」
「いや。毒があるのは蓖麻子油じゃなくって、搾った後のカスなんだけど」
何度説明しても、由由は蓖麻子油を怖がっている。
(これは他の司燈の宮女も一緒だろうな)
油を作る過程で、種の皮は完全に取り除かれる。それに蓖麻毒素は熱に弱い。蓖麻子油を精製する際に加熱するので、毒は分解されてしまう。
(まぁ。いくら無毒になったと分かっていても、元が猛毒であるなら怖いのはしょうがないよね)
蓖麻子油に関しては警戒しすぎかなと思うが。まったく警戒心がない方が危険かもしれない。
蓖麻と呼ばれる唐胡麻は、どこにでも生えているのだから。
「由由、蓖麻子油は大丈夫だけど。赤い茎で、棘のある実が蓖麻だから。加熱しないと無毒にならないから。見かけても触れないでね」
「え、こわっ」
由由は翠鈴に身をぴったりと寄せた。非常に歩きにくい。なのに由由はさらに翠鈴の左半身に寄りかかってくる。
よろよろ――道を外れていく二人に「何やってるの?」と、数人の宮女が呆れて声をかけた。他の宮に勤める司燈だ。
「翠鈴の側にいたら安心なのよ」
「それにしても、翠鈴にべったりしすぎでしょ」
軽やかに笑いながら、宮女たちは由由を追い越していく。
「なんて気楽なの? いざとなっても翠鈴を貸してあげないんだからね」
(貸すって、物じゃないんだけどな、わたしは)
やれやれと翠鈴は肩をすくめた。
食堂の中は、むわっとした熱気がこもっていた。鍋の湯気だけではなく、どうやら女官や宮女が集まって騒いでいるのが原因のようだ。
「なんで油条がないの?」
「鹹豆奬なら粥よりも油条がいいのに。作ってよ」
朝食を受けとりながら女性たちが口々に文句を言う。調理場からは「しょうがないだろ。ないものはないんだ」と喧嘩腰の声が聞こえた。
「えー、油条ないんだぁ」と、由由も残念そうに眉を下げる。
「おかしいわね」
みっしりと密集している女性たちの背中を眺めながら、翠鈴は首を傾げた。
「わかった。菜種油が取れなくて、蓖麻子油を使っているのと同じなんじゃないの? ほら、長雨が原因とか」
「そうも考えられるんだけど――」
由由の推測は一見正しく聞こえる。けれどそれだけではない気がする。
女官や宮女の文句が溢れる中、翠鈴は朝食を受け取る列に並んだ。
「粥はあるのにね? なんで小麦だけないんだろ」と、由由が翠鈴を見上げる。
「粥はお米だから。麦とは収穫時期も穫れる地域も違うし、問題ないと思うわ」
「ふぅん」と由由は納得した。だが、理解はしていても許容はしづらいようだ。
「油条って一本もないの?」と、厨房の宮女に尋ねている。
(でも妙だわ。菜種は栽培している地域が限られるから、菜種油が品薄になるのは分かるけど。麦は新杷国の南部以外で広く栽培されているのに。ここは王都だし、まったく入ってこないことってあるのかな)
湯気の立つ粥と鹹豆醤を翠鈴は受けとった。搾菜や葱を散らし、酢で固めた温かな豆乳が鹹豆奬だ。
確かに粥と鹹豆奬は、どちらも歯を使う必要がないほど柔らかい。
さくさくした油条も、結局は鹹豆奬にひたして柔らかくするのだが。それでも食感は残る。
(夏至の前の収穫時期に、長雨が続いた地域が広大だとして。同時に別地域では赤黴病や錆病が大量発生して、小麦の実りである稔実が悪くなった、とか)
麦の穂に発生する赤黴病と、葉に発生する錆病。どちらも麦の穂数や実の数が減ってしまう。
けれどそういう話は聞かない。そもそも一介の宮女には、どうにもできないことだ。
席に着いた翠鈴は、匙で鹹豆奬をすくった。
小麦がないと薄い餅もさくさくした酥も、ふっくら蒸しあげた饅頭も、あまい糕も食べられない。麵だって小麦でできている。餃子の皮だって小麦を練ったものだ。
家庭だけではなく、店でも小麦は大量に消費する。
新杷国は米よりも小麦の需要が上回っている。
どちらも液体のような粥と鹹豆奬では、飢えることはなくとも空腹は治まらない気がした。
懐が軽い。佩玉自体の重さだけではなく、皇帝から皇后へ、そして自分へと託された重みを光柳が引き受けてくれた。
その安心感と古樹白茶の茶葉を枕元に置いたことが、翠鈴を快適な眠りに導いた。
夜半に降りはじめた雨が宿舎の屋根を叩いても、目を覚まさない。それは久しぶりのことだった。
「えぇ? 雷も鳴ってたよ? 気づかなかったの?」
早朝の消灯を終えた由由に、翠鈴は呆れられてしまった。もう雨はやんでいるが。二人並んで食堂へと向かう道の敷石は、今も湿っている。
「気づかないっていいよね」
翠鈴は両腕を上げて背筋を伸ばした。
「呑気だなぁ、翠鈴は。あたしなんて、蓖麻子油が未だに怖くって。回廊や門の灯を消す時でも、残った油がこぼれたらどうしようって緊張するのに」
「いや。毒があるのは蓖麻子油じゃなくって、搾った後のカスなんだけど」
何度説明しても、由由は蓖麻子油を怖がっている。
(これは他の司燈の宮女も一緒だろうな)
油を作る過程で、種の皮は完全に取り除かれる。それに蓖麻毒素は熱に弱い。蓖麻子油を精製する際に加熱するので、毒は分解されてしまう。
(まぁ。いくら無毒になったと分かっていても、元が猛毒であるなら怖いのはしょうがないよね)
蓖麻子油に関しては警戒しすぎかなと思うが。まったく警戒心がない方が危険かもしれない。
蓖麻と呼ばれる唐胡麻は、どこにでも生えているのだから。
「由由、蓖麻子油は大丈夫だけど。赤い茎で、棘のある実が蓖麻だから。加熱しないと無毒にならないから。見かけても触れないでね」
「え、こわっ」
由由は翠鈴に身をぴったりと寄せた。非常に歩きにくい。なのに由由はさらに翠鈴の左半身に寄りかかってくる。
よろよろ――道を外れていく二人に「何やってるの?」と、数人の宮女が呆れて声をかけた。他の宮に勤める司燈だ。
「翠鈴の側にいたら安心なのよ」
「それにしても、翠鈴にべったりしすぎでしょ」
軽やかに笑いながら、宮女たちは由由を追い越していく。
「なんて気楽なの? いざとなっても翠鈴を貸してあげないんだからね」
(貸すって、物じゃないんだけどな、わたしは)
やれやれと翠鈴は肩をすくめた。
食堂の中は、むわっとした熱気がこもっていた。鍋の湯気だけではなく、どうやら女官や宮女が集まって騒いでいるのが原因のようだ。
「なんで油条がないの?」
「鹹豆奬なら粥よりも油条がいいのに。作ってよ」
朝食を受けとりながら女性たちが口々に文句を言う。調理場からは「しょうがないだろ。ないものはないんだ」と喧嘩腰の声が聞こえた。
「えー、油条ないんだぁ」と、由由も残念そうに眉を下げる。
「おかしいわね」
みっしりと密集している女性たちの背中を眺めながら、翠鈴は首を傾げた。
「わかった。菜種油が取れなくて、蓖麻子油を使っているのと同じなんじゃないの? ほら、長雨が原因とか」
「そうも考えられるんだけど――」
由由の推測は一見正しく聞こえる。けれどそれだけではない気がする。
女官や宮女の文句が溢れる中、翠鈴は朝食を受け取る列に並んだ。
「粥はあるのにね? なんで小麦だけないんだろ」と、由由が翠鈴を見上げる。
「粥はお米だから。麦とは収穫時期も穫れる地域も違うし、問題ないと思うわ」
「ふぅん」と由由は納得した。だが、理解はしていても許容はしづらいようだ。
「油条って一本もないの?」と、厨房の宮女に尋ねている。
(でも妙だわ。菜種は栽培している地域が限られるから、菜種油が品薄になるのは分かるけど。麦は新杷国の南部以外で広く栽培されているのに。ここは王都だし、まったく入ってこないことってあるのかな)
湯気の立つ粥と鹹豆醤を翠鈴は受けとった。搾菜や葱を散らし、酢で固めた温かな豆乳が鹹豆奬だ。
確かに粥と鹹豆奬は、どちらも歯を使う必要がないほど柔らかい。
さくさくした油条も、結局は鹹豆奬にひたして柔らかくするのだが。それでも食感は残る。
(夏至の前の収穫時期に、長雨が続いた地域が広大だとして。同時に別地域では赤黴病や錆病が大量発生して、小麦の実りである稔実が悪くなった、とか)
麦の穂に発生する赤黴病と、葉に発生する錆病。どちらも麦の穂数や実の数が減ってしまう。
けれどそういう話は聞かない。そもそも一介の宮女には、どうにもできないことだ。
席に着いた翠鈴は、匙で鹹豆奬をすくった。
小麦がないと薄い餅もさくさくした酥も、ふっくら蒸しあげた饅頭も、あまい糕も食べられない。麵だって小麦でできている。餃子の皮だって小麦を練ったものだ。
家庭だけではなく、店でも小麦は大量に消費する。
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