後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

10、倒れていた宮女

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 何となく物足りない朝食を終えた翠鈴と由由は、食堂を出た。
 食堂の前には、一足先に外に出ていたはずの宮女や女官が集まっている。さっきまで油条はないのかと騒いでいた人たちだ。

「どうしたのかしら」
「あ、分かった油条ヨウティヤオを売ってるんじゃない?」

 明るい声で由由は言うが。そんな気軽な雰囲気ではない。翠鈴は眉根を寄せて足を速めた。

「大丈夫? しっかりして、鳩児ジウアー
「起き上がれる?」
「でも返事がないわ」

 明らかに人が倒れている。だが、どう対処していいのか誰も分からないようだ。

「通してもらえる?」

 翠鈴は人垣を分けて、前に進んだ。翠鈴が「女炎帝」と呼ばれる夜更けの薬売りであることを知っている者も多いのだろう。左右に人が分かれて、翠鈴を通す。
「よかったわ。診てあげて」「これで大丈夫ね」と、ほっとした声が左右から聞こえた。

 だが、倒れている者に近づいた時。翠鈴の肩にぶつかった男がいた。
 宦官だ、若くはない。眉間に縦皺が刻まれた、険しい顔つきをしている。女性たちを突き飛ばす勢いで、その宦官は人だかりから去っていった。

「誰か、医者か医官を呼んできて。担架も用意してもらって」

 翠鈴は、倒れている宮女の側にしゃがんだ。つい先日、翠鈴に蓖麻ひまのことを尋ねてきた卓鳩児ズオジウアーだ。同じ司燈で女官ではなく、宮女という立場も同じ。
 地面に横たわる鳩児の顔は土気色だ。そこまで暑いわけではないのに、ひたいからも頰からも汗が流れている。

(脂汗をかいている。でも指もひたいも冷たい)

 翠鈴は鳩児の体に触れた。次に下瞼をめくる。予想通り、瞼の裏は白い。

「お、おえぇっ。おえぇぇぇ」

 鳩児は何度もえづいた。だが、嘔吐はしない。それでも気道の確保のために、翠鈴は鳩児を横向きで寝かせた。

「貧血だと思うわ。足を上げた方が楽になるから。敷くものを食堂から借りてきてもらってもいいかしら」
「敷くものって?」

 由由が不安そうに問いかける。何でもいいのだが、とっさの場合に思いつかないのもしょうがない。

「そうね。根菜を包んでいるむしろとかでもいいわ。丸めれば高さがあるから」
「わかった。筵ね」

 うなずいた由由は「ちょっと通して」と声を上げながら、人混みの向こうへと消えた。
 苦しそうに呻いている鳩児の胸もとを緩める。それから裙の胴の部分の紐もほどく。こうすることで呼吸がしやすくなり、弱い脈を強くすることができる。

 ふと、翠鈴は地面に落ちている豆に気づいた。どうやら握りしめた鳩児の手からこぼれてるらしい。
 翠鈴は豆を指でつまんだ。淡い褐色の豆に赤紫の斑紋が入っている。

「うずら豆、よね」

 豆は種子だ。そして種子にはヘソがある。くぼんだ部分から発芽するのだ。
 翠鈴はうずら豆のヘソの場所を確認した。側面についている。問題ない。

「くる……し、暑い」

 鳩児が呻きながら、手を伸ばす。バラバラと手の中に残ったうずら豆が地面を叩く。

「大丈夫よ。深呼吸をして。すぐにお医者さまか医官が来てくれるわ」

 体は冷えきっているのに、暑いと訴える。これは血の気が失せているからだ。おそらく次は寒さを訴えることだろう。
 貧血にも種類はあるが、脳への血流が滞った場合に失神を起こしたり体温調整がうまくいかない、吐き気を催すことがある。今回のはおそらく脳の血流不足かもしれない。

(見たところ出血はないけど。でも、それは表から見える箇所だけだし。体の内側、内臓などの出血はわたしでは確認できないわ)

 翠鈴の心配した通り、鳩児はガクガクと震えだした。

「寒い……寒い」
「もう少しよ。頑張りましょうね」

 懐から手帕ハンカチを取りだして、翠鈴は鳩児の汗を拭ってあげた。

「月の障りは?」

 他の者に聞こえぬように、翠鈴は苦しそうに顔をしかめる鳩児に問うた。鳩児は朦朧としながらも、かすかに首を振る。

「あったよー、翠鈴」

 息を切らしながら、由由が筵を抱えて戻ってきた。周囲の人たちも、さすがに傍観者ではいけないと気づいたのだろう。翠鈴に「どうしたらいい?」「手伝えることある?」と口々に尋ねてきた。
 野次馬で見ているだけの冷たい人たちではない。何をすればいいのか、どう動けばいいのか指示がないと分からないのだ。

 そこからの翠鈴の指示は速かった。

「筵を巻いて、足の下に入れてあげて。足を頭よりも高くすれば楽になるわ。水分不足も貧血の原因になるから。水を汲んできて」

「わかったわ」と返事をした女性が、食堂へと駆けていく。
 体内で出血がある場合は、かなりの重症なので。医者の診断に任せるしかない。
 女官や宮女が鳩児を介抱する横で、翠鈴は地面に落ちたうずら豆を拾い集めた。
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