後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

12、守ってみせる

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 床を転がるうずら豆を拾うこともせず、鳩児ジウアーはただ立ちつくしている。
 卒倒でもしそうに顔が青い。
 この人はちゃんと食事をとっているのだろうか? 翠鈴は眉根を寄せて鳩児を見据えた。

 廊下を行き過ぎる宮女たちが、何事かと立ちどまっては去っていく。

「あんなにも握りしめていたから、大事な物かと思ったんだけど」
「いえ。あ、その、大事は大事だけど」

 まるで舌がもつれたかのように、鳩児の言葉はたどたどしい。

「いらないなら、わたしが捨てておきましょうか?」

 カマをかけるつもりで、翠鈴はうずら豆を拾おうとした。

「ダメ! 触らないで。うちだけで充分だから」

 今にも泣きそうな声で、鳩児が叫ぶ。しゃがんだ翠鈴は、うずら豆に伸ばした手を止めた。

「大丈夫。ただのうずら豆よ」
「そう。そう見えるの。見た目が同じなのよ。うちが拾うから」

 翠鈴を止めたのに。鳩児の指は、なかなかうずら豆を摑まない。筋張った細い指は明らかに震えている。
 鳩児の喉が動いた。唾を飲み込んだのだろう。それほどの緊張をもたらすもの――司燈ならば思い当たるものはただ一つ。
 
「問題ないわよ。これ、蓖麻子ひましじゃないから」
「えっ?」

 心底驚いたように、しゃがんだままの鳩児が翠鈴を見据える。
 思ったとおりだ。翠鈴は小さくため息をこぼした。

「ここを見て。窪んでいるでしょう?」

 床に落ちたままのうずら豆を、脅える鳩児に見せる。妃嬪の宮と違い、宿舎の廊下に灯籠はない。鳩児の手持ちの油灯ヨウトウの明かりがゆらめいているだけだ。

「うずら豆のヘソは側面についているのよ。だからこれはうずら豆。触れても食べても問題ないわ」
「そ、そうね」
「蓖麻子は平たい部分にヘソがあるの。知らなかった?」

 びくり、と鳩児の肩が動いた。
 部屋の中に入る由由に聞こえぬように、翠鈴は鳩児に体を寄せる。
 洗濯もまともにできていないのだろう。鳩児からは垢じみた匂いがした。

「そんなに悩まなくてもいいのよ。誰の暗殺を、誰から命じられたの?」

 鳩児が油灯を落としかけた。すんでのところで、翠鈴は油灯を受けとめた。油がこぼれなくてよかった。火事なんて起こったら大変なことになる。

「あなたには向いていないわ。蓖麻子の利用目的を当てられたくらいで動揺したり。夜も眠れず食事もとれず、貧血で倒れるくらい繊細なのだから」
「あ……あっ」

 大きく見開かれた鳩児の目が潤んだ。ぼろぼろと涙の粒がこぼれ落ちる。
 きっと声を上げて泣きたいのだろう。だが、ここは宿舎で人も多い。鳩児は声を殺して涙を流し続けた。

「だ、誰でも、よかったんです」
「無差別ってこと? 何の意味があるの?」
「違うんです。翠鈴さんの親しい人なら誰でも……そう命じられて」

 今にも消えそうなほどに頼りない泣き声なのに。話している内容は、あまりにも物騒だ。

 翠鈴の背筋を悪寒が走った。
 これがもし本物の蓖麻子であれば。鳩児のように気の弱い女性でなければ。周囲の誰かが殺されていた。それほどに蓖麻子は猛毒だ。
 なのに普通に生えている。もしくは赤い茎や枝、大きな葉に鮮やかな赤い実が美しいからと観賞用に植えることもある。

「誰かに蓖麻子を食べさせられたら、長患いしている母ちゃんの病気を治してくれるって。薬をあげるって、そう言われて。それでうちは」
「お母さんを救うために、誰かの命を奪うつもりだったのね」

 さすがに鳩児を慰める気にはなれない。そこまで翠鈴はお人好しにはなれない。
 今回はたまたま鳩児には荷が重く、実行に移せなかっただけだ。しかも蓖麻子とうずら豆の見分けがつかなかっただけ。

「あなたはそんなにも気が弱そうなのに。人殺しをしても平気なのね」
「いいえ、平気だなんて」
「殺人をすれば薬をやる――そんな足下を見られた取り引きに応じるなんて。わたしの周囲の人間を殺せと言うのなら、わたしを脅す目的よね」

 水底の澱みのように沈鬱な重さに、頭が痛くなる。

 ――よかった。君が無事で……。

 姉の仇である、石真シーチェンに幽閉された翠鈴を救ってくれた光柳の姿を思い出す。濡れた月光を浴びながら、光柳は翠鈴を抱きしめた。
 復讐のために孤独に闘っていた翠鈴の傍に、常にいてくれる人。

 ――手伝いに参りました。

 一人で風呂の水を運び、湯を沸かさなければならなかった翠鈴の前に颯爽と現れ、手助けしてくれた雲嵐の声が。
 大好きだと懐いてくれる桃莉公主が、優しい蘭淑妃が、医官の胡玲や同室の由由が。

 誰か一人が狙われるだけでも、翠鈴には耐えられるはずがない。

「すべての罪はあなたが犯したことになるわ。大理寺に捕らえられて、死罪となる。勿論、病気のお母さんを救うこともできずに。一族が殺人の汚名を着せられるのよ」

 荒れそうになる感情を押し殺して、翠鈴は説明した。
 鳩児の顔色は、血の気が失せて真っ白だ。

 ふだんの翠鈴なら、鳩児の母親の病状を訊くことだろう。薬が高額で買えずとも、症状を和らげる薬草を教えることもできる。
 けれど今は無理だ。
 かけがえのない大事な人たちの命を狙われて、鳩児に親切にすることなどできるはずがない。そこまでお人好しにはなれない。

 そして鳩児の弱みを利用する卑怯者への憎しみが、腹の底から込みあげてきた。
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