後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

13、月季の花

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 翠鈴は宮灯を磨きながら、考え事をしていた。曇りがちの天気で室内はうす暗いので、回廊に宮灯を運んでいる。
 庭の緑は濃いが、薄紅うすくれない月季こうしんばらの愛らしい花はくすんで見える。

 卓鳩児ズオジウアーを利用した犯人は、翠鈴の周囲を狙った。翠鈴を脅して従わせるためだ。
 だが猛毒の蓖麻子ひましと偽って、鳩児に持たせたのはただのうずら豆。
 蓖麻子とうずら豆がよく似ていると知っているのは、毒に詳しい人間だけだろう。
 普通の人はうずら豆と蓖麻子の違いなど教えられることもない。

(いったい誰が)

 誰かに憎まれる覚えはない、とは言い切れない。翠鈴は毒に関する事件にいくつか関わっているのだから。

(姉を自死に追いやった石真シーチェン。処刑されたあいつの遺族が私を狙っている? いや、それは考えにくい。宦官は実家とは縁を切っていることが多いし、桃莉公主を狙った石真の仇を討つことはないだろう)

「翠鈴、どうかしたのか?」

 急に声をかけられて、翠鈴は驚いて顔を上げた。
 何ということか。伸ばされた指が、翠鈴の眉間をぐりぐりと突いている。ふわりと白檀びゃくだんの香りが鼻をかすめた。 

「あの、光柳さま。何をなさっておいでですか?」

 確認しなくても分かる。こんな不躾なことをするのは光柳以外にいない。

「眉根が寄って、眉間にしわが刻まれている。美を損なうのはよろしくなかろう? なぁ、雲嵐」
「美醜の問題よりも、顔の横じわは笑いじわでよいものですが、縦じわは悩みの証とは言いますね」

 光柳と雲嵐が揃って、回廊に立っている。
 普段なら人が近づいてくる足音にも敏感なのに。かなり自分は思い悩んでいたのだろうと翠鈴は実感した。

「蘭淑妃さまにご用でいらっしゃいますか?」
「皇后陛下にお会いすると伺っているのでな。同行させてもらおうかと思ったのだ」

 なぜか光柳は回廊の壁に目を向けた。そこにまどがあるわけでもない、ただの壁だ。

(あー、お生まれになった皇子殿下を拝謁なさるのに、ご自分だけでは行きづらいのかな)

 光柳の心中を翠鈴は察したが、不粋なことは口にはしない。翠鈴だって皇后陛下にお会いするのは緊張する。いや、緊張を越えた緊張の極みだ。
 何を言いたいのか自分でも分からないが、それほどに皇帝や皇后は雲の上の人なのだ。未だに尊顔を拝するのも恐れ多い。

 光柳はどちらかといえば、めんど……。そう思った翠鈴は首を振った。考えなくてもいいことだ。

「翠鈴は寿華宮じゅかきゅうには行かぬのか?」
「侍女頭の梅娜メイナーさまなら、蘭淑妃さまにご一緒なさるでしょうが。わたしがついていく理由がありません」
「なんだ……来ないのか」

 急に光柳の声が低くなった。まるで垂れこめた鈍色にびいろの雲のように。

「そんな寂しいことを言わなくても良いではないか」

 もし光柳に犬のような耳と尻尾がついていたなら、どちらもしゅんと垂れているだろう。それほどに分かりやすく光柳は萎れた。
 花ざかりの月季こうしんばらが、意気消沈した光柳を慰めているかのようだ。

 隣に立つ雲嵐が「あまり無理を言っては、翠鈴が困りますよ。彼女は仕事中なんですから」と主をたしなめる。

 なんだろう、この気持ち。
 自分のせいで光柳をとても不憫な目に遭わせているように感じてしまう。
 いやいや、蘭淑妃が翠鈴を同行させると言っていないのに、まさか自分が寿華宮に行けるはずがない。

「あ、クァンリュウとユィンランだ」

 桃莉公主が回廊に出てきた。曇天の下でも華やいで見える、薄桃色の襦裙じゅくんをまとっている。髪には緞帯リボンではなく、蝶の飾りのついた簪を挿してある。

「今日のお衣装も素敵ですね。よくお似合いです」
「ほんと、ツイリン? タオリィかわいい?」

 桃莉は、翠鈴の前でくるりと回った。絹の裙がひらりと風を受けて広がる。蝶もまるで舞っているかのようだ。

「ええ、とっても。いつも可愛くていらっしゃいますが。今日はお姉さんっぽいですね」
「へへ、わかる? あのね、ジエホアおねえさまにあいにいくんだよ」

 照れながらも、桃莉公主は嬉しさを隠せないようだ。自然に笑みがこぼれている。

潔華ジエホアさまは皇子殿下にお会いするために、寿華宮を訪れていらっしゃるんですね」

 潔華は実際は施潔士シージエシィーという男の子なのだが。後宮に入るために女の子に扮して、叔母の皇后の元を何度か訪れている。
 桃莉の友人であり、陛下に内緒の婚約者であり、憧れのお姉さまだ。

 桃莉公主は初めての陛下に生まれた子供なので、幼くして公主の位を贈られているが。本来は最高位の官職である三公たちによって、十歳以降に冊封さくほうされる。

「桃莉公主。光柳からお願いがございます」

 丁重に揖礼ゆうれいをした光柳が、桃莉に声をかける。

「なぁに? タオリィにできること?」

 先ほどお姉さん扱いされた桃莉は胸を張った。

「はい。桃莉さまにしかできないことです。翠鈴に『一緒に行こう』とお誘いください」

 いや、子供にお願いさせるのは反則では?
 呆れた翠鈴と反対に、大人に頼られた桃莉は得意げにあごを上げた。
 まーかせて、とでも言いたそうに。

 嫌な予感がする。翠鈴は三人に背を向けて、せっせと宮灯磨きを再開した。
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