後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

14、未央宮の評価

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「ねぇねぇ、ツイリン。いっしょにおでかけしよ?」
「いえ、たとえ桃莉さまのお誘いとはいえ、用もなく宮女が皇后陛下のいらっしゃる宮には参れません」

 以前は妊娠中の皇后陛下の体調が思わしくないので、寿華宮に赴いていたが。今の翠鈴には薬師としての用事はない。
 桃莉が顔を覗きこんでくるので、しゃがんだ状態の翠鈴は顔を逸らした。

「だめなんだって。クァンリュウ」

 あっさりと諦めた桃莉が、光柳に報告する。だが光柳も、そう簡単には引き下がらない。
「翠鈴の目をじーっと見つめてお願いすれば、きっと大丈夫です」と指示を出す。
 さらに光柳は、隣に立つ雲嵐の身体を肘でつついている。

「桃莉さま。もう一押しです」

 雲嵐は、やれやれと肩をすくめながら主の思惑を読み取り、言葉を添えた。
 桃莉は言われるままに、翠鈴の目の前にしゃがみこんだ。
 これはいけない。上目遣いで「おねがい」されたら、断るのも心苦しい。

(いや、大丈夫。蘭淑妃の命令なら従わざるを得ないけど。桃莉さまだけなら断ることは可能……胸が痛むけど)

 回廊を侍女たちが通り過ぎていく。光柳と雲嵐をちらちら見ては頰を緩ませ、床にしゃがみこんだ桃莉と翠鈴を見てはぎょっとした顔をする。

「あら、翠鈴。ちょうどいいところにいたわ」

 蘭淑妃のことを考えていたのがいけなかったのだろう。当の本人が軽やかに手を上げて回廊を進んできた。
 庭の月季こうしんばらの花がふわっと風に乗って散った。
 蘭淑妃はにこやかなのだが、とっても嫌な予感がする。

「これから光柳たちと一緒に、寿華宮に行くのよ。翠鈴も一緒に行きましょう」
「いえ、わたしは仕事がありますので」

 翠鈴は次の宮灯を手に取った。これはまだ命令じゃない、お誘いだ。

「おかあさま。ツイリンね、いそがしいんだって」
「そうは見えないけれど」

 まとわりついてくる桃莉の手を握って、蘭淑妃は思案するように小首を傾げた。

「そうねぇ。じゃあ翠鈴、あなたも寿華宮にいらっしゃい」

 う……っ、これは命令だ。翠鈴は諦めて「はい」と小声で応じた。
 皇后陛下にお会いするのは、非常に緊張を伴う。しかも皇帝陛下からの佩玉はいぎょくを賜り、さらに「皇后娘娘ファンホウニャンニャン」と呼ぶようにと仰せつかった。

 歴代の皇后にとって「皇后娘娘」という敬称は、当たり前のものだったが。暁慶シャオチン皇后陛下は、その敬称を蘭淑妃にだけお許しになっていた。
 並みいる妃嬪をすっ飛ばして、翠鈴が「皇后娘娘」の呼称を使うのは、たいそう名誉なことではあるが。恐れ多くて気が引ける。

 ◇◇◇

 皇后陛下と生まれて間もない殿下が暮らす寿華宮は、空気がぴんと張りつめている。のどかな未央宮とはずいぶん違う。
 翠鈴は背筋を伸ばした。隣に立つ侍女頭の梅娜メイナーもつられたのか、姿勢を正している。

「何度来ても慣れないわね」

 梅娜が、こそっと翠鈴に囁いた。

 鈍色の空の下でも、寿華宮の壮麗な瓦屋根は磨きあげたように艶やかだ。
 蘭淑妃や翠鈴が入る門は後宮内にあるが、反対側の門は内廷につながっている。内廷は皇帝の暮らす宮がある場所だ。もっとも蘭淑妃は内廷には出られない。出入りが自由な女性は皇后だけだ。

「あるくのつかれちゃった」

 翠鈴と手をつないでいた桃莉が、翠鈴を見上げてくる。無理もない。寿華宮は門を入ってからも、高い壁に挟まれた通りが長く続いているのだから。

「桃莉さまには遠い距離ですから。よく頑張ってお歩きになりましたね」
「あのね、ツイリンはタオリィをだっこしてもいいんだよ?」

 もじもじと桃莉は体を動かした。
 だ、だめだ。桃莉さまが愛らしいからおねだりに負けてしまいそうだ。だが、翠鈴は心を鬼にして断った。

 寿華宮の小路の奥では人の気配がする。他の妃嬪の宮と違い、皇后の暮らす寿華宮では侍女のみならず宦官も暮らしている。人目が多いので、幼くして公主の位を賜っている桃莉は常に見られていると考えた方がいい。

「桃莉さまは、まだ赤ちゃんだと思われてはお困りでしょう? ご自分で歩くべきですね」と、光柳は腰を落として桃莉の背中を押した。

「こまらないよ?」と、桃莉は平然と言ってのけた。蘭淑妃も侍女頭の梅娜も、何とか桃莉を自力で歩かせようとするが、一度抱っこをしてもらおうと決めた桃莉の気持ちを変えさせるのは困難だ。

「困ったわねぇ。かといって、本当に翠鈴や雲嵐に桃莉を抱っこして運んでもらう訳にもいかないし」
「……蘭淑妃さま、どうして私のことを抜かすのですか?」

 光柳の不満そうな問いを、蘭淑妃は軽く無視する。
 筆や墨、あるいは箸くらいしか持たない光柳に、幼子とはいえそれなりに重さのある桃莉を抱えて歩くのは無理だと誰もが分かっているのだ。

 そうだ。翠鈴は思いついた。甘えを凌駕するほどの自尊心を刺激すればいいのだ――

「桃莉さま。今日は潔華ジエホアさまに会いにいらしたんですよね」

「うん」と、桃莉がうなずいた。ちょっと誇らしげに。
 これはいける。潔華のことを女の子と信じて疑わない桃莉にとって、親愛なるお姉さまにはいいところを見せたいはずだ。

「では桃莉さまが抱っこされているところを、潔華さまがご覧になったらどう思われるでしょう。『桃莉公主は小さい子供ですね』と思われませんか? 抱っこされていてはご挨拶もできないでしょう?」
「お、おもわれる、かも」

 桃莉の声が小さくなる。よし、やはりこの手は使える。翠鈴はつないでいない方の手を、ぐっと握りしめた。

 蘭淑妃や光柳たちも、翠鈴と桃莉のやりとりを固唾を呑んで見守っている。
 これは桃莉だけのことではない。公主が立派に挨拶できるかどうかは、保護者である蘭淑妃や未央宮全体の評価にも関わってくるのだから。

 言葉としてではなく、全員の醸し出す雰囲気から「桃莉を言いくるめて」「翠鈴、がんばって」と伝わってくる。これは責任重大だ。 

「でも桃莉さまがご挨拶をちゃんとなさったら、潔華さまは感動なさるでしょうね。『さすが桃莉公主は立派ですね』と」
「タオリィ、りっぱ?」

 お、声が弾んだ。翠鈴は微笑んだ。

「うん。タオリィね、じぶんでもりっぱだとおもってたの。ツイリンもそうおもってたのね」

 曇天を吹き飛ばすような明るい笑顔だった。蘭淑妃や梅娜だけでなく光柳と雲嵐まで「はーぁ」と、安堵の息をついた。
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