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十一章 蓖麻子《ひまし》
15、大事にされている
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「皇后娘娘にご挨拶申し上げます」
蘭淑妃は揖礼をとり、ゆっくりと頭を下げた。歩瑶の簪から下がる真珠と金の飾りが幽かな音を奏でた。背後で控える光柳や雲嵐、翠鈴と梅娜も主に倣う。
「皇子殿下の健やかなご成長をお祈り申し上げます」
「一刻ごとに泣きますからね、大変ですよ。昼も夜も関係ありませんから。乳母に任せておけばいいと皆は言いますが。それも心苦しくて、結局わたくしも夜中に起きてしまうんですよ」
確かに皇后は目の下に隈ができているが。それでも嬉しそうだ。
「じきに殿下にも、眠るための体力がおつきになると存じます」
「桃莉もそうでしたか?」と皇后は尋ねた。
「あの子は乳母の抱っこよりも、わたくしに抱き上げられるのを好みました。夜中にどれほど未央宮の庭を散歩したことでしょう」
蘭淑妃は目を細めた。
しんとした月明りの庭を、乳白色の霧がかかる回廊を。侍女たちを起こさぬように、蘭淑妃は歩いたのだろう。桃莉の機嫌がよくなるまで。
人見知りの激しかった桃莉は、赤ん坊の頃も繊細だったに違いない。自分を抱っこしているのが母なのか、それとも別の人なのか判別できていただろう。
だから淑妃という高貴な身分でありながら、桃莉がぐするのを侍女に任せきりにはしなかった。
(淑妃さまは、本当に桃莉さまを大事になさっているのだわ)
桃莉は、潔華と一緒に遊びに出ている。半年ほど前は内気であった桃莉なのに。
子供の成長は本当に早い。それが嬉しくもあり、寂しくもある。母親である蘭淑妃ならば、尚更だろう。
案内された部屋には、椅子が向き合う形で並んでいた。上座に皇后の席、近くには蘭淑妃や光柳の席があり、それぞれの椅子の近くに小さな卓が置いてある。
「梅娜と翠鈴たちにもお茶を振る舞いたかったのですが。さすがにこちらの侍女が給仕をする手前、それも叶いませんからね」
皇后に直に話しかけられて、翠鈴と梅娜は恐縮して体を固くしてしまった。
「私もお茶は遠慮しておきましょう」
光柳は誘われる前に断りを入れた。
「あら、光柳。あなたの席もあるのですよ?」
「恐れながら、私はただの書令史に過ぎませんので」
「つれないことを言わずとも。この間は同席してくれたではありませんか」
身内の気安さが出たのだろう。皇后が一瞬口を尖らせた。普段は決して見せない――おそらくは侍女たちですら知らない表情だろう。
蘭淑妃はそんな皇后の一面を知っているようで、苦笑している。
(皇帝陛下のみならず皇后陛下まで。この人は、本当に愛されているんだなぁ)
もし翠鈴が皇后と同席してお茶を飲めるのであれば、光柳も席に着いたことだろう。
だが、いずれは妻となる翠鈴を前に自分だけがお茶を愉しむのを良しとしない。その心遣いが何というか……多分、嬉しい。
翠鈴は頰が熱くなるのを感じた。
光柳は粋人だが、陶酔した愛の言葉を囁く訳ではない。いや、むしろそんなことをされたら、翠鈴は恥ずかしさのあまり全速力で逃げてしまうだろう。
だが、きっと雲嵐に捕まってしまうに違いない。
翠鈴は足が速い。そして雲嵐はさらに俊足だ。
――翠鈴。我慢してください、光柳さまはあなたに愛の深さをお伝えしたいのです。どうか耳を傾けてください。
そんな風に説得されるに決まっている。さらに「でかした、雲嵐」と労をねぎらう光柳のことも容易に思い浮かべることができる。
「どうかしましたか? 翠鈴」
「え? いえ、何も」
頭の中で繰り広げられる想像を、雲嵐にばれたような気がして翠鈴は慌てて首を振った。
「仕方ありませんね。光柳や翠鈴たちには代わりに土産を持たせましょう」
肩をすくめた皇后は、侍女を呼んだ。
すぐにお茶が用意される。寿華宮の侍女たちは、やはり所作が一段と丁寧で美しい。
竹で作られた茶盤の上に茶壺を置き、蓋を閉めた上から湯を注ぐ。
(蓋碗で淹れないなら、青茶か黒茶かな?)
お茶はその種類によって使う道具が違う。
急須型の茶壺では青茶や黒茶。蓋のついたお碗で淹れるのが緑茶や白茶、黄茶に花茶だ。
少し待ってから、侍女は茶壺から、茶海という大き目の器にお茶を注ぎきった。
この後、飲むための小さな茶杯に分けていく。
ふだんの翠鈴なら「いいなぁ。いい香り。ちゃんと淹れたお茶が飲みたいなぁ」と羨ましく思うところだが。さすがに皇后陛下の御前では、そんな浮ついた気にはなれない。
お茶を給仕する人の中には、あの指の青い侍女はいなかった。天堂教の信者だった侍女だ。
青蓮娘娘と呼ばれる始祖は、今では女神として祀られている。
(青蓮娘娘の教えが悪いわけではない。香草には薬効があるし、それで不調から救われる人もいる)
だが天堂教は、古い時代の教えを更新することがないようだ。香草は時に強い薬となることも、薬は人によっては毒にもなり得ることもある。その点を信者たちは考慮しない。
(今の指導者の勉強不足なのか。あるいは原理を厳格に守ろうとしているのか)
天堂教に詳しくない翠鈴には、そのどちらなのか判断できない。
蘭淑妃は揖礼をとり、ゆっくりと頭を下げた。歩瑶の簪から下がる真珠と金の飾りが幽かな音を奏でた。背後で控える光柳や雲嵐、翠鈴と梅娜も主に倣う。
「皇子殿下の健やかなご成長をお祈り申し上げます」
「一刻ごとに泣きますからね、大変ですよ。昼も夜も関係ありませんから。乳母に任せておけばいいと皆は言いますが。それも心苦しくて、結局わたくしも夜中に起きてしまうんですよ」
確かに皇后は目の下に隈ができているが。それでも嬉しそうだ。
「じきに殿下にも、眠るための体力がおつきになると存じます」
「桃莉もそうでしたか?」と皇后は尋ねた。
「あの子は乳母の抱っこよりも、わたくしに抱き上げられるのを好みました。夜中にどれほど未央宮の庭を散歩したことでしょう」
蘭淑妃は目を細めた。
しんとした月明りの庭を、乳白色の霧がかかる回廊を。侍女たちを起こさぬように、蘭淑妃は歩いたのだろう。桃莉の機嫌がよくなるまで。
人見知りの激しかった桃莉は、赤ん坊の頃も繊細だったに違いない。自分を抱っこしているのが母なのか、それとも別の人なのか判別できていただろう。
だから淑妃という高貴な身分でありながら、桃莉がぐするのを侍女に任せきりにはしなかった。
(淑妃さまは、本当に桃莉さまを大事になさっているのだわ)
桃莉は、潔華と一緒に遊びに出ている。半年ほど前は内気であった桃莉なのに。
子供の成長は本当に早い。それが嬉しくもあり、寂しくもある。母親である蘭淑妃ならば、尚更だろう。
案内された部屋には、椅子が向き合う形で並んでいた。上座に皇后の席、近くには蘭淑妃や光柳の席があり、それぞれの椅子の近くに小さな卓が置いてある。
「梅娜と翠鈴たちにもお茶を振る舞いたかったのですが。さすがにこちらの侍女が給仕をする手前、それも叶いませんからね」
皇后に直に話しかけられて、翠鈴と梅娜は恐縮して体を固くしてしまった。
「私もお茶は遠慮しておきましょう」
光柳は誘われる前に断りを入れた。
「あら、光柳。あなたの席もあるのですよ?」
「恐れながら、私はただの書令史に過ぎませんので」
「つれないことを言わずとも。この間は同席してくれたではありませんか」
身内の気安さが出たのだろう。皇后が一瞬口を尖らせた。普段は決して見せない――おそらくは侍女たちですら知らない表情だろう。
蘭淑妃はそんな皇后の一面を知っているようで、苦笑している。
(皇帝陛下のみならず皇后陛下まで。この人は、本当に愛されているんだなぁ)
もし翠鈴が皇后と同席してお茶を飲めるのであれば、光柳も席に着いたことだろう。
だが、いずれは妻となる翠鈴を前に自分だけがお茶を愉しむのを良しとしない。その心遣いが何というか……多分、嬉しい。
翠鈴は頰が熱くなるのを感じた。
光柳は粋人だが、陶酔した愛の言葉を囁く訳ではない。いや、むしろそんなことをされたら、翠鈴は恥ずかしさのあまり全速力で逃げてしまうだろう。
だが、きっと雲嵐に捕まってしまうに違いない。
翠鈴は足が速い。そして雲嵐はさらに俊足だ。
――翠鈴。我慢してください、光柳さまはあなたに愛の深さをお伝えしたいのです。どうか耳を傾けてください。
そんな風に説得されるに決まっている。さらに「でかした、雲嵐」と労をねぎらう光柳のことも容易に思い浮かべることができる。
「どうかしましたか? 翠鈴」
「え? いえ、何も」
頭の中で繰り広げられる想像を、雲嵐にばれたような気がして翠鈴は慌てて首を振った。
「仕方ありませんね。光柳や翠鈴たちには代わりに土産を持たせましょう」
肩をすくめた皇后は、侍女を呼んだ。
すぐにお茶が用意される。寿華宮の侍女たちは、やはり所作が一段と丁寧で美しい。
竹で作られた茶盤の上に茶壺を置き、蓋を閉めた上から湯を注ぐ。
(蓋碗で淹れないなら、青茶か黒茶かな?)
お茶はその種類によって使う道具が違う。
急須型の茶壺では青茶や黒茶。蓋のついたお碗で淹れるのが緑茶や白茶、黄茶に花茶だ。
少し待ってから、侍女は茶壺から、茶海という大き目の器にお茶を注ぎきった。
この後、飲むための小さな茶杯に分けていく。
ふだんの翠鈴なら「いいなぁ。いい香り。ちゃんと淹れたお茶が飲みたいなぁ」と羨ましく思うところだが。さすがに皇后陛下の御前では、そんな浮ついた気にはなれない。
お茶を給仕する人の中には、あの指の青い侍女はいなかった。天堂教の信者だった侍女だ。
青蓮娘娘と呼ばれる始祖は、今では女神として祀られている。
(青蓮娘娘の教えが悪いわけではない。香草には薬効があるし、それで不調から救われる人もいる)
だが天堂教は、古い時代の教えを更新することがないようだ。香草は時に強い薬となることも、薬は人によっては毒にもなり得ることもある。その点を信者たちは考慮しない。
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