白苑後宮の薬膳女官

絹乃

文字の大きさ
24 / 32
二章

9、星宇の過去【2】

しおりを挟む
 うだるような暑い午後だった。毛皮が密集していて暑さに弱い天雷は木陰で寝そべっていた。傍らには幼い瑞雪が夏草の上に腰を下ろしている。
 風も停滞し、瑞雪はしきりにひたいに浮かぶ汗を拭っていた。草いきれの青い匂いが強く、蝉すらも鳴くのを止めていた。

 庭から離れた母屋が、急に騒々しくなった。瑞雪の母の悲鳴と『大変だ、欣然が!』と叫ぶ父の声が響く。
 これまで聞いたこともない声だ。瑞雪は立ち上がり、目を覚ました天雷も警戒して両耳を立てる。

『瑞雪、瑞雪。どうしたらいいんだろう、叔母さまが』

 兄がつまずいて転びそうになりながらも、瑞雪の元に駆けてきた。

『叔母さまが侍女に毒を盛ったって、それでむち打ちになって瀕死だって……』

 兄は流れる涙を拭うことすらできずに、瑞雪を抱きしめた。
 天雷には、笞打ちも瀕死の意味も分からない。ただ、とてつもなく恐ろしいことが起こって、欣然が危ない目に遭っていることだけは伝わってきた。

『おばさまは、どくはあぶないからさわっちゃダメっていってたよ? おくすりもどくになるから、ダメって』

 立ち上がった瑞雪の膝が、がくがくと震えだす。天雷は尻尾を垂れさせて、瑞雪を見上げた。
 
 その日のうちに、欣然は璠家に戻された。引き車の板の上でぐったりと横たわる欣然は、まるでゴミであった。みすぼらしい麻の衣の背中一面は、赤黒い血で染まっていた。錆びた鉄のような匂いがきつい。それは血の匂いだった。

阿欣アーシン! 阿欣! しっかりして』

 瑞雪の母は、叔母をいつもの愛称で呼んだ。欣然はなんとか手を伸ばそうとしたが、ほんのわずかでも板から指を離すのさえ難儀なようだ。

義姉ねえさん……兄さん、ごめんなさい』

 口の端に血をこびりつかせた欣然が、かろうじて声を発する。

『私、何も、してません。本当に何も……』

 それまで何度訴え続けたことだろう。欣然は自分の無実を繰り返した。
 璠家は薬師の一族だ、瑞雪の母親も幼い頃から璠家で薬について学んできている。まだ幼い兄も瑞雪も、薬の知識は叩きこまれている。
 だからこそ生薬の取り扱いには、誰もが細心の注意を払う。

 相手が気に入らないから毒を盛りました、などあり得ない。薬の量を間違えました。そんな馬鹿なことを璠家の人間はしない、するはずがない。

 人的な間違いは必ずあるものだ。だからこそ璠家の人間は生薬の種類と量を必ず二重三重に確認する。
 璠家で暮らしている間に、天雷はそうした教えを何度も耳にした。

『ええ、ええ。分かりますよ。阿欣アーシンは誰かに嵌められたのです』

 欣然を慰めるためだったのかもしれないが、瑞雪の母親がとっさに出した言葉は真実だ。
 どの妃嬪の侍女が毒を盛られたのか、欣然も璠家の者も教えてもらうことはできなかった。
 毒にあたった侍女が、璠の人間を怖がっているから——と。

 おかしな話ではないか。欣然が犯人であれば、誰が被害者であるか周知のはずなのに。欣然は被害者を知らぬ。力のある者が裏で糸を引いているのではないか。

 背中の傷がようやく癒えた頃、欣然は追い立てられて璠家を出た。
 国外追放。もう二度と岷国の地を踏むことはない旅路だ。それでも死罪にならなかったのは、尚食としての地位を築いていた斉一桐が減刑を願い出てくれたからだ。

 欣然がいなくなってから、幼い瑞雪はずっと手紙を書き続けた。文字が難しくてうまく書けなくても、叔母の身を案じて筆を執った。
 幾月も、幾年も。墨汁で指や手を黒く染めながら。

 高価な紙は使わせてもらえないので、瑞雪はぼろ布から作った麻紙ましに手紙を綴った。紙は床に積み上がり、子猫の姿よりも育った天雷は机に向かう瑞雪の小さな背中を見つめ続けた。

 ——ぼくがおばさまに、とどけてあげればいいんだ。

 夜になると欣然のことが恋しくなるのだろう。瑞雪に抱きしめられた天雷の被毛は、彼女の涙でよく濡れた。

 ——おばさまにおてがみをもっていったら、ルイシュエはわらってくれるかな。

『な、なーぁ』

 だがそう伝えようとしても、天雷の口からは猫の鳴き真似しか出てこない。

 ——きっとひとのことばも、なけるようにならないといけないんだ。

 いや、違う。人の言葉を話す貂は怪しまれる。だったら、どうしたらいいんだろう。
 解決策も分からないまま、天雷は瑞雪の書いた手紙を一枚咥えた。不思議なことに、ふかふかの被毛の中に手紙が入る。驚いた天雷は、次の一枚も毛の中に入れてみた。

 ——はいる! すごい、さすがはぼく。すごいよ。

 あまりの驚きに天雷は、紙窓から差し込む月光に目を輝かせた。

 頰に涙の痕を残しながら眠っている瑞雪に、天雷は顔を寄せた。きっと起きているときに出発を告げたら、瑞雪は「自分も行く」と言い張るだろう。
 それはいけない。欣然のいる南方というのは遥かに遠く、危険な場所だと瑞雪の両親が話していた。

 ——でもぼくはすごいから、いけるんだ。

『ティエンレイ、こっちだよ』

 夢の中で瑞雪は天雷を呼び寄せている。
『なーぁ』と答えると、眠ったままで瑞雪は微笑んだ。
 自分がいれば瑞雪は笑っていられる。でも、心の底では欣然を失った寂しさから逃れられない。

 ——よし、いこう。

 瑞雪が書き続けた手紙と一緒なんだ。だから一人じゃない、大丈夫。
 天雷は何度も振り返りながら、部屋を出て行った。

 月は明るく、夜なのにたなびく雲が白く見えるほどだ。夜露の降りた草を肉球で踏むと、邪魔をされたとばかりにバッタが跳ねた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵
キャラ文芸
唯一の身内である祖母を失った公爵令嬢・ヘレナに持ち上がったのは、元敵国の皇太子・アルフォンスとの縁談。 夫となる人には、愛する女性と皇子がいるという。 いずれ離縁される“お飾りの皇太子妃”――そう冷笑されながら、ヘレナは宮廷という伏魔殿に足を踏み入れる。 冷徹と噂される皇太子とのすれ違い、宮中に渦巻く陰謀、そして胸の奥に残る初恋の記憶。 これは、居場所を持たないお転婆な花嫁が、自ら絆を紡ぎ直し愛と仲間を得て”自分の居場所”を創りあげるまでの、ときに騒がしく、とびきり愛おしい――笑って泣ける、ハッピーエンドのサバイバル譚です。 ※本作は2年前にカクヨム、エブリスタに掲載していた物語『元敵国に嫁いだ皇太子妃は、初恋の彼に想いを馳せる』を大幅に改稿し、別作品として仕上げたものです。 © 花雨宮琵 2025 All Rights Reserved. 無断転載・無断翻訳を固く禁じます。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

王宮地味女官、只者じゃねぇ

宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。 しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!? 王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。 訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ―― さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。 「おら、案内させてもらいますけんの」 その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。 王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」 副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」 ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」 そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」 けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。 王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。 訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る―― これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。 ★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。

【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)
キャラ文芸
宮中の桜が散るころ、梓乃は“帝に媚びた”という濡れ衣を着せられ、都を追われた。 行き先は、誰も訪れぬ〈風花の離宮〉。 けれど梓乃は、静かな時間の中で花を愛で、香を焚き、己の心を見つめなおしていく。 そんなある日、離宮の監察(監視)を命じられた、冷徹な青年・宗雅が現れる。 氷のように無表情な彼に、梓乃はいつも通りの微笑みを向けた。 「茶をお持ちいたしましょう」 それは、春の陽だまりのように柔らかい誘いだった——。 冷たい孤独を抱く男と、誰よりも穏やかに生きる女。 遠ざけられた地で、ふたりの心は少しずつ寄り添いはじめる。 そして、帝をめぐる陰謀の影がふたたび都から伸びてきたとき、 梓乃は自分の選んだ“幸せの形”を見つけることになる——。 香と花が彩る、しっとりとした雅な恋愛譚。 濡れ衣で左遷された女官の、静かで強い再生の物語。

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

家族の肖像~父親だからって、家族になれるわけではないの!

みっちぇる。
ファンタジー
 クランベール男爵家の令嬢リコリスは、実家の経営手腕を欲した国の思惑により、名門ながら困窮するベルデ伯爵家の跡取りキールと政略結婚をする。しかし、キールは外面こそ良いものの、実家が男爵家の支援を受けていることを「恥」と断じ、リコリスを軽んじて愛人と遊び歩く不実な男だった 。  リコリスが命がけで双子のユフィーナとジストを出産した際も、キールは朝帰りをする始末。絶望的な夫婦関係の中で、リコリスは「天使」のように愛らしい我が子たちこそが自分の真の家族であると決意し、育児に没頭する 。  子どもたちが生後六か月を迎え、健やかな成長を祈る「祈健会」が開かれることになった。リコリスは、キールから「男爵家との結婚を恥じている」と聞かされていた義両親の来訪に胃を痛めるが、実際に会ったベルデ伯爵夫妻は―?

処理中です...