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一章(エレオノール視点)
ペレという男
しおりを挟む部屋に入ると、男はベッドにエマを座らせた。向かいの椅子に座った男は自らをペレだと名乗った。
直ぐに偽名だと分かった。ペレは、この国では犬に付ける名だからだ。
「お前の名は?」
「エマです」
「本名は?」
「エマです」
ペレは鼻で笑った。
「当ててやろう。お前の本当の名は、ココットだ」
どきりとした。言い当てられるよりも、ひやりとする。
よりもよって、その名を聞かされるとは。
「…違います」
「そうか」
ペレは気のなさそうに足を組んだが、途端に意地悪く笑った。
「なら勝手にココットと呼ぶ」
「私はエマです」
「いくらで買ったと思ってるんだ。名前くらいどう呼んだって構わんだろ」
ココット。蘇る下卑た笑い声。エマは服を握りしめた。頭に血が上る。
「おやめください」
「何言ってんだ。現王妃の名だぞ。光栄だろ?」
「恐れ多いことでございます」
「他にエレオノールという王妃もいたそうだが、お前は娼婦だからな。娼婦あがりのココットの方がお似合いだろ」
エレオノール。その名が偶然出されたとは思えなかった。何か、誘導しようとしているのではと気づく。エマは怒りを抑え、冷静になろうと努めた。
「ペレさん、偽名ですよね?」
「まぁな」
あっさり認めたペレに、エマは彼を観察した。
褐色の肌、黒い髪。そんな特徴を持つ近隣の国はアビア国ぐらいだ。異教徒の国で、今までも何度か諍いを起こしてきた。今は小競り合いで済んでいるが、これからはどうなるか分からない。緊張状態が続いている。
「なら私は、あなた様をアデカとお呼びいたします」
ペレの顔がこわばる。その反応で、間違っていなかったと確信する。
アデカという名は、アビア国の現国王だ。代々あそこの王は同じ名前を継承する。
例えエマを不快にさせたのと同じ理由で無いにしても、ペレにしてみたら多少、思うところはあるだろう。良い悪いに関わらず。
「意趣返しか。やるな」
ペレは組んでいた足を解いた。
「私の名はエマです。ペレさんがどうしても私をココットとお呼びになるなら仕方ありません。私もアデカとお呼びします」
一瞬だけ視線が宙を泳ぐ。一拍の沈黙の後に、ペレは、ふっと息を漏らした。
「まぁ許してやろう。閨でもアデカと呼ばれるのは正直キツイ」
「そうおっしゃっていただけて私も安堵しました」
「ではエマ、改めて聞くが、この本は読めないんだな?」
ペレが持つラ・シーヌ語の詩の本。ディアナ教総本山でしか、今は使われていない言葉。
「正直に言いますと、発音は出来ます」
ペレは興味深げに片眉を上げた。
「ラ・シーヌ語の文字表記は母音と子音がはっきり分かれておりますので、音として声に出すことは可能です。発音のイントネーションは間違っているでしょうが」
「意味は理解出来るのか」
「いいえ。ですが辞書は売っておりますから、それさえ手に入ればペレさんでも翻訳は可能ですよ」
ラ・シーヌ語は、王宮でも最上位の言語に相当する。経典の原語であるから何度か読んできたし、国事の重要儀式などの決まり文句もラ・シーヌ語が使われている。もちろん王族の一員だったエマもいくつか暗誦していた。
ただ、詩の本であれば、リズムが重要になってくる。素人同然のエマが読んだ所でたいして役には立たないだろう。
エマの説明を聞いた上で、ペレは詩の本を渡してきた。本は薄いが、重厚な装丁だから重みをしっかりと感じた。
「読んでみろ」
「お耳汚しですが」
「そういう回りくどいのはいらん」
外の国の人らしい実直主義だ。エマは本を開いた。
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