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第38話 風を継ぐ瞳
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それは、世界が再び季節を思い出した年の初夏だった。
王都から百二十里ほど南、リリウム平原の果てに小さな町があった。
風の街デールがやがて「森と風の交界」と呼ばれるようになり、人と自然がともに暮らす新しい拠点となっていた。
そこには、風の向きを読む女と、その教えを受けた子どもたちがいた。
名をリィナ。かつて“選ばれし者”と呼ばれ、再構築の理を継いだ者。
「風はね、ただの空気の流れじゃない。誰かの想いの跡なんだよ。」
子どもたちが彼女の足元に集まり、真剣に耳を傾ける。
「森の木々も、草も、鳥も。風が吹くから声を出す。だからあなたたちも、風を感じるときには誰かの声を聞いているの。」
少女が小さな手を挙げる。「じゃあ、アレン先生の風もまだ吹いてるの?」
リィナは微笑んだ。
「もちろん。どんなに遠くても、願いのある風は消えない。あの人の風は、今も世界を旅してる。」
その夜。
祭りの準備を終えた街に、涼しい風が通り抜けた。
空気の中に焼き菓子と花の香りが混ざり、道いっぱいに吊るされた灯籠が揺れている。
今日は「再生の夜」――再構築からちょうど一年目を記念する日だ。
町じゅうが舞と詩で祝福を捧げる。
リィナは丘の上で一人座り、遠くを見ていた。
森の奥に光る小さな祭火、そのひとつひとつが命の灯のようだった。
膝の上には、手製の短冊帳がある。
リリアから贈られた「風綴り(ふうつづり)」――想いを風に乗せ、世界へ祈りを届ける新しい記録法だ。
紙に言葉を書くと、それが風と共に空へ昇り、他の地に届くという。
「……アレンさん。」
リィナはそっと筆を走らせた。
――あなたの教えてくれた世界は、まだ続いています。
――人は理を恐れず、生きることに迷いながらも前に進んでいます。
――私は風を繋ぐ者として、ここに残ります。
書き終えた瞬間、風が静かに頁をめくる。
短冊のひとつがふわりと浮かび、夜空へ消えた。
◇
一方その頃、東の国境近く。
灰色の岩山に囲まれた谷道を、一頭の馬車が走っていた。
その荷台の中で、アレンは顔を上げる。
風が吹くたびに、頬に当たる糸のような冷気が、彼に昔の戦場を思い出させた。
王都を出て数ヶ月、彼は各地の地脈を調べる旅を続けていた。
理の安定化はおおむね成功していたが、世界全体に“風穴”と呼ばれる空白地帯が残っていた。
馬車の御者台から声がかかる。
「アレン様、今夜は峠の小屋で休まれますか?」
「頼む。夜霧が降りる前に火を焚こう。」
馬車を停めると、アレンは装備の袋から地図を広げた。
印のついた点のひとつが、わずかに光っている。それは古い再構築装置の残滓。
「まだ、沈まないか……。」
指先で光に触れると、空気が低く唸る。
まるで地の底に誰かの寝息があるような音だった。
彼は辺りを調べ、岩影に小さな裂け目を見つける。
中は洞窟のように暗く、奥から微かな光が漏れていた。
アレンは杖を掲げ、慎重に足を踏み入れる。
道の先に、古い石碑が倒れていた。
表面には“理統継承”の文字と、不明な印章。
その印に見覚えがあった。
「……リュシアの、時代のものだ。」
その瞬間、杖の竜紋が淡く光った。
洞の中に風が流れ、彼の耳に声が届く。
“またここまで来たのね、アレン。”
それは遠い、懐かしい音だった。
「リュシア……あなたですか。」
“ええ。あなたが守った理は、人の世界で生き始めた。でもね、完全じゃない。夢を見るものは、夢に呑まれる。あなたがこれから行く場所には、次の“理”が眠ってる。”
「次の理……?」
“世界が“選ぶ理”。私でも、神でもない。ただ人々が紡いだ祈りそのもの。”
風が静まり、光が消える。
アレンは目を閉じてその響きを記憶に焼き付けた。
風が教える導き。それは再構築の理よりも、もっと古く、もっと優しい“約束”のように思えた。
◇
翌日、アレンは山を降り、西辺境の渓谷へと向かった。
途中の集落で立ち寄った宿屋の老人が話しかけてくる。
「あんたが噂の“歩く書記”かね? あちこちで風が言ってたよ。金の羽根を持った男が、世界の傷を縫い合わせてるって。」
アレンは少し笑って答えた。
「そんな格好よくはないですよ。ただの修繕屋です。」
老人は首を振り、温かいスープを差し出した。
「修繕か。だがそういう人がいるかぎり、この世はまだ壊れきらんさ。」
夜、寝床に横になると、窓から吹く風が彼の頬を撫でた。
どこかで歌声が聞こえる。
夢の中で、アレンは緑の丘に立っていた。
風の中に小さな光が舞い上がり、リィナの声が重なる。
“風の街より挨拶を。いま、風綴りで願いを送ります。――どうか、次に吹く風もあなたの背を押しますように。”
目を覚ますと、胸の前で薄い光が揺れていた。
風綴りの欠片。誰かの祈りが流れ着いたものだ。
アレンの頬に、思わず笑みが浮かぶ。
「風は、“記憶”なんですね。」
◇
旅が続く。
荒野の果て、海の縁、森の奥。
どこへ行っても、アレンは風の中に“誰かの想い”を感じ取れるようになった。
ある時は、復興途中の村で出会った少年が、父の残した風綴りを胸に語った。
「風は嘘をつかないって、お父さんが言ってた。」
別の時には、記録院の使者と再会し、彼女たちが世界中の風を集めて“新しい暦(こよみ)”を作っていることを聞いた。
その暦の一日一日には、風の名がつけられている――再生暦の新しい形だ。
風が響くたびに、アレンの胸にはひとつの確信が芽生えていく。
人はもう理に囚われず、自らの声で世界を描ける。
その証こそが“記す文化”――物語を繋ぎ、願いを残す力だ。
ある夕方、アレンは丘の上で立ち止まり、空を仰いだ。
太陽が沈む寸前、雲の向こうに細い光の道が伸びている。
それは彼が歩んできた軌跡にも見えた。
「リュシア、リィナ、ハイゼル、リリア……みんな、生きている証を残した。」
言葉は風に混ざり、遠くへと消える。
彼はゆっくりと杖を立て、地面に再構築陣の簡易型を描く。
「風の中の全てへ――感謝を。」
風が逆巻き、青と金の光がひとつに重なった。
やがて空に一羽の鳥が生まれ、風を掴むように舞い上がる。
その翼には、彼の書いた小さな符が貼られていた。“継承”。
「これでいい。風は、君たちが続けてくれる。」
◇
夜、焚き火を囲みながら、アレンは星を見上げた。
旅路はまだ続く。けれどもう焦りはない。
世界が人の手に戻り、風が物語を運ぶようになったことで、彼の役目はひとつの終わりを迎えている。
それでも、風は知らせてくれるだろう。
新しい誰かが、次の物語を始めるその時を。
「……さて、そろそろ帰る時かな。」
小さく呟き、荷をまとめる。
地平線の彼方に風の街の灯が見えた気がした。
あそこには森と子どもたち、そしてリィナがいる。
風が頬を撫で、まるで背中を押すように吹いた。
アレンは杖を握り直し、再び歩き出す。
その瞳には、風を継ぐ者の柔らかな光が宿っていた。
――新しい時代が始まる。
理ではなく、風によって。
その声が、空いっぱいに広がっていった。
王都から百二十里ほど南、リリウム平原の果てに小さな町があった。
風の街デールがやがて「森と風の交界」と呼ばれるようになり、人と自然がともに暮らす新しい拠点となっていた。
そこには、風の向きを読む女と、その教えを受けた子どもたちがいた。
名をリィナ。かつて“選ばれし者”と呼ばれ、再構築の理を継いだ者。
「風はね、ただの空気の流れじゃない。誰かの想いの跡なんだよ。」
子どもたちが彼女の足元に集まり、真剣に耳を傾ける。
「森の木々も、草も、鳥も。風が吹くから声を出す。だからあなたたちも、風を感じるときには誰かの声を聞いているの。」
少女が小さな手を挙げる。「じゃあ、アレン先生の風もまだ吹いてるの?」
リィナは微笑んだ。
「もちろん。どんなに遠くても、願いのある風は消えない。あの人の風は、今も世界を旅してる。」
その夜。
祭りの準備を終えた街に、涼しい風が通り抜けた。
空気の中に焼き菓子と花の香りが混ざり、道いっぱいに吊るされた灯籠が揺れている。
今日は「再生の夜」――再構築からちょうど一年目を記念する日だ。
町じゅうが舞と詩で祝福を捧げる。
リィナは丘の上で一人座り、遠くを見ていた。
森の奥に光る小さな祭火、そのひとつひとつが命の灯のようだった。
膝の上には、手製の短冊帳がある。
リリアから贈られた「風綴り(ふうつづり)」――想いを風に乗せ、世界へ祈りを届ける新しい記録法だ。
紙に言葉を書くと、それが風と共に空へ昇り、他の地に届くという。
「……アレンさん。」
リィナはそっと筆を走らせた。
――あなたの教えてくれた世界は、まだ続いています。
――人は理を恐れず、生きることに迷いながらも前に進んでいます。
――私は風を繋ぐ者として、ここに残ります。
書き終えた瞬間、風が静かに頁をめくる。
短冊のひとつがふわりと浮かび、夜空へ消えた。
◇
一方その頃、東の国境近く。
灰色の岩山に囲まれた谷道を、一頭の馬車が走っていた。
その荷台の中で、アレンは顔を上げる。
風が吹くたびに、頬に当たる糸のような冷気が、彼に昔の戦場を思い出させた。
王都を出て数ヶ月、彼は各地の地脈を調べる旅を続けていた。
理の安定化はおおむね成功していたが、世界全体に“風穴”と呼ばれる空白地帯が残っていた。
馬車の御者台から声がかかる。
「アレン様、今夜は峠の小屋で休まれますか?」
「頼む。夜霧が降りる前に火を焚こう。」
馬車を停めると、アレンは装備の袋から地図を広げた。
印のついた点のひとつが、わずかに光っている。それは古い再構築装置の残滓。
「まだ、沈まないか……。」
指先で光に触れると、空気が低く唸る。
まるで地の底に誰かの寝息があるような音だった。
彼は辺りを調べ、岩影に小さな裂け目を見つける。
中は洞窟のように暗く、奥から微かな光が漏れていた。
アレンは杖を掲げ、慎重に足を踏み入れる。
道の先に、古い石碑が倒れていた。
表面には“理統継承”の文字と、不明な印章。
その印に見覚えがあった。
「……リュシアの、時代のものだ。」
その瞬間、杖の竜紋が淡く光った。
洞の中に風が流れ、彼の耳に声が届く。
“またここまで来たのね、アレン。”
それは遠い、懐かしい音だった。
「リュシア……あなたですか。」
“ええ。あなたが守った理は、人の世界で生き始めた。でもね、完全じゃない。夢を見るものは、夢に呑まれる。あなたがこれから行く場所には、次の“理”が眠ってる。”
「次の理……?」
“世界が“選ぶ理”。私でも、神でもない。ただ人々が紡いだ祈りそのもの。”
風が静まり、光が消える。
アレンは目を閉じてその響きを記憶に焼き付けた。
風が教える導き。それは再構築の理よりも、もっと古く、もっと優しい“約束”のように思えた。
◇
翌日、アレンは山を降り、西辺境の渓谷へと向かった。
途中の集落で立ち寄った宿屋の老人が話しかけてくる。
「あんたが噂の“歩く書記”かね? あちこちで風が言ってたよ。金の羽根を持った男が、世界の傷を縫い合わせてるって。」
アレンは少し笑って答えた。
「そんな格好よくはないですよ。ただの修繕屋です。」
老人は首を振り、温かいスープを差し出した。
「修繕か。だがそういう人がいるかぎり、この世はまだ壊れきらんさ。」
夜、寝床に横になると、窓から吹く風が彼の頬を撫でた。
どこかで歌声が聞こえる。
夢の中で、アレンは緑の丘に立っていた。
風の中に小さな光が舞い上がり、リィナの声が重なる。
“風の街より挨拶を。いま、風綴りで願いを送ります。――どうか、次に吹く風もあなたの背を押しますように。”
目を覚ますと、胸の前で薄い光が揺れていた。
風綴りの欠片。誰かの祈りが流れ着いたものだ。
アレンの頬に、思わず笑みが浮かぶ。
「風は、“記憶”なんですね。」
◇
旅が続く。
荒野の果て、海の縁、森の奥。
どこへ行っても、アレンは風の中に“誰かの想い”を感じ取れるようになった。
ある時は、復興途中の村で出会った少年が、父の残した風綴りを胸に語った。
「風は嘘をつかないって、お父さんが言ってた。」
別の時には、記録院の使者と再会し、彼女たちが世界中の風を集めて“新しい暦(こよみ)”を作っていることを聞いた。
その暦の一日一日には、風の名がつけられている――再生暦の新しい形だ。
風が響くたびに、アレンの胸にはひとつの確信が芽生えていく。
人はもう理に囚われず、自らの声で世界を描ける。
その証こそが“記す文化”――物語を繋ぎ、願いを残す力だ。
ある夕方、アレンは丘の上で立ち止まり、空を仰いだ。
太陽が沈む寸前、雲の向こうに細い光の道が伸びている。
それは彼が歩んできた軌跡にも見えた。
「リュシア、リィナ、ハイゼル、リリア……みんな、生きている証を残した。」
言葉は風に混ざり、遠くへと消える。
彼はゆっくりと杖を立て、地面に再構築陣の簡易型を描く。
「風の中の全てへ――感謝を。」
風が逆巻き、青と金の光がひとつに重なった。
やがて空に一羽の鳥が生まれ、風を掴むように舞い上がる。
その翼には、彼の書いた小さな符が貼られていた。“継承”。
「これでいい。風は、君たちが続けてくれる。」
◇
夜、焚き火を囲みながら、アレンは星を見上げた。
旅路はまだ続く。けれどもう焦りはない。
世界が人の手に戻り、風が物語を運ぶようになったことで、彼の役目はひとつの終わりを迎えている。
それでも、風は知らせてくれるだろう。
新しい誰かが、次の物語を始めるその時を。
「……さて、そろそろ帰る時かな。」
小さく呟き、荷をまとめる。
地平線の彼方に風の街の灯が見えた気がした。
あそこには森と子どもたち、そしてリィナがいる。
風が頬を撫で、まるで背中を押すように吹いた。
アレンは杖を握り直し、再び歩き出す。
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