元亀戦記 江北の虎

西村重紀

文字の大きさ
3 / 35
第一章 初陣

しおりを挟む
 初夏、五月に入ったある日だった。
 平井定武の娘が郷に返されたことによって、浅井の逆心を知った六角義賢は、浅井方の佐和山城に伴中務少輔を派遣した。佐和山城を護る浅井方の城将は、百々内蔵助盛実だ。盛実の活躍もあり、浅井方は伴中務が率いる六角勢を追い返すことが出来た。
 佐和山城の合戦から暫く経ったある日、賢政は腹心の部下ともいえる遠藤直経を、小谷城下の清水谷の館に呼び寄せた。
「六角に尻尾を振る国人どもを切り崩せ」
 低い声で言うと、賢政は唇の端に薄い笑いを浮かべた。
 直経も薄笑いを浮かべ、
「承知仕った」
 と述べると、一礼した。
「まずは手始めに、肥田城の高野瀬備前辺りから切り崩せ」
「肥田の高野瀬でござるか?」
 直経は上目遣いで賢政を見詰めた。
 すると賢政は、にやりと笑って頷いてみせたのだ。
「流石は若殿、目のつけどころが違う」
 直経は感心したような口調で言う。
 肥田城主高野備前守秀隆は、主君六角義賢に対しかなりの不満を抱いていた。先の戦で武功を立てた父が討死したにも拘らず、何の恩賞もなかったからだ。
「戯言を申すでない、喜右衛門」
「戯言ではござらん。誉め言葉でござる」
「ふん」
 賢政は鼻を鳴らした。そして、地図を板敷の上に広げた。扇子を出して、肥田城を指した。
「六角が居城観音寺城までは凡そ二里(約七・八キロ)もない。目と鼻の先だ。喉元に刃を突き付けられ、左京大夫入道承禎(義賢)め、血相を変えて出て来るであろう。そこを叩く」
「若殿、上手くいきますかな?」
「彼奴めの気性なら、離反した輩を見過ごすことなど出来ぬ筈」
「……確かに」
 直経は小さく頷いた。
「早急に手を打ちます」
「うん。宜しく頼むぞ」
「心得ておりまする。万事お任せあれ」
 直経は満面に笑みを浮かべた。
 間もなくして、賢政の計画した通り、肥田城の高野瀬秀隆が六角方から浅井方に寝返った。
 肥田城は、北国街道に面した要所だった。ここを奪われると、六角氏は江北へ通じる街道を封じ込められることになる。
 六角承禎は、家督を譲った嫡男右衛門督四郎義弼を伴い、肥田城へ向けて観音寺城を出兵した。その数優に一万を超えていた。
 六角勢が目指す肥田城は、辺りを田畑に囲まれた平城だった。そこで承禎はある戦法を思い付いた。間もなく梅雨の時期が訪れる。肥田城の周囲に堤を築き、水攻めを行ったのだ。肥田城は、浮き城と化した。
 城主高野瀬秀隆は、浅井に後詰め(援軍)を要請した。しかし、それには及ぶことなく肥田城の合戦は終わった。
 九月十九日、肥田城の周囲を取り囲んでいた堤の一部が決壊してしまい、承禎が考案した水攻めは失敗に終わったのだ。
 その間、賢政は直経らに命じ、六角と国境を接する江州の国人を次々と調略していった。

 永禄三年(一五六〇)。
 賢政は離縁した平井の娘の代わりに、八重という名の女性を側室に迎えた。
 五月十二日。
 その日、駿河、遠江、三河の三国の太守今川治部大輔義元が、二万五千の兵を率いて駿府を発った。後日、その一報が、江北小谷城の賢政の許にも届いた。
「喜右衛門、その方の配下の細作(忍者)を尾張に放て」
「尾張に、でござるか……?」
 直経は怪訝気味に小首を傾げる。
「尾張の大うつけ殿が、今川治部殿相手に如何様に戦うか、確りと見て参れ」
「分かり申した」
 直経はこくりと頷いた。
 十日後。
 清水谷の浅井屋敷の寝所で、賢政が側室八重と身体を重ね情事に耽っていると、別室で控える宿直の咳払いが耳に届いた。薄い肌襦袢だけのあられもない姿となった、八重の小ぶりな乳房を揉みしだきながら、賢政は深淵に染まる襖障子に目を向けた。
 この夜の宿直は、元京極家被官の安養寺三郎左衛門氏秀の倅三郎左衛門氏種だった。
「若殿……」
 と氏種は声を押し殺し、襖障子越しに呼び掛けた。
「夜中に何用じゃ?」
 賢政は無粋者に声を掛ける。
「去る十九日、今川治部殿、尾張国田楽桶狭間にてご生涯遊ばれたようで……」
「何っ!」
 八重の乳房を揉む賢政の手が止まった。賢政に愛撫される八重も、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
「……いま一度申せ」
「去る十九日、今川治部殿、尾張国田楽桶狭間にてご生涯遊ばれたとの報せが、先刻、遠藤喜右衛門殿の使いの者から某の許に届きました」
「今川殿が討死……織田方が勝利したと申すのか……?」
 俄かには信じられず、賢政は我が耳を疑った。
 愛妾の顔を見詰める。すると八重は頷き、はだけた胸元を直した。賢政は湯帷子に袖を通し、立ち上がった。
「構わぬ、入れ」
「ご無礼仕る」
 襖障子が開いた。暗闇の中、人影が動く。
「子細を申せ」
「ははっ」
 氏種は一礼すると、桶狭間の合戦の経緯を説明した。
「十九日未明、尾張清須城を発った織田上総介殿は、雷鳴が轟き驟雨が降りしきる最中、田楽桶狭間山の今川方本陣を襲撃、治部大輔義元殿の首級を上げたとのこと」
「何と凄まじき……」
 賢政は、織田信長という男の戦いぶりを耳にして、全身の血が沸騰するかのような感覚になり、身体が熱くなるのを自覚した。
「尾張の大うつけとの噂は、某も耳にしておりましたが、まさか今川殿を討ち取るとは思いもよりませなんだ」
 氏種は感心したように何度も首を縦に振った。
「三郎左衛門、このあと織田がどう動くか探れ、と喜右衛門申し伝えよ」
「仰せの儀承知仕った」
「よし、下がれ」
「ははっ」
 氏種は深々と恭しく一礼すると、退室した。
 宿直が去ったあとも、賢政の興奮は冷めず、気持ちが高まったままだった。結局、この夜は一睡も出来ず朝を迎えることになった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

件と秀吉

西村重紀
歴史・時代
予知能力があるとされる妖怪『件』と秀吉の話です 本能寺の変が起こることを件の予知によって知った黒田官兵衛が、 中国大返しを行い秀吉を天下人にするまでの物語です

傾国の女 於市

西村重紀
歴史・時代
信長の妹お市の方が、実は従妹だったという説が存在し、その説に基づいて書いた小説です

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

道誉が征く

西村重紀
歴史・時代
南北時代に活躍した婆沙羅大名佐々木判官高氏の生涯を描いた作品です

奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏
歴史・時代
気が付くと遠江二俣の松井家の明星丸に転生していた。 戦国時代初期、今川家の家臣として、宗太は何とか生き延びる方法を模索していく。 桶狭間のバッドエンドに向かって…… ※この物語はフィクションです。 氏名等も架空のものを多分に含んでいます。 それなりに歴史を参考にはしていますが、一つの物語としてお楽しみいただければと思います。 ※2024年に一年かけてカクヨムにて公開したお話です。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...