元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第一章 初陣

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 夏――。
 本格的に六角が浅井討伐に向けて動き出した。向かう先は、昨年水攻めに失敗したあの肥田城だった。
 噎せ返るような熱気も少し和らいだ八月半ば過ぎ、六角勢二万五千の将兵は、肥田城を取り囲むように布陣した。
 肥田城を護る城将高野瀬秀隆は、昨年同様直ちに、浅井に後詰め(援軍)を要請した。
 その日の夕刻までに、肥田城から援軍要請の使者が小谷城に訪れた。ところが、久政は、秀隆が遣わした使者になかなか会おうとはしなかった。小谷城下の清水谷の館で、白拍子の舞を肴に酒を呷っている始末だ。
「捨ておけ。昨年のように堤が破れ、直に兵を引くであろう」
 と悠長なことを口走っている。
 痺れを切らした中老の赤尾清綱が、舌打ちしたあと詰め寄った。
「お屋形様っ、最早は一刻の猶予もござらんっ!」
 清綱は血相を変え、綱を飛ばしながら強い口調で捲くし立てた。
 すると一瞬、久政の酒で赤く染まった顔が強張った。
「ぶ、無礼であろう……孫三郎」
 と清綱の仮名を口にする久政の手が止まった。杯を持つ手が小刻みに震え、中の酒が零れた。
「ここで出遅れとなれば、肥田城を失うばかりでなく、続く高宮、目加田、更には佐和山城、遂にはこの小谷も六角の手に落ちるは必定。然もすればお屋形様の御首級も」
 清綱は、久政の双眸を見据え恐ろしく低い声で告げた。
「儂の首も……」
 久政は震える声で言いながら、自らの手で首筋をそっと撫で、身震いした。
「……相分かった。主だった者を城に集めよ。早急に軍評定を開く」
「承知仕ったっ」
 清綱は一礼したあと、むくっと立ち上がり踵を返すと、久政の前から立ち去った。

 半刻(一時間)後、主だったか家臣が、小谷城本丸主殿の評定の間に集まった。
 上座には浅井家当主の久政が、酒に酔った赤ら顔のまま胡坐を掻いている。
「先刻、肥田の高野瀬備前守から遣いが参り、後詰めの要請があった。皆の意見を聞きたい」
「今、肥田城を見捨てる訳にいかぬ」
 浅井一門衆の浅井石見守与次郎亮親が意見を口にした。
「石見殿に賛同致す」
 雨森弥兵衛清貞が発言した。
「ここは、お屋形様御自らが兵を率いて肥田救援に向かわれるが宜しかろう」
 海北善右衛門綱親が、上座の久政の顔を見据え言った。
「この儂がか……」
 久政は少し躊躇する。
 すると、末席に座る遠藤直経が声を張り上げ、
「各々方、若君新九郎様も御年十六とおなり遊ばしました。初陣の頃合いかと存じ上げ奉りまする」
 と自らの存念を口にした。
「新九郎の初陣か……」
 久政は右隣に座る嫡男賢政の凛とした横顔を見詰めた。
「お父上っ、某、以前も申し上げた通り、六角と一戦に及ぶ覚悟は既に出来ております。何卒、お許し願いとうございます」
「……ふむ」
 久政は渋面のまま低い声で唸った。
「まだ、早い気もするが……」
 久政が小声で呟く。
「父上っ!」
 痺れを切らした賢政が唸り声を上げた。
「相分かった……其方の好きに致せ」
 このあとの軍議の主導権は、臆病な久政に代わり賢政が握ることになった。
「陣触を出せっ」
 賢政は力を込め唸った。
「おうっ」
 清綱以下重臣たちが声を揃え応えた。
 陣触は数回に分けて出された。
 戦国時代、陣触を出すと同時に、領民に対し『着到状』なるものを渡していた。兵農分離が完了する以前は、戦闘に参加する兵士は主に領地の農民だった。そのため、『着到状』を渡し、鍬、鉈、縄、槍等の武具、更に腰兵糧持参させ、城に集合させた。
 一度目の陣触は、小谷城での軍評定が終了した直後だった。赤尾清綱たち評定に参加した各武将は、太鼓や銅鑼、狼煙などを用いてそれぞれの領内に陣触が出たことを伝えた。
 陣触が出ると、農民たちは農作業を中止して戦に備えた。
 二度目の陣触は、翌日の正午過ぎだった。太鼓や銅鑼の音を聞いたり、狼煙などを見たりした領民は、直ぐ武具を整えた。
 三度目の陣触は夕刻だった。領民たちは具足を身に纏い戦支度を整えると、皆小谷城に集まった。その数凡そ六千である。
 軍師に当たる軍配者が、出陣前に吉日を占った。浅井家の場合、海北綱親がそれに当たる。
 一度目の陣触が出された直後から、綱親は主君賢政のお側近くで、戦での勝利を願うため、加持祈祷を執り行い、合戦の日取りや天候を占う卜占を行った。
 賢政は、側室八重の方を遠ざけた。命懸けの合戦の前に、女性の身体に触れることは、身が穢れるとされ態と遠ざけたのだ。
 翌早暁、先祖伝来の龍頭紫裾濃威之兜、黒漆塗紺糸縅胴丸に身を固めた賢政は、小谷城下清水谷に建つ神社に足を運んだ。神前で戦の勝利を誓うのだ。所謂出陣式である。
 東の方角に置いた床机に腰掛け、式三献を執り行った。
 勝栗、打鮑、昆布の三つの肴と酒が用意され、三々九度を行った。
 最後に神前に立った賢政は、右手に扇を持ち、左には弓を持ち、
「えい、えいっ」
 と大声を発した。
 それに合わせるように、甲冑に身を固めた家臣たちも、
「おうっ!」
 と掛け声を出した。
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