元亀戦記 江北の虎

西村重紀

文字の大きさ
3 / 39
第一章 初陣

しおりを挟む
 初夏、五月に入ったある日だった。
 平井定武の娘が郷に返されたことによって、浅井の逆心を知った六角義賢は、浅井方の佐和山城に伴中務少輔を派遣した。佐和山城を護る浅井方の城将は、百々内蔵助盛実だ。盛実の活躍もあり、浅井方は伴中務が率いる六角勢を追い返すことが出来た。
 佐和山城の合戦から暫く経ったある日、賢政は腹心の部下ともいえる遠藤直経を、小谷城下の清水谷の館に呼び寄せた。
「六角に尻尾を振る国人どもを切り崩せ」
 低い声で言うと、賢政は唇の端に薄い笑いを浮かべた。
 直経も薄笑いを浮かべ、
「承知仕った」
 と述べると、一礼した。
「まずは手始めに、肥田城の高野瀬備前辺りから切り崩せ」
「肥田の高野瀬でござるか?」
 直経は上目遣いで賢政を見詰めた。
 すると賢政は、にやりと笑って頷いてみせたのだ。
「流石は若殿、目のつけどころが違う」
 直経は感心したような口調で言う。
 肥田城主高野備前守秀隆は、主君六角義賢に対しかなりの不満を抱いていた。先の戦で武功を立てた父が討死したにも拘らず、何の恩賞もなかったからだ。
「戯言を申すでない、喜右衛門」
「戯言ではござらん。誉め言葉でござる」
「ふん」
 賢政は鼻を鳴らした。そして、地図を板敷の上に広げた。扇子を出して、肥田城を指した。
「六角が居城観音寺城までは凡そ二里(約七・八キロ)もない。目と鼻の先だ。喉元に刃を突き付けられ、左京大夫入道承禎(義賢)め、血相を変えて出て来るであろう。そこを叩く」
「若殿、上手くいきますかな?」
「彼奴めの気性なら、離反した輩を見過ごすことなど出来ぬ筈」
「……確かに」
 直経は小さく頷いた。
「早急に手を打ちます」
「うん。宜しく頼むぞ」
「心得ておりまする。万事お任せあれ」
 直経は満面に笑みを浮かべた。
 間もなくして、賢政の計画した通り、肥田城の高野瀬秀隆が六角方から浅井方に寝返った。
 肥田城は、北国街道に面した要所だった。ここを奪われると、六角氏は江北へ通じる街道を封じ込められることになる。
 六角承禎は、家督を譲った嫡男右衛門督四郎義弼を伴い、肥田城へ向けて観音寺城を出兵した。その数優に一万を超えていた。
 六角勢が目指す肥田城は、辺りを田畑に囲まれた平城だった。そこで承禎はある戦法を思い付いた。間もなく梅雨の時期が訪れる。肥田城の周囲に堤を築き、水攻めを行ったのだ。肥田城は、浮き城と化した。
 城主高野瀬秀隆は、浅井に後詰め(援軍)を要請した。しかし、それには及ぶことなく肥田城の合戦は終わった。
 九月十九日、肥田城の周囲を取り囲んでいた堤の一部が決壊してしまい、承禎が考案した水攻めは失敗に終わったのだ。
 その間、賢政は直経らに命じ、六角と国境を接する江州の国人を次々と調略していった。

 永禄三年(一五六〇)。
 賢政は離縁した平井の娘の代わりに、八重という名の女性を側室に迎えた。
 五月十二日。
 その日、駿河、遠江、三河の三国の太守今川治部大輔義元が、二万五千の兵を率いて駿府を発った。後日、その一報が、江北小谷城の賢政の許にも届いた。
「喜右衛門、その方の配下の細作(忍者)を尾張に放て」
「尾張に、でござるか……?」
 直経は怪訝気味に小首を傾げる。
「尾張の大うつけ殿が、今川治部殿相手に如何様に戦うか、確りと見て参れ」
「分かり申した」
 直経はこくりと頷いた。
 十日後。
 清水谷の浅井屋敷の寝所で、賢政が側室八重と身体を重ね情事に耽っていると、別室で控える宿直の咳払いが耳に届いた。薄い肌襦袢だけのあられもない姿となった、八重の小ぶりな乳房を揉みしだきながら、賢政は深淵に染まる襖障子に目を向けた。
 この夜の宿直は、元京極家被官の安養寺三郎左衛門氏秀の倅三郎左衛門氏種だった。
「若殿……」
 と氏種は声を押し殺し、襖障子越しに呼び掛けた。
「夜中に何用じゃ?」
 賢政は無粋者に声を掛ける。
「去る十九日、今川治部殿、尾張国田楽桶狭間にてご生涯遊ばれたようで……」
「何っ!」
 八重の乳房を揉む賢政の手が止まった。賢政に愛撫される八重も、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
「……いま一度申せ」
「去る十九日、今川治部殿、尾張国田楽桶狭間にてご生涯遊ばれたとの報せが、先刻、遠藤喜右衛門殿の使いの者から某の許に届きました」
「今川殿が討死……織田方が勝利したと申すのか……?」
 俄かには信じられず、賢政は我が耳を疑った。
 愛妾の顔を見詰める。すると八重は頷き、はだけた胸元を直した。賢政は湯帷子に袖を通し、立ち上がった。
「構わぬ、入れ」
「ご無礼仕る」
 襖障子が開いた。暗闇の中、人影が動く。
「子細を申せ」
「ははっ」
 氏種は一礼すると、桶狭間の合戦の経緯を説明した。
「十九日未明、尾張清須城を発った織田上総介殿は、雷鳴が轟き驟雨が降りしきる最中、田楽桶狭間山の今川方本陣を襲撃、治部大輔義元殿の首級を上げたとのこと」
「何と凄まじき……」
 賢政は、織田信長という男の戦いぶりを耳にして、全身の血が沸騰するかのような感覚になり、身体が熱くなるのを自覚した。
「尾張の大うつけとの噂は、某も耳にしておりましたが、まさか今川殿を討ち取るとは思いもよりませなんだ」
 氏種は感心したように何度も首を縦に振った。
「三郎左衛門、このあと織田がどう動くか探れ、と喜右衛門申し伝えよ」
「仰せの儀承知仕った」
「よし、下がれ」
「ははっ」
 氏種は深々と恭しく一礼すると、退室した。
 宿直が去ったあとも、賢政の興奮は冷めず、気持ちが高まったままだった。結局、この夜は一睡も出来ず朝を迎えることになった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

傾国の女 於市

西村重紀
歴史・時代
信長の妹お市の方が、実は従妹だったという説が存在し、その説に基づいて書いた小説です

道誉が征く

西村重紀
歴史・時代
南北時代に活躍した婆沙羅大名佐々木判官高氏の生涯を描いた作品です

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

処理中です...