2 / 35
第一章 初陣
二
しおりを挟む
年が明けた永禄二年(一五五九)正月。
浅井久政の嫡男猿夜叉丸は、齢十五にして元服のその時を迎えることになり、その名を浅井新九郎賢政と改めた。この折、岳父となる平井右兵衛尉定武が烏帽子親を務めた。
賢政元服後間もなくして、定武の娘との祝言が清水谷の館にて恙なく執り行われた。婚礼の儀式の当日、賢政は初めて妻となる女性の顔を見た。良くもなく悪くもない、平凡な女性だった。名は萩の御前という。
祝言から一ヵ月後、梅の花が咲き始めた頃だった。賢政は遠藤喜右衛門直経を伴って遠駆けに出掛けることにした。
二人は、辰の刻(午前八時)に馬を連ね、小谷城を発った。
暫くの間、無言で馬を走らせた。
「若君」
と直経が声を掛け、馬を寄せた。
「如何致した喜右衛門?」
馬の手綱を引きながら、賢政は併走する直経に尋ねた。
「近頃の殿は、白拍子に熱を入れておられるようにお見受け致しまする」
「左様か……」
吐き捨てるように言うと、賢政は馬の尻に鞭を入れた。
「これでは政が疎かになり申す」
直経が苦言を呈した。
「ならば一度、俺の口から父上に申し上げておこう。女子もよいが政を疎かになさらぬように、と」
体温の低い声で言ったあと、賢政は鞭を入れ更に馬を責め立てた。
虎御前山、山本山を越え、琵琶湖の畔尾上辺りまで走らせた。
目の前に広がる冬の湖は、鈍色に輝いていた。
目を凝らすと、湖面に数十羽の鳰が泳ぐ姿が見える。その遥か彼方に竹生島の影があった。
奥琵琶湖の方に視線を移すと、寒空に暗澹たる雲が垂れ込めていた。雷鳴が轟いた。
「雪起こしの雷か……」
「左様で」
直経が相槌を打つ。
「雪が降り出す前に城へ戻ると致すか」
賢政は唇の端に薄く笑みを作った。
直経は小さく頷いた。
数日後、賢政は平井の娘を離縁した。彼女に何の落ち度もなかったが、故あって離縁するに至った。
「何故、室を郷に返したっ」
案の定、父久政が清水谷の賢政の屋敷に乗り込んで来て、鬼の形相で叱りつけた。
「六角殿に如何に申し開き致す所存じゃ、新九郎?」
「父上、某は六角と手を切るつもりでござる」
賢政は父久政を見詰めたまま、毅然とした態度で答えた。
息子の真意を聞いた途端、久政の顔から一気に血の気が引いていき、忽ち蒼白となった。よろよろとよろめき、足下が覚束ない。
「殿、大丈夫でござるか?」
この場に同席する中老赤尾美作守孫二郎清綱が、心配そうに声を掛けた。
この赤尾清綱と、海北善右衛門綱親、雨森弥兵衛清貞の三名が、所謂浅井三将である。
「若殿は、六角殿と合戦に及ぶお覚悟があると……?」
清綱が賢政の双眸を見据え尋ねた。
すると賢政は、無言のまま小さく頷いた。
「勝つ自信はある」
賢政は澱みのない明瞭な言葉で告げた。
「近頃の若殿は、尾張の大うつけにかぶれてござる」
賢政の母方の叔父に当たる井口経親が、渋面を作り苦言を呈した。
賢政の母は、阿古の方(小野殿)といい、経親の姉に当たる。
井口一族は、高時川左岸の豪族だった。享禄四年(一五三一)の箕浦の合戦に於いて亮政が六角頼定と対峙した際、経親の父井口越前守経元が主君の身代わりとなって討死した。戦後、亮政はその恩に報いるため、経元の娘阿古を嫡男久政の正室として迎え入れたのだ。斯くして天文十四(一五四五)に誕生した男子が、猿夜叉丸のちの浅井長政(賢政)だった。
祝言のあと阿古の方は、夫久政が六角氏に恭順の意を示すため、人質として観音寺城下で生活していた。賢政は観音寺城下で生まれ、そこで幼少期を過ごした。
人質として六角氏のお膝元で過ごし、辛酸を舐めた日々を思い出すと、賢政は肩の震えを覚えずにはいられなかった。
「叔父上……」
賢政は、叔父経親を睨みつけた。
「大うつけを買い被り過ぎでござる。所詮、うつけ者はうつけ、直ぐに一色左京大夫(斎藤義龍)殿に討たれ、織田は滅びる」
経親は、信長を高く評価する甥賢政を嘲笑った。
「されど叔父御、左京大夫の父蝮の道三入道は、彼の仁を――」
と賢政が言った言葉に、経親が被せた。
「山城守殿は見誤ったのでござる。それ故、倅左京大夫殿に敗れた」
「叔父上、其方が何と申されようと、もう既に決したこと。六角と手を切る」
「若殿、今一度お考え直しを」
経親は真顔で訴えた。
「早まるでない新九郎……」
久政は苦渋に満ちた表情になった。
「父上が何を申されようとも、某は六角と縁を切るっ」
「新九郎……」
久政は息子の名を口にすると、然も残念そうに大きく溜め息を吐いた。
結局、この日久政は、息子を説得することが出来ず退散した。
浅井久政の嫡男猿夜叉丸は、齢十五にして元服のその時を迎えることになり、その名を浅井新九郎賢政と改めた。この折、岳父となる平井右兵衛尉定武が烏帽子親を務めた。
賢政元服後間もなくして、定武の娘との祝言が清水谷の館にて恙なく執り行われた。婚礼の儀式の当日、賢政は初めて妻となる女性の顔を見た。良くもなく悪くもない、平凡な女性だった。名は萩の御前という。
祝言から一ヵ月後、梅の花が咲き始めた頃だった。賢政は遠藤喜右衛門直経を伴って遠駆けに出掛けることにした。
二人は、辰の刻(午前八時)に馬を連ね、小谷城を発った。
暫くの間、無言で馬を走らせた。
「若君」
と直経が声を掛け、馬を寄せた。
「如何致した喜右衛門?」
馬の手綱を引きながら、賢政は併走する直経に尋ねた。
「近頃の殿は、白拍子に熱を入れておられるようにお見受け致しまする」
「左様か……」
吐き捨てるように言うと、賢政は馬の尻に鞭を入れた。
「これでは政が疎かになり申す」
直経が苦言を呈した。
「ならば一度、俺の口から父上に申し上げておこう。女子もよいが政を疎かになさらぬように、と」
体温の低い声で言ったあと、賢政は鞭を入れ更に馬を責め立てた。
虎御前山、山本山を越え、琵琶湖の畔尾上辺りまで走らせた。
目の前に広がる冬の湖は、鈍色に輝いていた。
目を凝らすと、湖面に数十羽の鳰が泳ぐ姿が見える。その遥か彼方に竹生島の影があった。
奥琵琶湖の方に視線を移すと、寒空に暗澹たる雲が垂れ込めていた。雷鳴が轟いた。
「雪起こしの雷か……」
「左様で」
直経が相槌を打つ。
「雪が降り出す前に城へ戻ると致すか」
賢政は唇の端に薄く笑みを作った。
直経は小さく頷いた。
数日後、賢政は平井の娘を離縁した。彼女に何の落ち度もなかったが、故あって離縁するに至った。
「何故、室を郷に返したっ」
案の定、父久政が清水谷の賢政の屋敷に乗り込んで来て、鬼の形相で叱りつけた。
「六角殿に如何に申し開き致す所存じゃ、新九郎?」
「父上、某は六角と手を切るつもりでござる」
賢政は父久政を見詰めたまま、毅然とした態度で答えた。
息子の真意を聞いた途端、久政の顔から一気に血の気が引いていき、忽ち蒼白となった。よろよろとよろめき、足下が覚束ない。
「殿、大丈夫でござるか?」
この場に同席する中老赤尾美作守孫二郎清綱が、心配そうに声を掛けた。
この赤尾清綱と、海北善右衛門綱親、雨森弥兵衛清貞の三名が、所謂浅井三将である。
「若殿は、六角殿と合戦に及ぶお覚悟があると……?」
清綱が賢政の双眸を見据え尋ねた。
すると賢政は、無言のまま小さく頷いた。
「勝つ自信はある」
賢政は澱みのない明瞭な言葉で告げた。
「近頃の若殿は、尾張の大うつけにかぶれてござる」
賢政の母方の叔父に当たる井口経親が、渋面を作り苦言を呈した。
賢政の母は、阿古の方(小野殿)といい、経親の姉に当たる。
井口一族は、高時川左岸の豪族だった。享禄四年(一五三一)の箕浦の合戦に於いて亮政が六角頼定と対峙した際、経親の父井口越前守経元が主君の身代わりとなって討死した。戦後、亮政はその恩に報いるため、経元の娘阿古を嫡男久政の正室として迎え入れたのだ。斯くして天文十四(一五四五)に誕生した男子が、猿夜叉丸のちの浅井長政(賢政)だった。
祝言のあと阿古の方は、夫久政が六角氏に恭順の意を示すため、人質として観音寺城下で生活していた。賢政は観音寺城下で生まれ、そこで幼少期を過ごした。
人質として六角氏のお膝元で過ごし、辛酸を舐めた日々を思い出すと、賢政は肩の震えを覚えずにはいられなかった。
「叔父上……」
賢政は、叔父経親を睨みつけた。
「大うつけを買い被り過ぎでござる。所詮、うつけ者はうつけ、直ぐに一色左京大夫(斎藤義龍)殿に討たれ、織田は滅びる」
経親は、信長を高く評価する甥賢政を嘲笑った。
「されど叔父御、左京大夫の父蝮の道三入道は、彼の仁を――」
と賢政が言った言葉に、経親が被せた。
「山城守殿は見誤ったのでござる。それ故、倅左京大夫殿に敗れた」
「叔父上、其方が何と申されようと、もう既に決したこと。六角と手を切る」
「若殿、今一度お考え直しを」
経親は真顔で訴えた。
「早まるでない新九郎……」
久政は苦渋に満ちた表情になった。
「父上が何を申されようとも、某は六角と縁を切るっ」
「新九郎……」
久政は息子の名を口にすると、然も残念そうに大きく溜め息を吐いた。
結局、この日久政は、息子を説得することが出来ず退散した。
10
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
奥遠の龍 ~今川家で生きる~
浜名浅吏
歴史・時代
気が付くと遠江二俣の松井家の明星丸に転生していた。
戦国時代初期、今川家の家臣として、宗太は何とか生き延びる方法を模索していく。
桶狭間のバッドエンドに向かって……
※この物語はフィクションです。
氏名等も架空のものを多分に含んでいます。
それなりに歴史を参考にはしていますが、一つの物語としてお楽しみいただければと思います。
※2024年に一年かけてカクヨムにて公開したお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる