元亀戦記 江北の虎

西村重紀

文字の大きさ
19 / 35
第四章 永禄の変

しおりを挟む
 七月二十八日、覚慶は亡き兄義輝の近臣一色藤長、細川藤孝らの手により幽閉先の興福寺から脱出した。脱出に手を貸したのは、甲賀の地侍和田弾正忠惟政であった。
 惟政は、嘗て仕えていた六角氏を頼り、覚慶主従を近江国甲賀郡にある自身の居城にて匿った。次いで、十一月二十一日に甲賀郡から野洲郡矢島に移った。
 翌永禄九年(一五六六)二月十七日、覚慶は矢島御所に於いて還俗すると足利義秋と名乗った。更に四月二十一日には、秘かに調停に働き掛けた結果、従五位下左馬頭に叙任、任官した。
「和田、予はいつになったら将軍の座に就ける」
 聡明な義秋は、窮屈な山里暮らしに飽きたらしく、このところ日課のように惟政に愚痴を溢していた。
「今暫く、今暫くお待ちを」
 惟政には、今のところ義秋を宥める言葉を掛けることしか、術はなかった。
「六角、江北の浅井、美濃の斎藤、越前の朝倉、尾張の織田、甲斐の武田、越後の上杉に渡りをつけよ。予が早急に上洛出来るよう手筈を整えよ」
 義秋は、右手に持った扇子を上下に振りながら、癇癪玉が破裂したように真っ赤に顔を染め、早口で捲くし立てた。
 矢島御所にいた義秋は、当時対立関係にあった各地の戦国大名たちを和解させ、一刻も早い上洛をと考えていたのだ。その手先となって動いたのが、和田惟政や細川藤孝、一色藤長といった奉公衆や御供衆たちだった。
「細川殿、某は尾張小牧山城へ向かいまする」
 惟政が言うと、藤孝は小さく頷き、口を開いた。
「ならば拙者は、江北の浅井を回り、次いで美濃に入り斎藤に」
「いいえ、稲葉山の斎藤には某が話をつける。ご貴殿は、江北に向かったその足で、若狭の武田、越前の朝倉へ」
「心得た」
「宜しくお願い致す」
 惟政は盟友細川藤孝に深々と頭を下げた。
「然らばこれにてごめん」
 藤孝が腰を上げようとすると、惟政は彼を呼び止めた。
「待たれよ、細川殿。湖国の山道は何処も深くて険しい。道案内が必要であろう」
「道案内でござるか……」
 藤孝は怪訝そうに惟政の馬面を見詰めた。
「入られよ」
 と言って、惟政は手のひらを叩いた。
 突如背後の障子が開いた。藤孝は振り返り視線を向けた。一人の青年が両膝を突き、座っていた。
「この御仁は……?」
 藤孝が訝し気に尋ねる。
「犬上郡佐目の豪族、明智十郎左衛門殿のご子息じゃ」
「明智十兵衛でござる」
「細川与一郎じゃ」
 藤孝は、身分卑しき地侍の小倅を蔑むような目で見詰めた。
「某が、細川殿を無事小谷まで案内致しましょう」
 光秀は酷薄な唇の端に薄ら笑いを浮かべた。
「某、浅井家のご家中に知り合いがおりまする」
「左様か……」
 藤孝は吐き擦れるような口調で言った。

 数日後、小谷城下の清水谷の浅井屋敷で、藤孝と光秀の両名は長政と対面することになった。その場には、直経の顔もあった。
「細川兵部大輔殿か、このような山国にようこそお越し下された」
 長政は、足利家被官の藤孝に対し、少しへり下った態度をとった。
「して、本日のご用の趣きは……?」
 長政は藤孝の顔を凝視した。更に、彼の下座で控える地侍の異常な目つきが気になった。
「有体に申し上げれば、早々に六角殿と和議を結ばれ、矢島のおわす義秋公を奉じ、上洛の途に就いて頂きとう願いに上がった次第で」
「六角と和議を……積年の恨みを水に流し」
 と藤孝の従者が付け加えた。
「口が過ぎるぞ、十兵衛」
「この者は?」
「江州犬上郡佐目の住人、明智十兵衛でござる」
 光秀は、長政を前にして臆することなく名乗った。
「明智とやら、相分かった。水に流そう……されど、六角承禎入道殿が不承知と申されるのであれば仕方ない」
「その義はご心配なく」
 光秀に代わり藤孝が答えた。
「さて、お二方はこのあと何処に向かわれる」
「若狭の武田殿と、越前の朝倉殿の許へ」
「朝倉殿の許でござるか……ならば、我が父下野に頼み、添え書きを認め貰おう。父と朝倉殿とは入魂の間柄故」
「これは心強い。是非ともお願い申し上げる」
 藤孝は、双頬を綻ばせ喜びの声を上げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

件と秀吉

西村重紀
歴史・時代
予知能力があるとされる妖怪『件』と秀吉の話です 本能寺の変が起こることを件の予知によって知った黒田官兵衛が、 中国大返しを行い秀吉を天下人にするまでの物語です

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

傾国の女 於市

西村重紀
歴史・時代
信長の妹お市の方が、実は従妹だったという説が存在し、その説に基づいて書いた小説です

道誉が征く

西村重紀
歴史・時代
南北時代に活躍した婆沙羅大名佐々木判官高氏の生涯を描いた作品です

奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏
歴史・時代
気が付くと遠江二俣の松井家の明星丸に転生していた。 戦国時代初期、今川家の家臣として、宗太は何とか生き延びる方法を模索していく。 桶狭間のバッドエンドに向かって…… ※この物語はフィクションです。 氏名等も架空のものを多分に含んでいます。 それなりに歴史を参考にはしていますが、一つの物語としてお楽しみいただければと思います。 ※2024年に一年かけてカクヨムにて公開したお話です。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...