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第一章
十
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弘治元年(一五五六)十一月二十六日。
信光が甥信長から譲り受けた那古屋城に入ってから約一年半が経とうとした頃だった。
正室北の方が、家臣坂井孫八郎と密通しているとの噂を信光は耳にした。
始めは、
「まさか、それはあるまい。あの女に限って……?」
と信光は否定する。
ところがである。桜井松平家から北の方が信光の許へ嫁いで来た折、侍女としてついて来た女が、北の方の部屋から絶頂を迎える時に発する女の喘ぎ声を聞いたと証言したのだ。
「間違いなのじゃなっ!?」
信光は、北の方付の侍女を問い詰める。
「は、はい……」
信光に睨まれた侍女は、否定することなく頷いた。
「誰じゃ、我が妻と密通に及ぶ不埒者めはっ? どこの誰じゃーーーーっ!?」
頭に血が上った信光は、肩をわなわなと震わせ激昂する。
この時代、男性が側室を持つことは当たり前とされていたが、その逆は大罪に当たる。
「その者の名を申せぇっ!」
唾を撒き散らしながら信光は叫んだ。その手には名のある刀工が鍛えた業物が握られている。
光り輝く白刃を見た侍女は、信光のあまりの剣幕に怯え、声を発することも出来ない。
「早う申せっ。申さぬかぁぁーっ! 言わねばそちを斬るっ!」
「ひいぃぃぃぇぇぇぇぇーっ」
侍女は叫び声を発し、その場に平伏した。
「言えっ、早うその者の名を申せぇぇーっ!」
咆哮すると同時に信光は、太刀を振り上げた。
「さ、坂井孫八郎様にございます……」
侍女は板張りの上に額ずいたまま、声を震わせ告白した。
「坂井孫八郎じゃと……?」
信光は眉根を寄せ、徐に首を傾げる。
「はい」
侍女は上目遣いで信光を見やってコクリと頷いた。
正直なところ解せぬのだ。
あの者が我妻と密通しておるだと……?
あの武骨者が……あり得ぬ。あの者に限って……。
信光は口を真一文字に閉じ、憮然と低い声で唸った。
「して、室は今何処におるか」
北の方付きの侍女に訊ねる。
「お方様は、巳の刻(午前十時頃)過ぎに、お出掛けになられました」
「出掛けたじゃと? 何処にかぁ?」
「さあ、亡き御父上様の供養のため、寺に経を上げに参るとか申されておられました」
「義父上の供養のため経を上げに参るじゃと……、これまた解せぬ。あの女が斯様に信心深かったとは思えぬ……ん? もしやっ!?」
那古屋城内では万が一にも、情事の真っ最中を目撃されては言い訳が出来ない。そこで信光は、正室北の方が城を抜け出し、城下の外れに建つ寺院仏閣で思いを寄せる男と密会する気ではないのかと考えた。
「もうよい、そちは下がれ。儂が今し方その方に問うたこと、一切他言無用と心得よ」
「……はい」
侍女が去ったあと、
「誰か、誰かおらぬかぁ!」
大声を上げ、信光は近習を呼んだ。
「殿、何事でございますか」
小姓が信光の許にやって来て訊ねた。
「孫八郎をここに呼べ」
信光は顎をしゃくりながら命じた。
「はぁっ」
小姓は一礼すると信光の前から消え去った。
主君の命を受けた小姓が訪ねた時、坂井孫八郎は那古屋城下の拝領屋敷にはいなかった。
「どこに行かれたのやら」
首を傾げながら独り言を呟くと、小姓は振り返り平山城である那古屋の本丸を見上げた。仕方ないから戻ろうかと思い、踵を返したその時だった。目の前には、編み笠を深く被った侍が突っ立っていた。
「はっ!? ご貴殿は……」
小姓は瞼を瞬かせる。
「その方、儂の屋敷の前で何をしておるのかっ!?」
編み笠を少し上げ、侍が睨みつける。
「坂井殿。殿が御貴殿をお召しになっておられる。早急に登場の支度を」
「……殿がぁ?」
孫八郎は如何にも怪訝そうに顔を顰めた。
「相分かった。直ぐに仕度を整え、登城致すとしよう」
孫八郎の意思を確かめると、小姓は一礼し城へ戻った。
小姓が去ったあと、孫八郎は一度屋敷内に入り、登城のための身支度を整えた。
「殿が俺をお召しと言うことじゃ。出掛けて参る」
素襖に着替えた孫八郎は妻子にそう告げた。
「お気をつけて」
玄関先まで妻に見送られ、孫八郎は登城した。
那古屋城本丸主殿謁見の間で、主君信光が現れるのを待っていると、先ほど孫八郎の許を訪れた小姓が応対に現れた。
「坂井殿、今暫くこの場にてお待ち頂けたい」
「うん」
孫八郎は短く頷く。
解せぬな。何故に殿はこの俺を呼びつけておいて斯様に待たせるのじゃ……、と思いつつ彼是半刻(約一時間)近く孫八郎は一人きりで信光が現れるのを待った。
信光が甥信長から譲り受けた那古屋城に入ってから約一年半が経とうとした頃だった。
正室北の方が、家臣坂井孫八郎と密通しているとの噂を信光は耳にした。
始めは、
「まさか、それはあるまい。あの女に限って……?」
と信光は否定する。
ところがである。桜井松平家から北の方が信光の許へ嫁いで来た折、侍女としてついて来た女が、北の方の部屋から絶頂を迎える時に発する女の喘ぎ声を聞いたと証言したのだ。
「間違いなのじゃなっ!?」
信光は、北の方付の侍女を問い詰める。
「は、はい……」
信光に睨まれた侍女は、否定することなく頷いた。
「誰じゃ、我が妻と密通に及ぶ不埒者めはっ? どこの誰じゃーーーーっ!?」
頭に血が上った信光は、肩をわなわなと震わせ激昂する。
この時代、男性が側室を持つことは当たり前とされていたが、その逆は大罪に当たる。
「その者の名を申せぇっ!」
唾を撒き散らしながら信光は叫んだ。その手には名のある刀工が鍛えた業物が握られている。
光り輝く白刃を見た侍女は、信光のあまりの剣幕に怯え、声を発することも出来ない。
「早う申せっ。申さぬかぁぁーっ! 言わねばそちを斬るっ!」
「ひいぃぃぃぇぇぇぇぇーっ」
侍女は叫び声を発し、その場に平伏した。
「言えっ、早うその者の名を申せぇぇーっ!」
咆哮すると同時に信光は、太刀を振り上げた。
「さ、坂井孫八郎様にございます……」
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「坂井孫八郎じゃと……?」
信光は眉根を寄せ、徐に首を傾げる。
「はい」
侍女は上目遣いで信光を見やってコクリと頷いた。
正直なところ解せぬのだ。
あの者が我妻と密通しておるだと……?
あの武骨者が……あり得ぬ。あの者に限って……。
信光は口を真一文字に閉じ、憮然と低い声で唸った。
「して、室は今何処におるか」
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「お方様は、巳の刻(午前十時頃)過ぎに、お出掛けになられました」
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「……はい」
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「孫八郎をここに呼べ」
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「はぁっ」
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