傾国の女 於市

西村重紀

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第二章

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 夫信光が、家臣坂井孫八郎に討たれたと言う一報を、北の方は那古屋城下のとある寺で聞いた。その時彼女は、その美貌を崩すことなく酷薄な肉厚の唇の端に妖艶な笑みを浮かべた。
 夫信光の耳に、坂井孫八郎との不義密通の噂話を入れた侍女の顏をチラリと見やった。
 蠱惑的な唇を動かし、
「今川方に使いを……、直ぐにこの那古屋に手勢をと」
「はい、承知致しましたお方様」
 侍女は不敵な笑みを浮かべると、目の前に座る北の方に一礼した。
 夫信光との間に儲けた愛娘於市は、乳母に命じ既にこの城を脱し、安全なところで匿っている。
 あとは清須城の信長に悟られる前に、今川方を那古屋城に手引き入れることだけだ。
 しかし事態は、北の方が描いていたこととは全く正反対の方向に動き出してしまった。
 信長という男は叔父信光を信用しておらず、彼の動向を探るため、数人の間者を那古屋城に忍び込ませていた。
 信長に仕える荒小姓の一人佐々内蔵助成政が、同じく前田犬千代とともに現れた。二人は傾奇者として名を馳せているため、地味な色の素襖ではなく派手な素襖を身に纏っている。
「御屋形様、昨日二十六日、那古屋城内にて豊後守様御生涯遊ばしましたとの由にっ」
 内蔵助が信長に報告する。
「……左様か。して叔母上は」
 信長が、叔父信光の正室で未亡人となった北の方の動向を訊ねた。
「駿府の今川方に使いを出されたとのことに」
「そうか、那古屋を今川方に売ったか」
「如何致します。熱田湊にて北の方の遣いの者を、某の手の者が捕らえておりまするが」
 犬千代が訊ねると信長は顔色一つ変えず、
「生かしたまま俺の前に連れて来い。あの女が言い逃れ出来ぬようにな」
 信長は未亡人となった北の方を断罪する気であった。
「ははっ」
 犬千代が平伏する。
「然らばこれにて御無礼仕る」
 立ち上がりその場を離れようとした二人を信長は呼び止めた。
「待て両人とも」
「まだ何か御用がお有りでござるか……」
「して、内蔵助よ、叔父御を斬った者の名は」
「坂井孫八郎にござる」
「あの武骨者の坂井か……。彼の者、どうしておる」
「豊後守様を討った後、何処かに逐電したとのこと」
「逐電したと……」
 信長は不機嫌に首を傾げる。
「内蔵助、その方が兄孫介に命じ、直ぐに討手を差し向けよっ」
「ははっ、承知仕った」
 信長の命を受けた内蔵助はその日のうちに次兄佐々孫介に君命を伝えた。孫介は、五人の討手に加わり、逆賊坂井孫八郎を討ち取った。

 信光亡き後未亡人となった北の方が、今川方の諸将を引き入れる前に手を打ち、宿老筆頭の林佐渡守秀貞を留守居役として那古屋城に入れた。
 信長の乳兄弟で小姓の池田勝三郎恒興恒興は、この処遇を不可思議に思い、
「御屋形様、何故林佐渡殿を那古屋に入れられたのでござるか」
 すると信長は、僅かに口許を弛め、薄い笑みを浮かべた。
 林秀貞は、信長誕生の折に、信秀がその傅役四人の中の一人に選んだ人物で、しかも筆頭と言う立場にあった。しかし、先年信秀が病死すると真っ先に信長を見捨て、勘十郎信勝の許へ奔った。そんな裏切り者の秀貞を、何故信長が那古屋城と言う要となる城を任せ、厚遇するのか恒興には理解出来なかったのだ。
「末森方は俺と織田家の家督争いの真っ最中ではあるが、先年謀殺された愚か者の彦五郎とは違い、今川と誼を通じる下手な真似はせぬ」
「つまり、林佐渡殿は、亡き豊後守様の奥方様のように、今川方に靡くような真似はせぬと仰せでござるか」
「然様、もしも仮に、今川に那古屋城を奪われたら取り返すのに骨が折れる。しかしじゃ、末森方を討つのは赤子の手を捻るに等しいわぁっ」
 信長は甲高い声を上げ、かかかかかぁーと笑った。
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