傾国の女 於市

西村重紀

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第二章

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 北の方は助命された後、里に返された。とは言っても既に桜井松平家はおろか宗家である岡崎松平家も落ちぶれ、今では三河は完全に今川に簒奪され支配下に置かれてしまった。
 実家に戻ったあとの北の方の消息は不明だった。恐らく何処ぞの豪族の許に再婚したのであろう。
 信長は、北の方を三河に追放する際、彼女と信光との間に出来た娘於市を妹として引き取った。
「何故御屋形様は於市様を引き取られましたか」
 庭で侍女たちに囲まれ遊ぶその姫を一瞥し、恒興が首を傾げながら問うた。
 信長は於市から視線を恒興に戻した。
「駒じゃ。将棋の持ち駒は多いに越したことはない」
 何れこの従妹が成長した暁には、信長は自分の妹として他家に嫁がせる気でいた。分別が理解出来る前に、強引な手段を用いて引き取ってしまえば、あとから何とでもなると踏んだのだ。

 織田信長という男には、家臣の心を自身の許に繋ぎ止めておくほどの人望はなかった。これは仕方がないことだ。父信秀の葬儀に、その位牌に抹香を投げつけ、襁褓の頃から彼を育て上げた傅役に愛想を尽かされ、挙句の果てに諌死までされたのだから、人心は離れていくに決まっている。
 これについては、信長自身が態とそのように振る舞った感もある。理由は、自身の味方となる人物と敵となる人物を見極めるためだ。
 叔父信光と組んで清須城を乗っ取った直後、亡き父信秀、諌死した傅役平手政秀の代わりに信長を支えたその叔父信光も横死した。
 更に追い打ちを掛けるように、弘治二年(一五五六)四月二十日、正室帰蝶の父斎藤道三が世を去った。息子義龍と長年に亘り対立を深めた結果、長良川の合戦に於いて道三は討死したのだ。
 これで完全に信長に味方する者はいなくなった。
 岳父道三救援のため、出陣していた信長は、自らが織田勢の殿しんがりを務め、その日のうちに清須城に引き上げた。
「於濃っ! 其方の父上は新九郎殿の手勢に討たれたっ」
 清須城内の本丸御殿の廊下を、信長は甲冑を身に着けたまま歩き、甲高い声で唸った。
「……殿、ご無事で何より」
 帰蝶は奥の部屋から廊下へ出て、夫信長を出迎えた。彼女の他にも、数人の女(おなご)がいた。帰蝶の傍らには、父を失い、母を追放され、天涯孤独となった於市が立っていた。帰蝶はこの憐れな姫を、本当の妹のように可愛がった。
「舅殿は、俺に遺言状を認めたそうじゃ」
「遺言状?」
 帰蝶は怪訝そうに首を傾げる。
「義姉上様、遺言状とは一体……?」
 於市が帰蝶の袖を引っ張った。
「市っ。我が舅殿はこの三郎信長に美濃一国を譲ると遺言状に書いた」
「まあぁ」
 信長の言葉を受け、於市ではなく帰蝶が忽ちその美貌に驚きの色を浮かべた。
 蝮の道三と謳われた戦国の梟雄は、愛娘帰蝶が信長の許の嫁ぐ際、引き出物として懐剣を贈り、下知があり次第信長を刺し殺せと申しつけたことがあった。その道三が死の間際、信長に一通の遺言状を残した。
「これで美濃を攻める大義名分が手に入った。於濃っ、暫く我慢しろ。必ずやこの俺が父上の仇を討ってやる」
 信長は言い終わると、視線を帰蝶から於市に移した。
 キョトンした表情で従兄を見やる於市に、珍しく信長は笑みを向けた。

 この頃於市は、馬に乗った従兄信長の後を、徒で追い掛ける顔が猿に似た青年をよく目にするようになった。
 ある日、仲の良い帰蝶に訊ねてみると、
「それは恐らく藤吉郎のことですね」
「藤吉郎?」
「殿の身の回りの世話をする小者です」
「小者の藤吉郎か……」
 未だ邪気なさの残る於市は、自分でも何故か分からないが、その猿面冠者を甚く気にいったのだ。そして自らも信長が口にするように、藤吉郎のことを猿と呼んでは無邪気に燥いでいた。
「猿、妾のために花を摘んで来てくれたのか」
 於市は、猿面冠者が手に握る野の花を見て優しく微笑んだ。
「はい、姫様」
 藤吉郎は、小者として信長に仕える合間をみて、於市のために花や果実、時には蝶々や蜻蛉と言った虫の類を獲って来た。
「ありがとう、猿殿」
「勿体のうございます姫様。やつがれ如き下人の分際に」
 藤吉郎は地べたに額を擦りつけ平伏した。
「妾は、其方のことが好きですよ……」
「僕(やつがれ)に斯様なお言葉を……於市様……」
 藤吉郎は両目に涙を浮かべ、清須城本丸御殿へと続く渡り廊下に立っているその少女を見上げた。
「さあ、姫様参りましょ」
 お付きの侍女に声を掛けられ、於市は名残惜しく藤吉郎を見やった。
 頷くと於市は、侍女たちとともに御殿へ向けて歩き出した。
 またある日、清須城本丸奥御殿の庭で於市が侍女たち数人と遊んでいると、従兄信長が渡り廊下を歩きこちらに向かって来た。眉毛を釣り上げた険しい顔つきだ。その証拠に、米神辺りに癇癪皺が出ている。
 お手玉で遊ぶ従妹於市の楽し気な姿を見やり、信長は庭に下りようとした。するとどこからもなくあの猿に似た雑人がやって来た。そして主人の草履を差し出した。信長がその草履を履こうと足を下ろした。
「むっ!? 猿っ、この慮外者めがぁっ!! その方は雑人の分際で主の履物を尻に敷いておったのかぁっ!?」
 突然信長は怒り狂い、藤吉郎に駑馬を浴びせながら鉄拳を喰らわせた。
「ひひひいぃぃぃぃぃーっ」
 悲鳴を上げると、藤吉郎は庭に仰向けで転がり、
「御屋形様の御御足が御寒いかと思いまして、やつがれの懐で抱いて温めておりました」
「ちっ、小賢しい真似を致すな、猿っ」
 信長は、太刀を鞘ごと腰から抜き取り、鞘で藤吉郎の肩を叩いた。
「申し訳ございません御屋形様、猿めが出過ぎた真似を致しました」
 藤吉郎はその場で玉砂利の上に額を擦りつけるように平伏した。
「……ふん」
 信長は藤吉郎を一瞥すると、於市の許に足を寄せた。
「市、少しは離れたか、清須の暮らしに」
「はい」
 於市は頷き、
「あの従兄あに上様、何故従兄上様猿殿に酷く当たるですか、猿殿が可哀想……」
「市は余程猿が御気に召すとみた。違うか」
「はい、妾は猿殿が好きです。だってあの方は妾の申すことは何でも聞いて下さるのです」
「然様か……。おいっ、猿聞いたか、いつまでそんなところで畏まっておる。こっちへ来ぬか」
 信長は於市から藤吉郎に視線を移しながら少し弾んだ声で言った。
「はっははぁっ」
 藤吉郎は信長の許へ飛んで行き、その隣に立つ美少女の足下で平伏した。
「俺は、これから佐久間と会わねばならぬ。どうやら末森城の辺りがきな臭くなって来た」
 言い捨てると、信長は於市の頭を数回撫でて、本丸主殿の方に向かって歩き出した。
 於市は、従兄の後ろ姿を目で追った。そして、信長の姿が見えなくなると、足下で額ずく藤吉郎を見た。
「痛くなったですか、猿殿」
「姫様に御言葉を掛けて頂き、この猿めは果報者でございます」
 藤吉郎は噎び泣きながら、於市の足下で何度も頭を下げた。
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