呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

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 ソフィアを覆い隠すこともできそうなほど大柄な男が、感情の起伏を見せない声をあげた。男の声は、場を痺れつかせるような低い声だ。

 ダークグレイの髪の間から、琥珀色の瞳が覗いている。

 彼の先祖は大狼であったらしい。初めて彼を見たとき、ソフィアは圧倒的な王者の気品にあっけなく我を忘れかけた。もう二度とあのような失態は演じないと誓ったが、今となってはこの男が唯一の弱点であるとしたほうが都合がいい。

 顔を合わせた瞬間にわずかにソフィアの表情が強張る。

 演じるまでもなく、彼女はいまだにこの男の発するオーラを不得手としていた。一切の感情が排除された瞳は静謐な色を浮かべているはずが、どこか獰猛で危険な匂いを発している。

「貴女が出ざるを得ないほどの火急の騒ぎがありましたか」

 男の声を聞いたソフィアは、ゆったりと近づいてくる男を努めて視界から追い出しつつ、口を噤む。

 彼がわざと、この場を見れば明白であるようなことを問うてくるのは、ソフィアがこの男——ルイス・ブラッドの声を聞くだけで震えあがることを知っているからだろう。

 ソフィアは期待に応えるように身体を震わせて、扇子を開き直す。

「マリア、戻りましょう」

 ソフィアの言葉に、マリアが静かに応答する。

 ソフィアはその姿を見やったのち、その場に立つルイスの言葉を無視する形で歩みを進めた。


 魔術師団と獣軍が共同訓練を行うことになると聞かされた時、ソフィアは初めにルイス・ブラッドのことを思い返していた。一度も出逢ったことのない男だが、この先も出逢うことはないものだと思い込んでいた。

 おそらく、この国に住まう全ての者が、出逢うべきではない二人だと思っていることだろう。

 ゆえに、言葉を交わした記憶もそう多くない。

 これまでにソフィアが聞いたルイスの言葉の全ては、彼女の残虐な行動を諫めるために掛けられたものだ。

 そのうち獣軍の者たちも、おそらく魔術師たちも、ソフィアの暴挙を確実に止められるのは獣軍の司令官であるルイス・ブラッドただ一人だと考えるようになった。

「嫌なものを見て疲れたわ。モリスさん、今日は自主訓練として頂戴」
「ええ、そう致しますわ。ソフィア様はゆっくりお休みになってくださいまし」

 マリアに適当な言い訳をして一人になったソフィアは、自室へと足を向けて、部屋の鍵を閉める。たった一人になった瞬間、指先に震えが襲い掛かってきた。

「……ダニエルは問題ないわね」

 己に言い聞かせるような声が響いた。ふらふらとカウチに倒れ込み、大きく息を吐き下ろす。

 その姿は稀代の悪女とは似ても似つかぬほどに頼りない。

 無意識に下ろしていた瞼を押し上げたソフィアは気だるげな指先で簡単な魔法を描き出し、テーブルの引き出しから一枚の洋紙を呼び寄せた。

 その紙にリスト化された氏名の中から、ダニエル・ドレスデンの名が消される。

 当初この紙を埋め尽くすほどに書き記されていた人名は半分以上が削除されている。半年でここまでの判別を終わらせることができたのは重畳だ。

 ようやく安堵の息を吐き下ろしたソフィアは、指先の震えが収まったのを見て、やおら立ち上がった。


 獣軍と魔術師団の先鋭たちは、日々、互いに手を取り合いながら共に訓練を続けていくわけだが、当然ソフィアはその輪の中に入るつもりなどない。

 総司令官という役割は、実際にはソフィアよりもルイス・ブラッドにふさわしい。だが、それを口にする者はいない。無論、その理由は、ソフィアが可憐な令嬢であるためではなく、彼女が権力をほしいままにする悍ましい悪女であるからだ。

 ソフィアはドレッサーの前に立ち、己の皮膚に施された厚化粧を見やって指先を弾いた。瞬時に仮面が剥がれていく。

 今年19歳を迎える乙女とは思えぬほどに濃い化粧を剥がせば、ようやくソフィアはその表情から刺々しさを失くした。すでに、険のある表情が癖になっているのだ。

「よっぽど死にたいのかしら」

 少し前に己が口にした言葉をもう一度囁いたソフィアは、盛大に顔を顰めて鏡から目をそらした。

 もしもあの場にルイスが現れなければ、己は何を仕出かしていただろうか。来ると知っていて行ったものではあったが、ソフィアはあの言葉の先に、己がどのような行動を取るべきだったのか、自分でもあまり考えることをしたくなかった。

 ——フローレンス家の悪女が聞いて呆れる。

 己を嘲笑したソフィアは、フローレンス家当主から送られてきたディナーへの招待状を宙に浮かせてしばらく眺めたのち、出席の意をペンに書かせて、窓から飛ばした。

 フローレンス家のディナーとは、この世で最も悪趣味な晩餐会だ。

 フローレンス公爵家は、この国——グラン帝国一の魔術師の家系であり、帝王の忠臣と名高い家門だ。しかし、獣人がこのグラン帝国へ居住の地を移すこととなったとき、最も大きな禍根を残した家でもある。

 その昔、フェガルシアという獣人の国が度重なる飢饉と悪辣な天候の煽りを受けて、居住の地を失った。その際に助けを求めたのが我がグラン帝国だ。隣国ではありながらも魔法を得意とする民族と、武力を重んじる民族とではそう多く交流がなかったため、グラン帝国の帝王は移民の受け入れに際して、一つの条件を設けた。

 それは、フェガルシア王をグラン帝国の公爵家の令嬢と婚姻させるというものだ。

 その公爵家がフローレンス家だ。当時の若きフェガルシア王はまだ妻を得ておらず、フローレンスの令嬢との婚姻も迷いなく了承したという。

 しかし、フローレンスの令嬢は婚姻を目前にして不審死を遂げた。身体を暴かれた痕跡を残し、腹が裂けた状態で実の兄に発見されたのだ。

 フローレンス家の令嬢とフェガルシア王が密かに思いを寄り添わせ始めているかに思えたその時に起った悲劇に、獣人も、グランの民も衝撃を受けたことだろう。

 渦中のフェガルシア王はフローレンスの令嬢の痛ましい最期に心を砕くこともなく、別の獣人と番い、情交に耽っていたという。

 これに怒りをあらわにしたフローレンス家は、直ちに帝王へ獣人の排斥を求めたが、その願いは叶わず、グランに住む獣人たちの右腕にプラチナの腕輪を装着させることを義務付けるまでに押しとどめられた。

 悲劇の歴史から100年が経過した今では獣人に対する差別的な視線も落ち着きを見せているが、裏ではまだ獣人たちを奴隷として扱う悪徳な貴族や商人たちがのさばっている。

 国の忠臣であるフローレンス家の怒りが沈められなければ、こうした悪辣な者たちを表立って摘発することも難しいのだ。

 帝王は怒れる忠臣の心を宥めるため、その娘と王子の婚約を約束している。ソフィアも、ユリウス王子の婚約相手として権力をほしいままにしているのだ。


 ソフィアはおどろおどろしい過去へ思いを馳せつつ、ユリウスへの中身のない手紙をペンに書かせながらゆったりと紅茶を嗜む。

 ソフィアは思う。

 己が悪女であれば、ユリウスは能無しの愉快犯だ。

 ソフィアをかのルイス・ブラッドと引き合わせたのはユリウスだ。退屈しのぎの遊びにしては悪趣味だが、悪趣味こそがユリウスの本質だ。

 “次にお会いできるのが楽しみだわ。貴方のフィーより”

 締めくくりの言葉をしっかりとペンに書かせて封を閉じる。

 ——ねえ、フィー、君も因縁の相手に会ってみたいだろう? フェガルシア王の落とし胤さ。名を、ルイス・ブラッドという。面白そうだろう?

 さも愉快そうなユリウスの言葉を思い返しつつ、ソフィアは窓を見やり、とっぷりと日が沈んだのを確認した。

 黒いローブを深く被って、躊躇いなく窓から外へ飛び降りる。

 実家ではできない芸当だが、この場に生きるソフィア・フローレンスならば誰一人咎める者もいない。

 ユリウスの気まぐれな遊びに呆れつつ、浮足立つ心を押さえて目的の場へと歩みを進めた。

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